国分坂ブログ

「歩くこと」「考えること」が好きな、国分坂です!

「参議院選挙」を「三つの正義」から読み解く!

みなさん、こんにちは!国分坂です。

いよいよ夏本番、暑さも厳しさを増してきました!

熱中症には、くれぐれもご注意くださいね!

 

さて先日、参議院選挙がなされましたね。

この参議院選挙についての「総括」は、専門家の方などにお任せしたいと思うのですが、私はこの前記した「三つの正義のスタイル」から、今回の参議院選挙を読み解いてみよう、と思いまして。

宜しければ、是非お付き合いください!

 

【過去の記事】

www.kokubunzaka.com

 

 

三つの正義とは

さて、本日お話する「三つの正義」とは、「功利主義」「自由原理主義」「定言的哲学理論(定言命法)」から導かれる「正義」のことであり、現代社会で掲げられる「正義」は、およそこの三つの正義に集約・分類できるのではないか、と考えております。

 

「功利主義」「自由原理主義」「定言的哲学理論」から導かれる「正義」について、それぞれごく簡単に以下まとめてみます。

 

「功利主義」における正義

「なるべく多くの人が、なるべく最大限の幸福を感じられる行為」

 

「自由原理主義」における正義

「誰にも侵害・阻害されることなく、自分の権利が尊重され、自分の権利を自由に処分できる状態」

 

「定言的哲学理論」における正義

「理性と普遍的な価値観から生じた絶対的な道徳的行為を、自分自身の良心に従い、義務感を持って行うこと」

 

それぞれ簡単に説明させて頂きますね。

 

「功利主義」とは、「最大多数の最大幸福」を求める考え方です。

なんらかの行為をする際には、なるべく多くの人が、なるべく幸福になれる方法を選択すべきだ、という考え方です。

つまり、「功利主義」からすると、「なるべく多くの人が苦痛よりも喜びを感じられるような社会を作っていくことが重要なのであり、それこそが正義である」、という考え方になります。

 

つぎに「自由原理主義」ですが、これは個人の権利を非常に尊重する考え方です。

「自分を所有するのは自分自身である。国家であっても、個人の権利を侵害することは許されない」という考え方です。

つまり、「自由原理主義」からすれば、「誰にも侵害されることなく自分の権利が尊重され、自分の権利が自由に行使・処分できる状態こそが正義である」、という考え方になるわけです。

 

最後が「定言的哲学理論」ですが、これは、「理性的で普遍的な価値観から導き出された「絶対的な道徳的行為」に基づき自律的に行動することが正しい行為である」という考え方です。

この「定言的哲学理論」はなかなか難しいのですが、「定言的哲学理論」を提唱したカントは、次の三つの要点を挙げています。

 

1.その行為の動機が「義務」に基づくものであること。

2.その行為は自ら規律した理性的法則に従ったもの(自律性)であること。(欲求・欲望などを原因とする「他律的」なものでないこと。)

3.その行為自体が理性的で普遍的価値に合致した行為(定言的)であること。(その行為が他の目的の手段としてなされる行為であれば、それは「仮言的」なものでしかなく、正しい行為とはいえない。)

 

つまり、「定言的哲学理論」からすると、「理性的・普遍的価値のある行為を、自らを律する理性的法則に従い、義務的に行うことが正義である」、という考え方になるのです。

 

 

日本社会における伝統的「正義」

さて、日本は「ある意味、世界でもっとも成功した社会主義的な国」などといわれたことがあります。

これは、「資本主義体制でありながら格差の少ない社会」という意味と、「民主主義体制でありながら規制が多く、国家の介入・統制が成功している社会」という意味とでいわれたようです。

 

おそらく、日本という国は、資本主義・民主主義という近代政治思想以前、封建社会の時代から、「個人よりも集団の利益保全を重視する社会」だったように思われます。

「個人よりも家」、「家よりも村」、といった集合体を重んじる考え方です。

個々の構成員よりも集合体を重んじる思想が、果たしていつ頃成立したのか、不勉強のため私には分からないのですが、おそらく江戸時代には確立していたのではないでしょうか?

(江戸幕府が採用した「五人組」などという連帯責任・相互扶助(相互監視)政策も、集合体を重んじる基盤造りに大きく作用したと考えられそうです。)

 

このような土壌があったため、日本では政治的思想として「功利主義」が根付きやすかった、と考えることができるのです。

「最大多数の最大幸福」の功利主義ですね。

なるべく多くの人が、なるべく幸福になれる社会をつくっていく。このような思想は、個人よりも集合体の利益を保全してきた日本社会に、とてもマッチした考え方だったのではないでしょうか。

 

与党「自民党」は功利主義?

そのように考えてみると、長らく日本社会をリードしてきた与党「自民党」は「功利主義」的政策を担ってきたはずだ、と推測できます。

 

ここで「自民党」の公約をちょっと見て見ましょう。

 

1.力強い外交・防衛で国益を守る

2.強い経済で所得をふやす

3.最先端をいく元気な地方をつくる

4.誰もが安心、活躍できる人生100年社会をつくる

5.災害から命・暮らしを守る

6.憲法改正を目指す

 

順に見て見ましょう。

1の「力強い外交・防衛で国益を守る」は「国益」という「みんなの利益」のことを言っています。功利主義ですね。

2の「強い経済で所得をふやす」は、個人の所得を増やすことが目的ですが、「強い経済」、すなわち「社会」を強化させることを重視しており、社会が強化されることで結果個人の所得も増える、という考え方だと思われます。よって、この公約も功利主義的な思想だといえます。

3の「最先端をいく元気な地方をつくる」も、「地方」という単位の集団を強化させることをいっており、功利主義的政策ですね。

4の「誰もが安心、活躍できる人生100年社会をつくる」も、主体は「社会」なんですね。つまり功利主義的政策です。

5の「災害から命・暮らしを守る」は、ここではじめて個々人を主体とした政策が出てきました。個人の命・権利を尊重する政策ですから、自由原理主義的な思想が入っている、と捉えることもできそうです。もしくは、災害から人の命や生活を守ることは道徳的に当然だ、という視点からであれば、定言的哲学理論からの政策、ともいえます。

6の「憲法改正を目指す」は、公約1~5に関連する条文改正ようですね。だとしたら、やはり、ほぼ功利主義的政策の一環、といえそうです。

 

このように、「自民党」の公約からは、「なるべく多くの人が、なるべく最大限の幸福を感じられる社会」の実現を目指す、という「功利主義」的正義が見受けられます。

 

このように見てみますと、やはり、日本の伝統的な社会的価値観、社会的正義感を担っているのが「自民党」、ということができそうです。(「保守」政党ですからね、順当といえるのかもしれません。)

 

3つの野党

与党「自民党」が「功利主義的正義」を掲げているようだ、としたうえで、今度は野党に目を向けてみましょう。

 

今回の参議院選挙でも、数多くの野党が登場しました。

そのなかでも、次の3つの野党を、今回は取り上げてみたいと思います。

 

1.NHKから国民を守る党

2.安楽死制度を考える会

3.れいわ新選組

 

(なお、「安楽死制度を考える会」は議席を獲得できず、政党要件も満たさなかったようですが、ここでは「野党」として扱わせて頂きます。)

 

さて、1の「NHKから国民を守る党」と2の「安楽死制度を考える会」は、ワン・イシューを掲げて闘うものとして、今回注目を浴びました。

ワン・イシューとは、ひとつの政策を前面に出し、その政策実現を目標とするものです。

 

「NHKから国民を守る党」が目指す政策は、その名が示すとおり「国民にNHKを利用しない権利を守ること」ということのようです。

つまり、「NHKの放送を観る観ない、NHKを利用するしないは、個人の自由であり、その自由を侵害し得るいかなる行為もゆるさない」という主張です。

これはまさに「自由原理主義」ですね。

「自分を所有するのは自分自身である。国家であっても、個人の権利を侵害することは許されない」という「自由原理主義」的観点から、法律(放送法)でNHK受信契約を義務化し、それに基づく支払いを義務化することなど許さない、と主張するわけです。

 

「安楽死制度を考える会」の政策は、やはりその名が示すとおり、「安楽死制度の創設」を目指すことのようです。

日本においては「安楽死」は認められておりませんが、これを制度化して可能にしよう、というのが「安楽死制度を考える会」の主張です。

これも「自由原理主義」からの主張ですよね。

「自分を所有するのは自分自身である。国家であっても、個人の権利を侵害することは許されない」わけで、自分の命を自分で処分できないのはおかしい、という主張です。

 

奇しくも、ワン・イシューを掲げる「NHKから国民を守る党」と「安楽死制度を考える会」が、「自由原理主義」的正義を掲げての参戦であったことが分かりました。

 

では最後の一つ、3の「れいわ新選組」はどうでしょう?

「れいわ新選組」が目指す政策をみてみましょう。

 

1.消費税は廃止

2.安い家賃の住まい

3.奨学金チャラ

4.全国一律!最低賃金1500円

5.保育・介護・障がい者介助・事故原発作業員などの公務員化

6.一次産業戸別所得補償(食料自給率100%を目指す)

7.災害に備える

8.国土強靭化

9.デフレ脱却給付金支給

10.デフレ期財政金融政策(新規国債発行)

11.地位協定の改定

12.トンデモ法一括見直し・廃止

13.原発即時禁止

14.障がい者への合理的配慮徹底化

15.DV・虐待のない社会実現

16.児童相談所問題

17.動物愛護

 

・・うわあ、数が多い・・

いくつかにまとめて、見てみましょう。

 

消費税廃止(1)、安い賃金の住まい(2)、奨学金チャラ(3)、全国一律!最低賃金1500円(4)、保育・介護・障がい者介助・事故原発作業員などの公務員化(5)、デフレ脱却給付金支給(9)、障がい者への合理的配慮徹底化(14)、DV・虐待のない社会実現(15)は、どうでしょうかね。

これらは、「社会」より「個人」を重視した政策、ということになるのでしょうか?

「社会」を良くした結果「個人」も良くなる、という考え方ではなく、「個人」を尊重した「社会」をつくる、という考え方といえますでしょうか?

そうすると、「自由原理主義」的正義、とも見えそうですが、道徳的観点からの「弱者保護」の徹底、という視点が強く伺えますので、むしろ「定言的哲学理論」に基づく主張、と考えられそうです。

 

一次産業戸別所得補償(6)、災害に備える(7)、国土強靭化(8)、デフレ期財政金融政策(10)、地位協定の改定(11)、トンデモ法一括見直し・廃止(12)、原発即時禁止(13)、児童相談所問題(16)、動物愛護(17)は、総括すると「新しい社会制度の創設」、ということになりそうです。

ポイントは、与党とは違う「イデオロギー」に基づく社会制度を、創設しようと考えている点です。

どのような「イデオロギー」に基づくのかといえば、それは「庶民」や「社会的弱者」の立場を重視する思想のようです。

 

この考えは、「功利主義」から導かれる「少数者軽視」という考え方を批判する、カントの「定言的哲学理論」そのものといえます。

つまり、社会的弱者を保護することが「れいわ新選組」の政策の根底にあるのだとしたら、「れいわ新選組」は「定言的哲学理論」の正義を掲げている、と分析できます。

(「自由原理主義」は市場原理に則ることを原則とするため、「社会的弱者の保護」という視点を基本的に持ちません。むしろ、課税による富の分配をも否定するのが「自由原理主義」ですので、「自由原理主義」はどちらかといえば「強者の理論」といえます。)

 

今後の行方

以上、勝手ながら各政党の正義を分析してしまいました。

 

「自民党」は「功利主義」的正義

「NHKから国民を守る党」と「安楽死制度を考える会」は「自由原理主義」的正義

「れいわ新選組」は「定言的哲学理論」的正義

 

仮に、このような分析が正しいとしたら、次のようなことがみえてきます。

 

まず、「自由原理主義」正義を掲げた「NHKから国民を守る党」と「安楽死制度を考える会」とが、ワン・イシュー(一つの政策を前面に出すこと)を掲げたことも、納得できます。

「自由原理主義」は、「自分の権利の尊重」をなにより重視します。ゆえに、その裏返しとして「他者への干渉」も抑制的になるはずです。

「自分が干渉されたくないから、他者へも干渉しない」、という考えです。

そのため、「政府は必要最小限の機能のみを持てばよく、国家権力は小さければ小さいほど良い」という考え方になります。

「自由原理主義」からすれば、福祉政策などには、おそらくあまり興味がないはずです。

そして、自分が求める「個別の自由の実現」についてのみ、他者に賛同を求め、政治的な政策化を目指すことになるわけです。

そう、「小さな政府」を求める「自由原理主義」からすると、個別の政策実現を目指す「ワンイシュー型政党」が好ましいのですね。

 

もしもこの仮説が正しいとすると、「自由原理主義」的正義を掲げる「NHKから国民を守る党」は、掲げた政策以外の論点については、これといった主義主張を持たない可能性があります。

つまり、自分たちの自由の実現に手を貸してくれ、かつ、自分たちの自由を侵害しない政策であるならば、今後、どのような党とでも手を組み、離合集散も辞さない、というスタイルをとることになりそうです。

 

一方、「功利主義」的正義を掲げる自民党ですが、やはり伝統的正義を担っている以上、多少の修正はあったとしても、今後も変わらずに「多数重視(少数軽視)」的政策を採らざるを得ない、ということになるでしょう。

「社会を良くして、その結果、個人も良くなる」という考え方自体は悪くないと思います。

しかし問題は、「社会が良くなっていくスピードが、個人のスピード(人生)に間に合うのか?」ということと、「良くなった社会から発生した富を、適正に個人に分配できるのか?」という問題です。

これらの問題をクリアーできれば、「功利主義」的正義を掲げる自民党の未来も、もしかしたら明るいものになり続けるかもしれません。

 

最後に「定言的哲学理論」の正義を掲げる「れいわ新選組」ですが、ひっとしてひょっとすると、自民党最大のライバル政党にまで成長する可能性があるかもしれない、と個人的には思っています。

 

なぜなら、「功利主義」の最大のライバル的思想が「定言的哲学理論」だからです。

「功利主義」という古典的社会正義の問題点を指摘し打ち破ろうとする理論が、「定言的哲学理論」なのだと思います。

政治の世界が「公共哲学実現の場」であるとしたら、世界的潮流は「功利主義」と「定言的哲学理論」の対決、なのかもしれません。

(欧州で旋風を巻き起こしている「左派ポピュリズム」といわれる勢力は、ある程度「定言的哲学理論」に基づく主張をしているのではなかろうか? などとみているのですがどうでしょう?)

 

正直、「現在の野党」は惨憺たる状態、といわざるを得ません。

健全な与党を育てるためには、力強い野党が必要だと思っています。

二大政党制になるべきかどうかは難しい議論ですが、しかし、二大政党制に至らなくても、いまの野党の姿はちょっと酷いです。

単に「与党の批判」だけをしていては、残念ながら国民の支持を得ることは難しいでしょう。

 

むしろ、与党とは別の視点で社会を観て、全く異なる見地から、次々と政策を提言していく、といった姿勢が野党に求められるのだと思います。

そのためには、与党と違う「正義」に立脚した方が分かりやすい。

単なる与党批判ではなく、与党と違う「正義」に立脚し、その「正義」に基づき、ぶれることなく政策を打ち出していく。

その「正義」に賛同する国民が、一定数出てくるのだと思います。

 

そんなことをぼうっと以前から考えていましたが、「れいわ新選組」が出てきました。

一つ一つの政策は、うーむ、と思うものが多いのですが、その根幹が与党「自民党」とは違う「正義」に基づいているように思えたので、これは面白くなるかも、と期待しました。今回の参議院選が「前哨戦」であるとすると、次の衆議院選はちょっと面白くなるかも?と。

もちろん、まだまだ与党「自民党」を脅かす勢力にはならないでしょうが、既存の野党を飲み込んでいく存在にはなるかもしれないなあ、などと思ったり。

 

「定言的哲学理論」を掲げた「れいわ新選組」が動き回ることで、「功利主義」の「自民党」が気を引き締めてくれればいいなあ、と思っているわけです。

どうでしょうかね?

 

実のところ、私は政治についてはさほど興味を持っていなかったのですが、哲学的な視点を取り入れてみたら、「なにこれちょっとおもしろい!」となりましたので、ご紹介させて頂きました。

すみません、以上の分析・見解は、あくまでも国分坂の私見です。

「れいわ新選組」から「定言的哲学理論なんて掲げてないゾ!」と怒られてしまうかもしれませんが、私からはそう見えた、というわけで。

 

あと、ワンイシューを掲げた「自由原理主義」勢力、これも今後いろいろと台頭してくるかもしれませんね。

アメリカでは「自由原理主義」がかなりの勢力を形成している、なんて話をどこかで耳にしたのですが、果たして日本ではどうなるのでしょう?

 

政治のことは分からない、といいつつも、政治の世界が「公共哲学実現の場」になることを切実に祈っている国分坂でした!

みなさんは、如何お思いでしょうか??

 

というわけで、「参議院選挙」を「三つの正義」から読み解く!でした!

ここまでお付き合いを頂きまして、誠にありがとうございました!

 

【過去記事】

www.kokubunzaka.com

 

 

 

 

15歳の皆さん~! 3年後には「成人」ですよ~!!

みなさん、こんにちは~!国分坂です。

さて今回は、「成年年齢引き下げ」についてのお話です!

 

 

 

2022年4月1日改正法施行

2022(令和4)年4月1日より、成年年齢を「18歳」とする改正法が施行されます。

つまりですね、現在15歳の皆さんは、なんと、3年後には「成人」となるのです!

15歳といいますと、中学3年生、もしくは高校1年生でしょうか?

まさに青春時代に突入!という時期だと思いますが、なんと3年後には「成人」。

 

うーん、ちょっと戸惑ってしまうかもしれませんよね。ご本人はもちろん、親御さんも「・・え?あとたった数年で成人?」と驚きを隠せないかもしれません。

 

「成年年齢」あれこれ

日本では明治9年太政官布告で、初めて成年年齢を「20歳」と定めました。

当時、諸外国では21歳~25歳程度を成年と定める国が多かったそうですが、日本では当時15歳程度を成年とする地域が多かったこと、また、平均寿命が欧米諸国より短かったこと等が考慮され、成年年齢を「20歳」と定めたそうです。

 

現在、多くの国が「18歳」を成年としており、20歳以上を成年としている国は少数派となっています。

そのような事情もあり、成年年齢の引き下げが、盛んに議論されました。

議論の結果、2018(平成30)年6月13日、成年年齢を「18歳」に引き下げる旨の改正法が成立したのです(同年6月20日公布)。

 

なお、2022年4月1日から「成年年齢が18歳」となることに加え、「女性の婚姻開始年齢」が現行16歳とされているものが「18歳」に引き上げられます。(男性の婚姻開始年齢は現行法と同様に18歳で据え置きです。)

 

全てが「18」になる?

さて、成年年齢が18歳になるとしたら、現行法で20歳とされているものが、一律に「18歳」に引き下げられるのでしょうか?

実は、そうではないのです。

「18歳」に引き下げられるものもあれば、「20歳」のままに据え置かれるものもあります。ここが少しややっこしいのですが、ごく簡単に、ざっくりといってしまうと、「健康被害の防止や青少年保護の観点から定められた年齢制限は、現行の年齢制限を維持する」ということになるようです。

 

たとえば、喫煙や飲酒は現行「20歳以上がOK」となっていますが、これは2022年4月1日改正法施行以降も、18歳ではなく「20歳以上がOK」、となります。

公営ギャンブル(競馬・競輪・オートレース等)も、やはり「20歳以上がOK」と、現行の要件が維持されます。

 

詳しくは、下記法務省の資料をご参考下さい。

【法務省:「成年年齢の引き下げに伴う年齢要件の変更について」】

http://www.moj.go.jp/content/001261083.pdf

 

ちなみに、司法書士は試験に合格しても、未成年者は司法書士登録ができません。

つまり現行法では、20歳以上でないと、司法書士になれないのですね。

これが、今度の改正法施行(2022年4月1日)以降、「18歳」でも司法書士登録ができるようになるのですね。

18歳の司法書士!なんだか眩しいなあ・・・

 

(なお、司法書士になるための試験(司法書士試験)は、年齢・学歴に関係なく、誰でも受験できます。国家試験のなかでは、この「前提条件を求めない」スタイルは、結構めずらしい方なんですよ~)

 

最後に

現行20歳から18歳への引き下げ。わずか「2年」の引き下げ、とも思われがちですが、ご本人や親御さんからすれば、この「2年」は決して「わずか」ではない、と感じられるのではないでしょうか?

そう、青少年の「2年」は、決して短い年月ではないはずです。

 

自分のことを思い返してみても、18歳の頃と、20歳の頃とでは、環境も自分自身も、大きく変わったように記憶しています。

成年年齢が引き下げられても、学校制度が変わるわけではないので、18歳は依然として高校生(若しくは大学1年生)でしょう。

そのような皆さんに、「今日から改正法が施行されたので「成人」としての責任を果たして頂きます、よろしく」というのは、ちょっと違うと思うのですね。

むしろ、周囲の「大人」が18歳の新成人をサポートし、本人が「成人としての自覚」を「時間をかけて」育んでいけるような環境をつくっていく、そんなことが求められるのだろうなあ、と思う次第です。

 

未成年者と成年者との違い、それは、様々な切り口がありますが、私は「権利と義務の主体となること」だと考えております。

 

自分の義務を果たし、自分の権利を求め、行動していく。

その行動は、自分なりの「正義」に基づき、遂行していく。

そのなかで、より「生きる」ということを実感し、進んでいく。

「それが、大人というものなのだよ」と思うわけです!(ちょっと渋めの声で!)

 

現在15歳のみなさん、3年後には成人です。

「ええ、なんか嫌だなあ~」とお思いになりますでしょうか?

たしかに、大人って、結構大変なものですからね。

成人は、大人への第一歩ですからね。

でもね、大人って、たしかに大変ではあるけれども、意外と悪くないものですよ。

その気になれば、「社会」と真っ向対峙することができるんです。

がっつりと義務を引き受ければ、しっかりと権利を追求できるんです。

つまり、「かっこいい」生き方も、できるんです。

 

「タフじゃなければ生きていけない。優しくなければ生きる資格がない」

とは、レイモンド・チャンドラーが生み出したハードボイルド小説の主人公フィリップ・マーロウのセリフですが、これぞ「大人」のセリフだと思うんですよね。

 

 

 

そんな世界の入り口が、あと3年後に開いております。

おそれをもって、そして興味と好奇心を胸に、どうぞ飛び込んできてください!

 

というわけで、「15歳の皆さん!3年後には「成人」です!でした!

お付き合いいただきまして、誠にありがとうございました!

 

 

 

三つのスタイルの「正義」を読み解く!あなたはどの「正義」がお好き?

みなさん、こんにちは~!国分坂です!

仕事がバタバタしていて、なかなかブログが更新できずにすみません~

 

ところでみなさん、仕事などが忙しい時、どのようにストレス解消をしていますか?

私は主に、次の二つのことをしております!

 

1.仕事とは全く関係ない学術書を読む

2.普段はあまり観ない、アクション系映画を観る

 

1はですね、仕事と全く関係ない濃いめの情報をがっがっと頭に入れるんですね。

そうすると、仕事の情報でいっぱいだった頭が強制的に更新され、リフレッシュするんですね。いわば、「毒を以て毒を制す」、です!

 

 

でも、1ばかりやっていると、心が折れてしまうんですよ・・

そんなときには、2ですね。

頭空っぽにして愉しめそうな、ハリウッド系の映画をアマゾンプライムで鑑賞しています!

 

 

・・いえ、今日のお題は「ストレス解消」ではありませんでしたね。

ごめんなさい。

 

今日のお題は、「三つのスタイルの「正義」を読み解く!」です。

お付き合いを頂ければ幸いです!

 

 

三人の賢人から教わる三つの「正義」

先日、本棚を整理していたら、懐かしい良書が出てきました。

マイケル・サンデル教授の『ハーバード白熱教室講義録』(上・下)です。

これ、面白いですよ。

ちなみに、この『ハーバード白熱教室講義録』を書き直したものが、『これからの「正義」の話をしよう』ですが、両方とも良書です。

もしも未読でしたら、是非どうぞ。おススメですよ~!

 

 

 

  

さて、マイケル・サンデル教授の授業にも出てきますが、本日は「三人の賢人」にお知恵を拝借したいと思います。

ご登壇いただきましょう!

 

まず最初は、ジェレミー・ベンサムさんです。

ベンサムさんは「功利主義」という哲学を展開しました。

ベンサムさんに一言、頂きましょう!ベンサムさん、一言お願い致します。

 

ベンサム「・・最大多数の、最大幸福」

 

・・ありがとうございました!ベンサムさんでした!

 

次にご登場いただくのは、ロバート・ノージックさんです。

ノージックさんは、リバタリアニズム、すなわち「自由原理主義」「市場原理主義」の哲学者として有名です。

ノージックさんに、一言頂いてみましょう。ノージックさん、如何でしょうか?

 

ノージック「国家による干渉的立法、道徳的立法は、個人の自由への侵害である。また、国家による課税は、人々に強制労働を課するに等しい。我々が正当に取得した権利は、我々のものだ。いかなる理由をもってしても、個人の権利を侵害することは、その個人を奴隷にすることに等しい。なぜなら・・」

 

あ、ありがとうございます!とりあえず、そのへんで!!

すみません、続きはその、控室の方で、また、後で。すみませんねえ~。

ノージックさんでした!

 

最後にご登場いただきますのは、イマヌエル・カントさんです。

カントさんは「定言的哲学理論」を展開した哲学者です。

カントさんのお話はかなり難解とお聴きしておりますが、要点を簡単にまとめて頂きましょう。

カントさん、ごく簡単なポイント解説を頂けますか?

 

カント「要点は三つです。一つ目、その行為の動機は義務に基づくものであること。二つ目、その行為が自身で与えた法則に従ったもの(自律的行動)であること。三つ目、その行為が、それ自体において良いものであり、理性と一致する意思のために必要な行為(定言的)であること。この三つを満たす行為は、道徳的原理に基づく行為です」

 

・・ありがとうございました・・ カントさんでした!

(みなさん!大丈夫ですよ!カントさんが退席されたら、ちゃんと説明しますから、ちょっとだけお待ちください!)

 

・・難しいですか?難しいですよね・・

でも、難しいからといって素晴らしい知識を借用しないのはもったいないものです。

どうでしょうか、多少間違っていても構わないと思うんです。この際、大胆に解釈して使ってしまいませんか?

誤りを怖れることなく、三人の賢人たちの考えを、バッサリと端折って、簡単に丸めてしまいましょう!

(・・さて、大丈夫ですね、三賢人は退席されましたよね・・・お三人がいる前で解説するなんて勇気は、国分坂にはありませんよ~)

 

超!簡単解析、「功利主義」「自由原理主義」「定言的哲学理論」

まず、ごく掻い摘んで言ってしまいますと、この世界で主張される「正義」は、「功利主義」「自由原理主義」「定言的哲学理論」、この三つの考え方に集約されるといっても過言ではないようです。

この三つのどれかを根拠にしている、もしくはこの三つのうちの二つ、もしくは三つが混ざっている、そのように分析することができるようなのです。

 

なので、この三つの考え方を知っておくと、誰かが言っている「正義」が、「功利主義」的なのか、「自由原理主義」的なのか、それとも「定言的哲学理論」的なのか、見えてくるわけですね。

 

順に、確認してみましょう。

まず、「功利主義」ですね。

これは、ベンサムさんが言っていた「最大多数の、最大幸福」という言葉が、その主張を端的に表現しています。

つまり、何かを行うときには、なるべく多くの人が、なるべく最大の幸福を享受できるように行動すべきだ、という考え方ですね。

ベンサムさんは、苦痛よりも喜びを、受難よりも幸福を、なるべく多くの人が、なるべく最大限に感じられるような生き方をすべきだ、とも言っています。

誤謬を恐れずに言えば、ベンサムさんがいう正義は、「なるべく多くの人が、なるべく最大限の幸福を感じられる行為にある」、ということになるでしょう。

 

次に「自由原理主義」についてです。

この考えは、個人の権利を非常に重要視する考え方です。

不適切に取得した権利は守られる必要はないが、適正に取得した権利は、たとえ国家であっても侵害してはならない、という考えです。

「自由原理主義」からすると、富の再分配のために行う課税も、個人の権利を侵害し、個人を国家の奴隷にしてしまう不当な行為、とみなされます。

結構過激な考え方にもみえそうですが、アメリカでは近年かなり支持されつつある考え方のようですね。

 

ノージックさんの「自由原理主義」によれば、「自分は自分のためにあり、自分を所有するのは自分である。誰にも侵害・阻害されることなく、自分の権利が尊重され、自分の権利を自由に処分できる状態こそが、正義である」ということになるでしょうか。

 

最後が「定言的哲学理論」ですね。

これ、なかなか難しいのですが、物凄く端折ってしまいますと、理性に基づき普遍的な価値観で導き出された「絶対的な道徳的行為」というものがあるはずであり、それに基づいて行動することこそが、正しい行いである、ということのようです。

 

たとえば、「功利主義」は「最大多数の、最大幸福」ということで、「ある行為」が大多数の人のためにはなるけど少数の人のためにはならないという場合、原理的に考えれば、少数の人を切り捨ててでも大多数の人のためにその行為を行う、という結論を生み出します。少数の人は犠牲として、言葉を換えれば「道具」として、大多数の人のために利用されるわけです。

「定言的哲学理論」は、このことを強く批判します。

カントさんは、「その行為が別の何かのための「手段」としてのみ有効であるのなら、(それは仮言的であり、)道徳的な行為とはいえない。道徳的行為とは、その行為がそれ自体に普遍的価値があり、理性に合致した行為でなければならない」というのです。

 

難しいので、たとえ話をあげてみますね。

たとえば、私が横断歩道の前で立ち往生しているご老人を見つけたとしましょう。

その時私が、「困った人がいれば手を貸すのは当然だ」と思い、そのご老人に声をかけて、手を取って横断歩道を渡ったとしたら、その行為は「定言的哲学理論」的にいうと道徳的行為であり、正義の行い、ということになります。

その「ご老人の手を取って横断歩道を渡る」という行為は、「困った方がいれば手を貸す」というままの行為であり、普遍的な価値があり理性に合致した行為、といえるからです。

一方で、そのとき私が、「このご老人はお金持ちのようだから、ここでお近づきになれば、ひょっとして良いお客さんになってくれるかも!」などと考えて、そのご老人の手を引いて横断歩道を渡ったとしたら、どうでしょうか?

「ご老人の手を引いて横断歩道を渡る」という行為が、「ご老人にお近づきになるため」という目的のための「手段」となってしまい、結果、その行為は「定言的哲学理論」的にいうと道徳的な行為ではない、ということになります。

 

そして、カントさんからすれば、「功利主義」は、人の行為を社会全体の「道具」や「手段」とみなし得る考え方であるため、「功利主義」から生じた行為は道徳的な行為とはいえない、ということになるわけです。

 

カントさんがいう「定言的哲学理論」からすれば、「理性と普遍的な価値観から生じた絶対的な道徳的行為を、自分自身の良心に従い、義務感を持って行うことこそが正義である」ということになりそうです。

 

ちょっと「まとめ」

「功利主義」における正義

「なるべく多くの人が、なるべく最大限の幸福を感じられる行為」

 

「自由原理主義」における正義

「誰にも侵害・阻害されることなく、自分の権利が尊重され、自分の権利を自由に処分できる状態」

 

「定言的哲学理論」における正義

「理性と普遍的な価値観から生じた絶対的な道徳的行為を、自分自身の良心に従い、義務感を持って行うこと」

 

三つの正義から、たとえば「ヴィーガニズム」を考える

適切な例えかどうか分からないのですが、以前、ちょっと話題になった「ヴィーガニズム」を題材に上げてみたいと思います。

「ヴィーガニズム」とは、ごく簡単にいうと「絶対菜食主義」といった感じでしょうか。基本的に「肉食をしない」という主義のようです。

「ヴィーガニズム」にも様々な主義・主張があるようで、たとえば、肉食をしない理由が「家畜といえど尊い生命体である以上、残虐に殺されるべきではない」といったものから、「動物を食べるための畜産業は環境に対する悪影響が大きく、持続可能な社会創生のためにはマイナスである」といった考え方まであるようです。

 

この「ヴィーガニズム」に関して、様々な議論が展開されているようですが、ちょっとここで、前述した「三つの正義」を当てはめて考えてみよう、というわけです。

 

「ヴィーガニズム」に関連する意見として、三つのものをあげてみます。

 

【その1】

「動物だって生き物だ。殺すのは可哀そう。肉食はやめるべき!」

 

【その2】

「畜産業は持続可能性が低い。よって、肉食はやめるべき」

 

【その3】

「お肉は、美味しい。だから、是非食べたい!」

 

さて、以上3つの意見があるとして、仮にこれらが全て「正義」であるとした場合、以上3つの意見は、それぞれ次のどの哲学的主義・理論に基づくものといえるのでしょうか?

 

【A】功利主義

【B】自由原理主義

【C】定言的哲学理論

 

正解は、おそらく次の通り。

【その1(動物可哀そう)】は【C(定言的哲学理論)】

【その2(畜産業は持続せず)】は【A(功利主義)】

【その3(お肉食べたい!)】は【B(自由原理主義)】

 

もっとも、「動物が可哀そうだから食べるべきではない」という主張が、「理性と普遍的な価値観から生まれた絶対的な道徳的行為」によるものか、というと、個人的には違うようにも思えるのですが、少なくとも、そのように主張される方は、絶対的な道徳的行為と捉えている可能性が高い、ということなのです。

 

なぜこのようなお話をしてみたかといいますと、つまり、様々な主張、自分とはまるで異なる主張であっても、それぞれにある種の「正義」があり得るのだ、ということを考えてみたかったわけです。

 

正直、私には「肉食禁止」はキツイです。

そろそろ夏ですからね、「焼き肉とビール」などと言われますと、もう困ってしまいますよ。

 

しかし、「肉食禁止!」とおっしゃる方々にも、やはり「正義」がおそらくあるんだと思うのですね。

なにも、私の「焼肉とビール」の楽しみを奪って笑ってやろう、なとどいう意地悪な気持ちで、「肉食禁止」を訴えているのではないはずなのです。

ヴィーガンの皆さんにも、主張したい「正義」があるはずなんです。

もしかしたらその「正義」は、カントさんの「定言的哲学理論」に基づくものなのかもしれないのです。

もっとも、私の「焼肉とビール万歳!」にも、ノージックさんを味方とする「自由原理主義」が根底にある、といえるのかもしれません。

 

「正義」と「正義」とは、ぶつかっても解決はしません。

「正義」と「正義」は、ともに尊重しあうものなんだと思うのですね。

ともに手を取り合うものなのです。

 

そして「3つの正義」には、それぞれ特徴があるんです。長所もあれば、弱点もある。

今回はそこまで言及できませんが、功利主義、自由原理主義、定言的哲学理論の長所と弱点とを理解すると、自分や相手の主張する「正義」の、どこが良いのか、どの点に問題があるのか、ということが見えてくるのだと思います。

 

双方の「正義」を尊重しながら、長所は互いに伸ばし、弱点は双方で補いあいながら、双方の「正義」を共存させ、相互補完させることこそを、我々は目指すべきなのでしょう。

 

そんなことを、考えてみました。

 

あと、自分の「正義」のスタイルが、功利主義、自由原理主義、定言的哲学理論の、どの傾向にあるのか、ということも、ちょっと意識してみると面白いかもしれません。

どれか一つ、というわけではないはずですが、どれかが強く、どれかが薄い、という傾向はあるかもしれませんよ。

そして、家族や恋人、友人の「正義」の傾向も知っておくと、争い回避につながるかもしれませんね。

 

「まあ、定言的哲学論のひとだからなあ、仕方ないよねえ」とか、

「出た!功利主義!最大多数の最大幸福ってか!」と、内心でガッテンできれば受け入れやすいかもしれませんよね。

どうでしょうか?

 

以上、「三つのスタイルの「正義」を読み解く!あなたはどの「正義」がお好き?でした!

ここまでお付き合いを頂きまして、誠にありがとうございました!

 

 

改正民法!相続人以外の親族に「特別寄与料請求権」が認められることになりました~!

皆様、こんにちは。国分坂です~!

すみません、ブログ、長らくさぼっておりました!

いや、私、基本的には「お金はないけど時間だけはある」人間なのですが、年に一度、6月中旬から7月上旬までだけは、忙しくガシガシ仕事しているんですね。

この頃は会社の定時総会時期なので、総会開催後の登記手続の御依頼が、ガンガンくる時期なのです。

 

「毎月こんな具合で仕事が来たらなあ、人生いろいろと違うんだろうなあ」なぁんて、思ったりしながら頑張っている時期なんですね。

そのため、すみません、ブログの更新が全くできませんでした!

謹んで、お詫び申し上げます~!

 

さて、仕事のラッシュもひと段落してしまい、日常運転に戻りつつありますので、ブログを更新させて頂きます!

今回は、つい先日、2019年7月1日から施行された「改正民法」の一部のお話です。

 

題して、「相続人以外の親族に、特別寄与料請求権が認められることになりました!」です!

 

 

特別寄与料請求権とは?

最初に「特別寄与料請求権」についてご説明しますね。

 

7月1日改正前からも、「寄与分」という制度はありました(改正後も存続してます)。

「寄与分」とは、遺産分割手続のなかで、相続人が被相続人(:亡くなった方)の財産の維持や増加のため、労務の提供などで特別な寄与をして貢献した場合に、その相続人に特に付加される相続分のことをいうんです。

たとえば、父の子Aが、父が行う事業を長年手伝って、その事業拡大に貢献したような場合に、Aには寄与分が認められる可能性がある、といった具合です。Aに寄与分が認められた場合、Aは他の相続人よりも寄与分の分だけ相続財産を多く取得できるのです。

 

ところが、この「寄与分」は「相続人」にのみ認められる制度です。

そう、「相続人にのみ認められる」という点に、問題があったのです。

 

たとえば、母甲の子Aの妻Bが、年老いた義母甲の介護を長年行っていたというような場合、甲の死後の遺産分割において、相続人ではないBには、甲の相続に対する寄与分は認められないということになっていました。(このような場合に「Bの夫のAに便宜上寄与分を認める」という裁判例はありました。しかし、B自身には、寄与分は認められませんでした。)

これに関しては、「不公平感が強い」と以前から批判がなされていました。

 

そして今回、「相続人以外の親族」に対しても、「寄与分」のような権利を認めよう、ということになったのです。

それが、「相続人以外の親族」の「特別寄与料請求権」なのです。

 

特別寄与料請求権の要件

特別寄与料請求権が認められるためには、次の3つの要件を満たす必要があります。

 

①被相続人の親族であること

②被相続人に対して無償で療養看護、その他の労務を提供したこと

③上記②により、被相続人の財産が維持され、または被相続人の財産が増加したこと

 

順に見ていきましょう。

 

①被相続人の「親族」であること

親族とは、配偶者、または6親等内の血族、3親等内の姻族をいいます(民法725条)。

たとえば、被相続人の配偶者と子供は相続人ですが、「子供の配偶者」や、「子供の子供(つまり被相続人の孫)」などが「親族」に該当します。

 

②被相続人に対して「無償」で療養看護、その他の「労務を提供」したこと

ポイントは2点です。「無償」と「労務の提供」です。

 

有償でした行為は、特別の寄与とはみなされず、特別寄与料請求権は発生しません。

たとえば、被相続人の療養看護を長年していたとしても、それに対する対価を得ていた場合は、特別寄与料請求権は発生しません。

 

次のポイントが「労務の提供」です。

たとえば、被相続人を実際に介護していた場合(:労務の提供)には特別寄与料請求権が発生し得ることになるのですが、被相続人の介護費用を負担するなど、「金銭出資等の財産上の給付」をしていた場合は、特別寄与料請求権が発生しない、と条文上解釈されることになります。

 

③要件②により、被相続人の財産が維持され、または被相続人の財産が増加したこと

たとえば、被相続人を介護したことで、結果として介護費用が軽減され、その分だけ被相続人の財産が維持された、といったケースが考えられます。

 

特別寄与料請求権は金銭請求権

特別寄与料請求権は、相続人に対する「金銭請求権」となります。

特別寄与として認められる分の金銭を、相続人に対して請求できます。

たとえば、被相続人を介護したことで、結果として介護費用が軽減され、その分だけ被相続人の財産が維持された、といったケースでは、軽減された介護費用相当額が、特別寄与料請求権として認められるのではないでしょうか。

 

なお、特別寄与料請求権は「金銭請求権」ですから、被相続人の遺産そのものを請求する権利はありません。特別寄与料請求権が認められる場合でも「被相続人の遺産中にある特定の動産・不動産を渡して欲しい」という請求はできない、ということです。

また、特別寄与料請求権は「相続人に対する金銭請求権」であるため、特別寄与料請求権が認められた親族であっても、遺産分割協議に参加する権利はありません。

 

特別寄与料請求権の行使方法

前述のとおり、特別寄与料請求権は「相続人」に対して請求することになります。

特別の寄与としての労務提供の内容を示し、それに対する金銭評価の資料を提示するなどして、相続人から金銭を支払ってもらうことになります。

しかし、相続人が特別寄与料請求権を認めない場合や、その金額について争いが生じたような場合には、被相続人の住所地を管轄する家庭裁判所に、判断・処分を求めることができます。

 

特別寄与料請求権の行使期間

特別寄与料請求権は「特別寄与者が相続の開始及び相続人を知った時から6カ月」、または「(相続開始を知らなくても)相続の開始の時から1年」を経過したときには、消滅してしまいます。

 

非常に短い期間です。

 

被相続人の葬儀、法要、相続に関する登記手続や税務手続、その他諸々の手続をしていると、半年なんてあっという間に来てしまいます。

 

特別寄与料請求権を行使する場合は、被相続人の相続開始後、なるべくすぐに行使することが重要です。

そして、請求権を行使するに際しては、なるべく内容証明郵便(配達証明付)を活用し、「相続開始後6カ月以内に権利行使した」ということを証明できるようにしておきましょう。

 

最後に

今回の民法(相続法)改正では、世相を反映し、いろいろな規定が創設されました。

この「特別寄与料請求権」もその一つです。

むかしは「長男のお嫁さんが親の面倒を見るのは当たり前」なんてことが、さも当然のごとく吹聴されていたりしましたが、もちろん、現代では採用されない考えですよね。

長男も次男も、夫も妻も関係なく、みんなで支え合ってやっていくべきだ、というのが親族間におけるルールといえるでしょう。

 

そしてこの「特別寄与料請求権」は、頑張ってくれた親族に対し「感謝の意を具体化したもの」と捉えることができそうです。

 

もっとも、「親族間の扶養」を「金銭化」することに、嫌悪感をお持ちになる方もいらっしゃるかもしれません。「親族同士、助け合うことは当然であり、介護等して当然」とお考えになる方もいらっしゃるでしょう。そのような方が特別寄与料請求権を行使しないことは、もちろん全く問題ありません。

しかし、自らは介護等をせず、他の親族が介護してくれた際に「親族同士、助け合うことは当然であり、介護等して当然」などと考えるのであれば、それは自省すべきなのでしょう。

 

「自分も介護しなければならなかったのに、自分は出来なかった。本当に申し訳ない。まるで埋め合わせにはならないかもしれないけど、せめて金銭だけでも受け取っては頂けませんか」という思考こそが、おそらく本来だと思うのですが、どうでしょう。

 

そう、本来であれば「お金が欲しくて介護したわけではない」であろう親族に、このような請求権を行使させてしまう、ということは酷な話なのです。

請求権を行使することで、「お金が欲しかったの?」と思われてしまうことは、非常に嫌なことであるはずだからです。

 

でも、それでもこのような制度が創設されたのは、「頑張ってくれていた親族が評価されることもなく蔑ろにされていた」ということが、少なからずあったから、なのだと思います。

 

私の個人的な意見としては、この「特別寄与料請求権」という制度ができたことにより、今一度、親族同士が互いに慮り、互いを慈しんで、このような権利を行使せずとも納得できる人間関係を構築していければなあ、と思っています。

しかし、そうはいかないという場合には、「当然の権利」として、粛々と請求権を行使して頂き、「自己の頑張りを葬り去ることなく形にして頂きたい」、と思うのです。

正直者が損をする、そんな社会にはしたくないのですね。

 

というわけで、以上、「改正民法!相続人以外の親族に「特別寄与料請求権」が認められることになりました!」でした!

ここまでお付き合いを頂きまして、誠にありがとうございました!

 

「到来するかもしれない近未来社会」、そこで必要とされるのは「政治学」「哲学」「精神文化的嗜好」???

みなさん、こんにちは~。国分坂です。

今回は、今後「到来するかもしれない社会」について、ちょっと考えてみたいと思います。もしお付き合いいただけると嬉しい限りです!

 

 

最初に

今回は、かなり「妄想的」な「国分坂的近未来社会」について、お話させて頂くことになります~。

眉に唾して、御覧くださいね!

 

さて、「国分坂的近未来社会」の中身は後述致しますが、この「国分坂的近未来社会」で必要とされるであろうスキルは、「政治学」「哲学」「精神文化的嗜好」、などと考えています。

 

なにやら最初からワケワカンナイことを言い出しておりますが、是非、気を楽にして、お楽しみ頂ければ幸いです~!

 

 

社会とは

さてさて、一言で「社会」といっても、様々な機能や意味合いを持ちますが、今回は「経済的機能を有する集合体」としての社会、を考えてみたいと思います。

 

人間が暮らしていく上では、実に様々な事柄をこなしていく必要があるわけですが、有史以来、人々は協力し合い、更に分業していくことで効率化し、人類は暮らしを向上させてきました。

その協力・分業を行う集団が「社会」であると、捉えることができそうです。

 

 

人々は分業により取得・生成した成果物を、互いに「交換」「分配」しました。

この交換・分配は、当初は成果物そのものにより行われましたが、やがて保管・流通に便利な「貨幣」が用いられるようになり、成果物と貨幣とが交換され、または貨幣が分配されるようになっていきました。

 

貨幣が導入されることで、「労働」の「価値」換算が進み、成果物が見えにくい産業をも興すことが可能となりました。

 

分業が進み、専業が進み、機器を用いるようになると、飛躍的に効率化が進んで、従前よりも少ない労働力で、同等以上の成果を生み出すことが可能な産業が出現します。

そのような産業においては、「労働力の余剰」が生まれました。

 

余剰となった労働力の提供者たちは、そのままでは貨幣を手に入れることができません。そこで、新たな産業を興し、余剰労働力を新産業に投入する、といったことが行われました。

これにより、新たな産業が日に日に増えていき、人々の生活が加速度的に変化していきました。

 

これが、過去から現代までの、ごく大雑把な「経済的機能を有する集合体」としての社会の流れだと思います。

 

AI革命

さて、今後予想されるのは「AI(人工知能)革命」ですね。

AIが導入されることで、今までとは桁違いの「余剰労働力」が生まれることになりそうです。

そして、その余剰労働力を投入するために新たな産業を興しても、その新産業は瞬時にAIにより賄われる、といったことが生じます。

 

つまり、AIが殆ど全ての産業の担い手となっていく可能性があり、その結果、余剰労働力は、行き場を失うことになってしまいます。

そしてまた、就労人口が増えるとともに、余剰労働力は増え続けていくことになるわけです。

 

このことは、人々が有していた「労働力」「労働価値」が喪失することを意味します。

 

人の価値は労働力にあるのか?

「新たな産業を興せる人」、「新たな価値を生み出すことができる人」、そのような人はAIが市場を席巻したとしても、おそらく「労働力」を有し続けることでしょう。

つまり、AIに取って代わられることなく、対価を得続けることができるわけです。

しかし、そのような能力のない人、つまり殆ど全ての人々は、AIに取って代わられ、労働力を喪失することになってしまいそうです。

 

もしも、そのような社会が到来したときには、非常に重要な「判定」が、下されることになるはずです。

 

人の価値とは、なんなのか?

人の価値は、労働力なのか?

それとも、それ以外のものなのか?

 

もしも、「人の価値は労働力だ」と判定されてしまったら、労働力を喪失した殆んどの人々は、「社会的に無価値な存在」と認定されてしまうことになります。

いや、無価値どころか、資源を無駄に消費する「存在悪」として、認定されてしまうのかもしれません。

ぞっとしますね。

 

もしも、殆どの人々が存在悪として排除されることになったら、ごくわずかの限られた人間たちのみが社会を構成し、AIと共に生きていくことになるのでしょうか?

新たな産業を興せる人、新たな価値を生み出すことができる人、そのような極く僅かな人々のみが作り出す社会・・

 

でも、そのような社会が永続できるとは、とても思えません。

なぜなら、ごく少人数の人々が有する才能はやがて枯渇し、または継承されずに、朽ち果ててしまう可能性が大きいと思われるからです。

つまり、非常に「脆弱な社会」になってしまうと思われるのです。

 

社会を存続するためには、やはり一定数以上の構成員が必要なはずです。

だとしたら、社会の構成員資格は「労働力」の有無ではない、という判定が必要になるはずです。

ごく僅かな労働力を有する人々と、大多数の労働力を有しない人々と、そしてAIとが共存する社会こそ、存続可能な社会として求められることになるのだと思います。

 

二分される社会

さて、もしもそのような社会が出現すると、ごく僅かな人々が労働力を提供し、しかし殆ど全ての労働力はAIが担い手となり、そして圧倒的大多数の人が働かない社会、ということになります。

 

労働力を提供できるごく僅かな人々(及び法人)は、その労働力により、成果物を生み出すことになります。

芸術作品、医療技術、美容技術、グルメ、特殊体験・・・

これら成果物は、おそらく非常に高価なものとなるでしょう。

なぜなら、殆どの人は労働力を有しないがために通貨を取得できず、これらの成果物を得たくても、対価を支払うことができないわけです。

 

よって、ごく僅かな人々が作り出した成果物は、互いに成果物を作ることができるごく僅かな人々の間でのみ、流通することになるでしょう。

 

一方、圧倒的大多数の人々は、AIにより養われ、AIが生産する衣食住のため等の生活必需品を、得ることになるのでしょう。

 

ところで、ここでポイントになるのは、「AIの振り分け」です。

どれだけのAIを労働力を有しない人々のために振り分け、どれだけのAIを労働力を有するごく僅かな人々に振り分けるのか。

これは、非常に大きな「政治的問題」になるはずです。

 

この時代に労働力を有するごく僅かな人々(及び法人)は、このような社会が出現するごく初期から、AIを保有している可能性が高いでしょう。従前社会から引き続き資力と能力を有していたことで、AIの保有に成功するのです。

そして、当然のことながら、彼らは自分たちのためにこそ、AIを用いたいと考えるでしょう。

 

しかし、もしも労働力を有しない人々にAIが振り分けられなければ、労働力を有しない人々の生活は破綻してしまいます。

生活を破綻させられた人々は、社会を破壊することになるかもしれません。

 

 

よって、AIを保有し労働力を有する人々は、自分たちの安全を守るために、社会秩序を維持させようと、労働力を有しない人々のためにも一定程度のAI利用を考慮することになるはずです。

更に、もしも労働力を有しない人々が団結し、政治的力を行使していけば、少数派にすぎないAI保有者たちは、その政治力を無視することができなくなるでしょう。

つまり、労働力を有しない人々が上手に政治力を行使していくことで、「最低限度」から「必要充分な程度」まで、労働力を有しない人々のためのAI利用の割合を、引き上げていくことが可能になるかもしれません。

 

さて、政治力行使により、ある程度のAI利用の確保に成功し、AIにその生活を養ってもらうことが可能になった人々は、今度は次の問題に直面するはずです。

 

生活のための基本的な物品は、確保できた。

しかし、労働力を有しない自分たちは、ごく僅かの人達が作り出す素晴らしい成果物を、残念ながら入手することができない。

働く必要がない以上、時間だけは、たっぷりある。

では、この「膨大な暇」を、どのように過ごしていくべきか?

 

労働力を有するごく僅かな人々は、現代と同様、仕事をして対価を得て、欲求の赴くままに他者が作り出す成果物を浪費して、そしてまた仕事をして・・・を繰り返していくことになるのかもしれません。

 

しかし、そのサイクルから抜け出した労働力を有しない人々は、「生まれてから死去するまでの長い人生を果たしてどのように生きるのか?」という難問に、直面することになるはずです。

「食べるために生きる」必要がなくなったとき、「生きるために生きるには、どうするのか?」という問題が立ち上がってくるのです。

非常に難解な「哲学的問題」を、抱えることになるのです。

 

おそらく、「生きるとは何か?」ということを思索しつつ、日々を過ごすことになるでしょう。哲学的な日々です。

哲学の素養が、そのような日々を支えてくれることになるのかもしれません。

 

もっとも、思索してばかりでは疲れてしまいますから、なんらかの趣味や目標を見出して、日々を楽しく過ごすための工夫が、重要になるでしょう。

 

でも、労働力がない以上、対価は支払えませんから、その趣味や目標は、「無料」で行うことができるものにならざるを得ないわけです。

もしくは、労働力を有しない者達同士が、協力して、手作業で作り出すものになるのかもしれません。

 

このことで、やがては物質文明とは逆方向のベクトルで進む文化が、開花していくことになるのかもしれません。

「精神文化的嗜好」、そんなものが人々の間で、持て囃されることになるのかもしれません。

 

つまり、労働力を有する人々は従前とおりの「物質文明」を謳歌し、労働力を有しない人々は「精神文化」を深化させていくことになるであろう、というわけです。

 

そうしますと、社会は大きく二分されることになりそうですが、しかし、置換不可能な分断社会が二つ出現するわけではなく、二つの社会はある程度「繋がり」を持ちつつ併存するだろう、と予想します。

なぜなら、前述のとおり、労働力を有する者による物質社会は、そのままでは構成員が維持できない脆弱な社会です。労働力を有しない者の社会から、構成員を吸い上げるシステムが必要になるはずです。

そのために用いられるのは、おそらく「教育」でしょう。

労働力を有する人々は、労働力を有しない人々に対し、様々な教育の機会を用意して、労働力を提供できる人材となるよう、働きかけることでしょう。

労働力を有しない人々は、教育により、新たな産業を興せる人、新たな価値を生み出すことができる人になっていく可能性があります。

 

更には、労働力を有する人々が施す教育によるのとは別に、労働力を有しない人々自身が、非物質文化を深化させていくなかで、全く新たな価値観を、独自に生み出すことになる可能性もあります。


つまり、労働力を有しない人々の社会の方でこそ、従前社会と連続しない、突飛で全く新しい価値観の創造が、なされる可能性があるわけです。

古代ギリシャでは、閑暇(スコレー)を得た一部の貴族階級が文化を形成しました。

しかし、AIに養われる労働力を有しない人々の社会は、人類の殆どが閑暇を得る社会であり、桁外れな人数が閑暇を得る社会なのです。

人類初、前人未踏の社会において、どのような文化が開花し、どのような価値観が生まれてくるのか、想像を絶します。

やがては労働力を有しない人々の社会こそが、全く新しい価値を創造していく母体となる可能性がある、というわけです。

 

そのようにして、労働力を有する者と、労働力を有しない者とが、周期的に変動していくことになるのかもしれません。

もっとも、物質文明に興味を持たず、対価を得ることに意味を見出さない人々は、仮に新たな価値を創造しても、そのまま労働力を有しない社会に留まることでしょう。

しかし、そのような人が生み出した新たな価値観は、他の誰か(もしくはAI)により労働力に転換され、新たな産業が構築されていくことになるわけです。

こうなってくると、もはや「人の価値は労働力ではない」ということが、明白になるのかもしれませんね。

 

新世界より

貴志祐介の『新世界より』は、とても衝撃的な小説ですが、私が描いた近未来はどうでしょう、実現可能性があるのか、ないのか?

どうなんでしょうね?

 

 

 実はこの「妄想的」な「国分坂的近未来社会」の構想はですね、前回の「引きこもりを考え、同時に社会が目指すべき方向を考える」の、続き的な思索なのです。

実は「引きこもり」とはなにか、を考えていたら、この「国分坂的近未来社会」に行きついた、というわけなのです。

 

【前回の記事】 

www.kokubunzaka.com

 

「引きこもり」とは、「誰かに依存し養われる存在」、という定義がなされているように思われますが、AI革命がおこると、もしかしたら殆ど全ての人が、「AIに依存し、AIに養われる存在」になり得るのではないだろうか、と。

 

そして、「引きこもり」の人を「労働力を有しないがために無価値である」と断ずるのであれば、近い将来、私達は自分自身が「労働力を有しないがために無価値である」と断定されてしまう可能性があるのではなかろうか、と。

 

そう、考えてみたのですね。

 

私はAIのことはよく分かりませんし、AIが人間の労働の殆ど全てを賄えるようになるのかどうかも、全くわかりません。

しかしですね、仮に、ごく小説的発想で、以上記述してきたことのように「近未来社会」を考えてみますと、実はいま目の前にある「引きこもり問題」は、我々自身について、非常に深い問題を突き付けているらしい、と考察することができたのです。

 

誰かのことを「役に立つ、役に立たない」、「価値がある、価値がない」などと一義的に短絡的に断じてしまってよいものなのだろうか?

それはそのまま、自分自身に直接跳ね返ってくるものではないのだろうか? と。

 

そんなことを考えたわけなのです。

 

 

なお、「引きこもり問題」の延長線上で考えた「国分坂的近未来社会」ではありますが、これはこれとして独立的に考えても面白いなあ、とも思いました。

 

殆ど全ての人が労働から解放され、閑暇を得ることができる社会。

もしも実現できたら、凄くないですか?

人類全員、哲学者?

そんなわけないでしょうから、様々なものが生まれてくる社会になるのかもしれませんよね。

 

【関連記事】 

www.kokubunzaka.com

 

 

私はどうにも楽天的なようで、「AI改革」を楽しみにしている節があるのですが、実際にはそんな簡単なものではないのでしょうね。

非常に大きな混乱が生じることになるのかもしれませんね。

世界中で大きな歪みが生まれ、とんでもない格差が発生してしまうのかもしれません。

 

それを回避するためにも、我々個々人が「どのような社会を作っていくべきなのか、そのためにはどのような行動を起こすべきなのか」という政治的思考と、「畢竟、生きるとはどういうことか」という哲学的思考を、常々持ち続ける必要があるように、私には思えるのですね。

 

傍観していては、我々は労働力を失った瞬間、価値を失うことになりかねないわけですから。

こわい社会ですよ~。 

 

なお、「政治的思考」と「哲学的思考」という大上段の構えとは別に、「この世界の片隅で、つつましやかに、でも夢中になって楽しめる能力」、たとえば「精神文化的嗜好」といったものを有していたら、世界はきっと素晴らしいものになるのではないだろうか、と思ったりしている次第なのです。

・・甘いですかね?

 

さてさて、如何しょうか

またもや懲りることなく「妄想的」記事を書いてしまったわけですが、どうぞこれに懲りずに、これからも国分坂をよろしくお願い致します~!

皆さまのご感想やお考えを、お寄せいただければ嬉しいです!

 

以上、「到来するかもしれない近未来、そこで必要とされるのは、政治学・哲学・精神文化的嗜好???」でした~!

ここまでお付き合いを頂きまして、誠にありがとうございました!

 

 

「引きこもり」を考えました。同時に「社会が目指すべき方向」を考えました。

こんにちは。国分坂です。

今回は、重いテーマを取り上げてみます。

 

「引きこもり」とはなにか?

 

もしもお付き合いを頂ければ、とても幸いです。

 

 

 

「引きこもり」とは

「引きこもり」と一言にいっても、実はいろいろなケースがあるように思います。

経済的事情で、自活することが難しく、親や親族の家に同居するケース。

心理的事情で、社会との接点を断ちたいがため、親や親族の家に同居するケース。

 

たとえば、「宝くじで3億円当たったので働く必要がなく、家にこもって遊びたい放題している」という人がいたとしたら、その人を「引きこもり」というでしょうか?

なんとなく、ニュアンスが異なる気がしますね。

 

「引きこもり」という言葉には、「依存している」、「義務を履行しない」といった非難や否定的な見解が、見え隠れしているように思われます。

「働く必要のない人」が事実上引きこもっていたとしてもそれは対象外であり、「働く必要があるにも関わらず働かない人」こそが、「引きこもり」と呼ばれる対象になっているように思われます。

 

「働く必要があるのに働かない」、だから非難する。

 

このように感じて非難してしまうこと自体に、私はいろいろと考えた末、違和感を感じるに至りました。

 

なお、当事者である親や親族そしてご本人は、悩みや苦しみ、将来の不安など、様々な問題を抱えている場合が多いのだと思います。

よって、社会がその問題を受け止め、なんらかの対応をしていくことは、非常に重要だと思います。

 

しかし、今回私が焦点を当てたいのは、どうして「働く必要がある(と思われる)のに働かない人」を、我々は非難し、時には排除しようとしてしまうのだろうか、という点です。

 

どうして「依存している(ように思われる)人」を、我々は非難したくなり、また、排除したくなるのでしょうか?

 

「甘え」という言葉

インターネット上の言葉で、よく「それは甘え」といったメッセージを目にします。

「頑張りたくても頑張れない」といった内容に対して、読者から寄せられるメッセージに「それは甘えだ」といった記載があったりしますね。

「頑張れないなどと言っていないで、死に物狂いで頑張れ!」という意味で使われることもあるのかもしれませんが、そのような激励の言葉というよりも、切って捨てるような雰囲気で「それは甘え」、というメッセージが使われることがあるように見受けられます。

これは、何なのでしょうか?

 

「頑張りたくても頑張れない・・」

「それは甘え」

 

この「それは甘え」には、「自分は苦労して頑張っている。なのに頑張れないなんて、そんなの絶対許せない」といった心理が、裏に隠れているのではないでしょうか?

「自分も頑張っているのだから、あなたも頑張らなければならない、甘えることは許されない」、そんな気持ちが溢れているように思われるのです。

 

そして、このような心理状態と同じようなものが、「引きこもり」を「非難」したくなる土壌となっているのではないでしょうか?

 

もちろん、「親が可哀想だ。周りの親族たちも辛いであろう」という気持ちから、「引きこもり」を非難する、ということもあるでしょう。

しかし、もしもそうであるとしたら、「引きこもり」を「非難」していても仕方がないのであり、親や親族たちをどのように支援すべきなのか、具体的にどのような行動をとるべきなのか、そのようなことを我々は考えるべきでしょう。

 

でも、実際には「引きこもり」を、まずは「非難」したくなってしまう。

これは、「社会は決して甘くはない。自分もそんな社会でなんとか頑張っている。にも拘わらず、引きこもることで社会と対峙せず逃げるなんて、そんなのずるいし許せない」、そんな気持ちがどこかにあるのではないでしょうか?

 

どうなのでしょうね?

少なくとも、私にはそんな気持ちが、自分の中にあるような気がしたんです。

そして、思ったのです。

「・・いやむしろ、甘くない社会にこそ、問題があるのでは?」と。

 

いや、生きるって大変ですよ。

やるべきことをちゃんとやって、義務を履行し、権利を主張して。

甘くないですよねえ。

 

でも、どうなんでしょうね?

そもそものお話として、我々は「なぜ生きるのか」という根本的な最重要テーマに対し、明確な「回答」ができているのでしょうか?

我々は「なぜ生きるのか」という問いに対し、いつでも悩みながら、つまずきながら歩んでいるのではないでしょうか。少なくとも私はそうです。悩んでます。

 

だとしたら、どうでしょうね?

「なぜ生きるのか」という「目的」がちゃんと分かっていないのに、「方法論」としての生き方レベルで、なんでそんなにきちきちに、ぎゅうぎゅうに、「やるべきことを!ちゃんとやって!義務を!権利を!」と息巻いたりしなければならないのかなあ・・と思ったりしたんですね。

 

もちろん、我々は社会性の動物ですから、社会を作っていく為のルールは必要です。

なので「人様には迷惑を掛けない」という意識は、とても大切だと思います。

でも、人間ですからね。

失敗もしますし、迷惑もかけますよね。もう常々に。

 

私はいろいろ思い悩んだのですが、どうなんでしょうかね、より優れた社会というのは、「他人に迷惑を掛けないシステムが構築された社会」というより、「互いに迷惑を掛けてもなんとかなるように思える社会」なのではないかなあ、と。

 

「社会は、まあ、なんとかなるところだよ。厳しい面もあるけど、甘いところもあるしね。うん、逃げたって構わないと思うよ。でもね、面白い部分もあるからさ、気が向いたらね、是非きてみてよ。この社会にね」

 

そんな社会を目指していくべきなんじゃないのかなあ、と思ったのですね。

「引きこもり」ということを通じて、私はそんな風に思ったのです。

 

誰しもが、直面し得る問題

くり返しになるのですが、「引きこもり」問題に関して、「親御さんやご親族の問題」については、喫緊の課題として具体的対策が必要だと思います。

経済的問題や、心理的・精神的問題など、個人が抱えるには重すぎる問題です。

チームを組んで取り組むべき問題です。

私もこの問題には、今後積極的に考え、取り組んでいきたいと思っています。

 

しかし、「引きこもり」という状況や、その「ご本人」に対して、「社会」がどのように向き合うべきかといえば、「社会」の方が現状から変わっていくべきなのではないか、と思うのです。

 

なぜなら、「引きこもり」問題は、実は、誰にでも起こり得る問題だと思われるからなのです。

 

「引きこもり」問題は、決して特殊なケースではありません。

誰しもが、直面し得る可能性があります。

急変激しい昨今の社会情勢下においては、経済的破綻をする確率は、誰であっても、実はそれほど低くはないのかもしれません。

また、複雑な人間関係が構築され得る現代社会においては、誰しもが、ちょっとしたことで心理的・精神的なダメージを受け、深刻な状況に陥ってしまう可能性も、決して低くはないのかもしれません。

 

その結果、「引きこもり」になってしまうということが、誰であっても、いつでも、あり得るのかもしれません。

 

そしてそのことを、我々は直感的に、知っているのではないでしょうか?

 

だから「自分とは関係のない世界である」とみなしたくて、あえて「排除」しようとするのではないでしょうか?

見たくないものを見ない、だから排除する、そんな精神状況が、「引きこもり」を排除したくなる土壌となっているのではないでしょうか?

 

でも、誰しもが「引きこもり」になり得るのだとしたら、やはりこの問題は、しっかりと直視しなければなりませんよね。

我々は、「引きこもり」を「自分に関係のない世界」として排除するのではなく、「もしかしたら将来自分が直面するかもしれない世界」として認識し、受け止めなければならないのかもしれません。

 

そのように考えた場合、どうですかね、自分が引きこもってしまったとき、「社会は、まあなんとかなるところだよ。厳しい面もあるけど、甘いところもあるしね。逃げたって構わないと思うよ。でもね、面白い部分もあるからさ、気が向いたらさ、是非おいでよ。この社会にね」と、ゆっくり待っていてくれるところだとしたら、どうでしょうか。

私であれば、随分ホッとすると思うのですね。

 

もちろん、これらは自分なりの推測に過ぎません。

まだまだ想像が達していない部分も、大いにあるのだと思います。

でも、ひとつ言えることは、この問題は決して「他人事」ではない、という点です。

 

もしかしたら、自分がなるかもしれない。

もしかしたら、自分の親族がなるかもしれない。

もしかしたら、自分の周りにいるひとがなるかもしれない。

 

可能性は、決して低くない。

そのとき、自分はどうすべきであろう。

どうしたらいいのだろう。

そう、自分の「直面する問題」として、切実に考えていきたいと思うのですね。

 

まとめ

「引きこもり」について、いろいろ述べてしまいましたが、最後にちょっと整理してみたいと思います。

 

「引きこもり」といっても、様々なケースがあり、様々な問題がある。

 

そのなかで、ご両親や親族など、この問題を支え経済的・心理的負担を抱えている方には、チームを組んで対応するなど、具体的方策を早急に考える必要がある。

 

一方、「引きこもり」という状況やそのご本人に対しては、「社会」の方が現状を変えていき、対応すべきである。

 

我々が「引きこもり」を非難したくなるのは、我々が「厳しい社会」をなんとかして生きており、その「厳しい社会」を我々同様に生きようとしないことに、怒りを感じてしまうからではないのか。しかし、そもそも「社会」は、厳しい必要があるのか。

もっと甘くて緩やかな「社会」を、我々は目指すべきではないのか。

 

我々が「引きこもり」を排除したくなるのは、我々は直感的に「引きこもり」の問題が自分たちにも発生し得ることを知っているからではないのか。だから、見て見ぬ振りをするために、「引きこもり」を排除したくなるのではないのか。

しかし、誰でも発生し得る以上、我々はこの問題を正面から見据え、対策を考える必要があるはずだ。

そのように考え、自分のこととして捉えてみると、やはり我々は、もっと甘くて緩やかな「社会」を、求めたいと思うのではないだろうか。

 

以上、ちょっとまとめてみましたが、正直「書くのは易し、行うは難し」だろうなあ、とも思いました。

「甘くて緩やかな社会」、実際にはこれを構築するのは、途轍もなく大変ですよね。

 

教育でも、厳しくすることは難しくありませんが、甘くするのはとても難しいですね。

いや、「際限なく甘くして放置」だったら簡単かもしれませんが、甘くしつつも教えるべきことは教え、理解させるべきものは理解させる教育、というのは難しいですよね。

 

同じく、「社会としてのルールを保ちながら、それでいて甘くて緩やかな社会」、これを構築するのは相当に難しいと思います。

ここでいう「甘さ」「緩やかさ」には、色々な意味合いがあると思いますが、セーフティーネットの充実、何度でも再チャレンジ可能な機構、多種多様な生活スタイルの受容など、いろいろなものを包括できる社会なのでしょうね。

いろいろなものが包括されれば、また様々な衝突も発生してきます。

矛盾も生じます。

難しい。とっても難しいです。

 

でも、私は思ったのですね。

ここ1週間程、ずーぅっと「引きこもり」について考えていたのですが、この「引きこもり」についての問題を契機に、今後の社会の在り方を模索すべきではないだろうかと、そう思ったのですね。

今後、AIが発達し、いろいろなことがシステマチックになっていくでしょう。

しかし、社会が目指すべき方向は「機能的で無駄のない社会」ではなく、「様々なものを包括して矛盾を抱えながらも、人間同士が甘く緩やかに接合できる社会」なのではなかろうか、と。

私は、そんなことを思ったのですね。

 

実際に、どうしたらそのような社会をつくっていけるのか、これはすみません、まだ分からないのです。でも、考えたいです。

どうも、ここに鍵があるような気がするんですよね、「目指すべき社会の方向性の鍵」が、ですね。

勘違いだったら申し訳ないのですが、取り敢えず私はそんな風に思ったのです。

「甘くて緩やかな社会」づくり。それでいいのか?できるのか?

 

如何でしょうか?

相変わらず脇の甘い文章で恐縮ですが、どうぞ、皆さまからのご教授を頂ければ、本当に嬉しい限りです。何卒宜しくお願い致します!

 

というわけで、「引きこもり」を考え、「社会が目指すべき方向」を考えた次第でした!お付き合いを頂きまして、誠にありがとうございました!

 

「尊重に留めるべき意見」と「議論すべき意見」。分けて考えてみるのは、どうでしょうか?

こんにちは。国分坂です。

「歩くこと」と「考えること」が好きな国分坂ではありますが、「考えすぎてしまう」悪癖がございまして、たまに「どんより」してたりします。

 

インターネットの世界では、日々、様々な意見が飛び交っていますね。

いやあ、本当に考えさせられます。

皆さん、凄いですね。いろいろなことを、色々な角度から、いろいろに、様々深く考えていらっしゃる。

お陰で私も考えっぱなし、です。

 

 

「価値観や 感情論」は議論の対象外?

さて、これはあくまでも私見ですが、「価値観」や「感情論」といったものは、議論の対象にそぐわないように思います。

つまり「好き・嫌い」の問題は議論しても意味がない、というのと同様かな?と思うのですね。

 

たとえば「私は猫が好き!」という人に、どれだけ犬の素晴らしさを説明し、歴史的背景だのを論じても、「犬もいいかもしれないけど、私はやっぱり猫が好き!」ということになるのではないかと。

 

私は、あの黒くて素早い、梅雨時になるとそろそろ警戒しなくてはならない、そう「あの虫」が、もう大っ嫌いというか恐怖の対象でしかないのですが、どうして嫌いなのか、怖いのか、論理的に説明することができません。(いや、あの虫の驚異的な能力、もしも人間並みの大きさならF1くらいの速度が出せるだろうとか、もちろん気門による呼吸だから現在の酸素濃度が維持されれば巨大化は無理だろうとか、所詮はタンパク質で構成されている以上、熱湯を掛ければすぐに凝固するだとか、地表温度が35度を超え湿度が60%くらいになると飛翔しやすいとか、でも飛ぶと天敵の鳥に狙われるため明るいうちはあまり飛ばないとか、そういう「情報」は持っているのですが、「嫌い」「恐怖」といった感情を、論理的に説明することはできないのです。)

 

そして、論理的に「危険性はないから嫌う必要も怖がる必要もない」と説明されたって、まったく無理なわけですよ。無意味です。絶対に、怖いし嫌い。

 

そう、「感情」や「価値観」の問題は、議論して正誤を求めるものではないのだと思うのですね。

むしろ、互いに「尊重」し合って、折り合いをつけるべき問題、だと思うのです。

 

これに対して、純粋な「手段」や「方法論」、「技術論」に関しては、議論が可能であると思います。

ある目標に対して「どのようにやれば」最も効率的か、効果的か、といったこと考えるのであれば、議論をして最適解を求めることができるはずです。

 

つまり、「感情論・価値観」は議論をするのではなく尊重し合うべきであり、「手段・方法・技術論」は議論して最適解を求め得る、と思うわけです。

 

 

尊重し合うべき意見と議論できる意見

昨今話題になっている「ヴィーガニズム」という考え方がありますね。一言に「ヴィーガニズム」といっても様々あるようですが、「肉食をしない」という生活スタイルを採ることは、どうやら一致しているように思われます。

「ヴィーガニズム」には、様々な主義主張があるようですが、たとえば「動物に苦痛を与えるべきではない」という「ヴィーガニズム」や、「畜産業は環境破壊を促進するため、持続可能な社会を目指すにはこれを廃止すべきだ」という「ヴィーガニズム」もあるようですね。

 

さて、「動物に苦痛を与えるべきではない」から肉食しない、という主張と、「持続可能な社会を目指すため」に肉食しない、という主張とは、分けて対応する必要があるのだと思うんです。

なぜなら、「動物に苦痛を与えるべきではない」という主張は、「価値観」に起因する主張だと思うのです。「動物が可哀そうだ」という「感情」に起因する主張だと思うのです。

これについて、論理的な議論をすることは如何なものか、と思うのですね。

「いや、人間以外の肉食動物もやっているし」

「動物以外の植物は、微生物は、可哀そうではないのか?」

といった形で反論し、「よって、動物を食べることを可哀そうだと思うことは理論的ではない」と説明されても、可哀そうだと思う人を納得させることは無理だと思うのですね。

「理論的に可哀そう」なのではなく、「感情的に可哀そう」なのですから。

 

価値観や感情に対しては、それを尊重するに留めるべきだと思うのですね。その是非を議論することは不毛だと思うのです。

もっとも、尊重は「相互」になされる必要がありますので、「肉食をしたい」という価値観に対しても、もちろん尊重が必要です。

「動物が可哀そうだから肉食しない」という人々と、「動物は美味しいから肉食したい」という人々とが、相互に尊重し合い、その上でどうしたら互いに納得できるか、その「方法論」こそを議論すべきなのですね。

 

一方で、「持続可能な社会を目指すため」に肉食をしない、という主張は、「人間が暮らしやすい環境」を存続させるという目的ための「方法論」としての主張だと思います。

よって、この主張に関しては、真っ向から大いに議論が可能だと思うのです。

畜産業がどのくらい「人間が暮らしやすい環境」に悪影響を及ぼすのか、仮に畜産業を廃止して代替食産業を選択した場合、「人間が暮らしやすい環境」への影響はどのように変化しうるのか、これらは科学的データに基づき推論することが可能でしょう。

仮に畜産業を廃止した方が「人間のための持続可能な社会」を実現できるというデータが得られたとしたら、「肉食をしたい」という価値観を有する人たちに、ある一つの科学的根拠に基づく選択肢を提案し得る、ということになるのだと思います。

 

なお、念のために言いますと、仮に畜産業をやめた方が持続可能な社会を実現できるというデータが得られたとしても、「肉食をしたい」という「価値観」を有する人々に対し、「だから肉食はやめるべきだ」と理論的に説明してもダメなのですね。

あくまでも「肉食をしたい」という価値観を有する人々を尊重しつつ、持続可能な社会実現のためにはどうしたらよいのか、という方法論を考える必要があるわけです。

 

たとえば、大豆を加工して味・食感がほぼ牛肉、というものが作れたとして、「牛の家畜業を廃止すると環境保全にこれだけの好影響が与えれます。そして我々は大豆で牛肉の代用食を作ることに成功しました。味・食感はほぼ同じ。たんぱく源としての栄養価は、より優れているくらいです。価格は牛肉の半額です。どうでしょうか?」とデータを示されながら問われたら、私だったら味見をしたうえで、代用食でOKしちゃうかもしれません。

(そもそも私は高価な牛肉に疎遠なので、「安く牛肉的味を堪能できる」ということに、まず「価値」を見出すのかもしれません。その上で「環境保全にもなるのかあ、だったらいいねえ」と思うのかも。もっとも、海原雄山のような美食家の人なら「こんなものは牛肉ではない!」と却下するかもしれず、この場合はより美味しい代用食の研究に頑張ってもらうしかないですね。)

 

受忍限度

ここまで書いてみて、ふと気が付きました。

「価値観」は、互いにどこまで尊重すべきなのか、と。

 

千差万別、様々な「価値観」があると思います。どうしても互いに相いれない「価値観」だってあり得るでしょう。

 

これはやはり、憲法が定める人権と同様、「公共の利益に反しない限り」、平たくいうと「他人に迷惑を掛けない範囲で」、互いの価値観は互いに尊重すべき、ということになるのではないでしょうか。

もっとも、では「迷惑」とはどの程度をいうのか?という議論が次に待っていますが、これは、「互いに尊重」することが前提である以上、「自分が我慢できる範囲で、他者も自分を我慢してくれる」ということになるのだと思います。

 

沢山我慢できるひとは沢山受け入れてもらえるし、ちょっとしか我慢できない人はちょっとしか受け入れてもらえないよ、ということになるのですかね。

 

現代社会が目指していくべきもの、それはやはり「多様な価値観」だと思うのですね。

いろいろな価値観があってよい、いろいろな価値観を持ってよい、そういう社会を目指そう、という方向であるべきだと、私は思うのですね。

 

だとするのであれば、我々は、互いに尊重し合わなければならないのです。

平たくいうと、我々は我慢し合う必要があるんですね。

自分が社会に受け入れてもらうためには、自分も社会を受け入れなければいけない。そのためには、自分も社会も、双方我慢しなければならない。

それが、「多様な価値観」を持つ社会を作っていく上での、最も根本的なルールになるのでしょうね。

 

もっとも、昨今は色々なことがどんどん「便利」になっていますからね、私なんかも、どうも我慢が苦手になっている気がします。

インターネットなんかも、昔は「使いたい放題」ではなくて、一日3時間まで!とかでしたねえ。いま思えば、ちょっとあり得ない世界でしたね。便利になりました。

 

そう、便利な社会で我慢が苦手になっていることを自覚しつつ、しかし、「多様な価値観」を認める社会では我慢が重要、ということを、しっかりと認識したいと思います。

 

 

 【過去記事紹介:対話の重要性と我慢のススメ、についてです~】

www.kokubunzaka.com

 

 

まとめ

今回考えてみたことは、「価値観や感情に対しては、尊重するに留める」こととし、「手段・方法・技術論」は議論して最適解を求め得る、ということでした。

 

インターネット上にも様々な意見があると思うのですが、これらを私は「価値観・感情」に基づくご意見と、「手段・方法・技術論」に関するご意見とに分類してみたのですね。

そうしてから改めて記事を読んでみると、「価値観・感情」に分類したご意見に対しては、「なるほど、そういう考え方もあり得るのだなあ」と、ときに共感できたり、ときには共感できないけど考えさせられたり、といった気付きを得ることができました。

一方、「手段・方法・技術論」に分類したご意見に対しては、「この方法論はこのように改善できないだろうか・・なるほど、自分の考えていたものはこの点が弱かったのか、そこにこの見解を合わせてみると補強できる、お、昇華した?」といった具合に、自分の中で議論を展開し、深く考察し得ることに気が付いたのですね。

 

「価値観・感情」に基づくご意見と、「手段・方法・技術論」に関するご意見とを分けてみることで、更に愉しむことができるようになったのです。

 

もっとも、なかには「価値観・感情」と「手段・方法・技術論」に、分類できないものもありますね。

たとえば「天皇の男系女系問題」などがそうですかね。

私などは「天皇は機関であろうから、より有効に、かつ、より弾力的運用ができる方法を考えてみたらどうだろう」と思っていましたが、「天皇の存在そのものに価値を見出す」考え方もあるようで、その考え方からすると、「女系」は天皇の価値を侵害してしまう、ということになるのかもしれません。

たまに識者同士が議論しているのを見て、なんだかかみ合っていないなあ、と思われたりするのは、「価値観」としての意見と、「方法論」としての意見とが、無自覚にぶつかっているからかもしれませんね。

このあたりは、価値観を尊重しつつ、しかし「(社会として)受忍可能か?」というあたりを考慮して、双方が慎重な意見交換をしていくべきなのかもしれませんね。

 

みなさんは、如何お考えでしょうか?

もしよろしければ、ご意見頂ければ幸いです。

 

というわけで、「尊重に留めるべき意見」と「議論すべき意見」、分けて考えてみてはどうでしょうか?でした!

お付き合いを頂きまして、誠にありがとうございました!

 

「やり場のない怒り」 を、どうしたら良いのでしょう・・? 「理論的」にいわれても、昂る怒りは止まりません・・ どうしましょうか。

こんにちは。国分坂です。

「怒り」について。今回は考えてみたいと思います。

 

あまりにも悲痛なニュース。

頭がくらくらしてしまい、どうしたら良いのかも分からなくなる、そんなニュースが先日飛び込んできました。

いや、悲痛なニュースはこれに限ったことではありません。ちょっと思い返すだけでも、いくつもの悲痛なニュースが乱立しています。

 

私は、自分の中に渦巻いてしまう「怒り」を、どうしたらよいのか分からず、途方に暮れるばかりです。

 

ここでは、「事件」そのものについては触れません。

 

ここで取り上げたいのは、私の中で渦巻いている「怒り」なのです。

この「怒り」を、どうしたら良いのだろう?ということを、少し考えてみたいと思うのです。

 

「事件」のニュースに触れたとき、私は激しい「怒り」を覚えてしまったのです。

「怒り」とともに浮かび上がったのは「どうして?」「なんで?」という疑問符。

もっとも、その疑問符に対して仮になんらかの情報が付与されたとしても、私のなかの「どうして?」は、完全には払拭されないでしょう。

なぜなら、ここでの「どうして?」という疑問符は、条件反射的に発せられた疑問符でしかないからです。

つまり、この疑問符は、すべての事柄に「因果関係」、つまり「結果に対する原因」というものを求めてしまう習性に、根差したものでしかないからです。

事件がもたらした「結果」は、「理不尽」以外のなにものでもない、という結論に、私は達してしまっているのです。

どのような「原因」を挙げられたとしても、残念ながら、事件がもたらした「結果」に結びつけることはできない、という結論に、私は達してしまっているのです。

どのような「背景事情」等が語られたとしても、事件がもたらした「結果」を受け入れることができない、という心理状況に、私は陥ってしまっているのです。

そのため、どうしようもない「怒り」が、心の中に渦巻いてしまっているようです。

 

私の「怒り」は、残念ながら、「理論的な説明」では解消することが困難であるように思われます。

いやむしろ、「感情的」な問題を、「理論的」に分析・説明されたら、余計に感情が昂ってしまうかもしれません。

まさしく「火に油を注ぐ」、ということになってしまいそうなのです。

 

もちろん、渦巻く「怒り」とは別に、私の中にも「理性的な思考」は働いています。

その「理性的な思考」は荒ぶる「怒り」の前では、ほんの小さなささやきでしかありません。

でも、ちょっとだけ、そのささやきに耳を傾けてみることにしました。

 

私の中の「理性的な思考」はこうささやきます。

 

「怒りをぶつける為の相手を、でっち上げるべきではない」と。

 

うう。自分の中の「理性的な思考」とはいえ、なんだかカチンとくる物言いです。

こういうのを、「上から」っていうんじゃないんですか?

・・まあ、いいでしょう。自分の中の「理性」がいうのですから、上からも下からもないはずです。まずは「理性」のアドバイスに、耳を傾けてみるとしましょう。

 

「怒りをぶつける為の相手を、でっち上げるべきではない」

確かに先日の事件は、もう本当に「やり場のない怒り」が渦巻きました。

たしかに振り返ってみると、その「怒り」をぶつける相手を、私は求めていたようにも思えます。

 

この事件に関しては、インターネット上でも、様々な意見が上がりました。

自分の意見とは異なる意見に対し、私は「そんなのおかしいよ!」と「感情的」に反応してしまっていたように思えます。

本来であれば、自分と異なる意見に対しては、「理論的」に受け止め、「理論的」に反応すべきであるのに、私は「感情的」に受け止め、「感情的」に反応してしまっていたのです。

これは、おそらく私の中に渦巻く「怒り」が、まき起こした現象なのでしょう。

「怒り」に振り回された私は、ついつい、「怒り」をぶつける相手を求めてしまっていたのです。

インターネットに上がった、私とは異なる意見を発した方を、「怒り」をぶつける相手に仕立て上げていたのです。

そして、「そんなのおかしい!」と息巻いてしまったのです。

 

・・とても怖いですね。実に反省です。

「怒り」に駆り立てられて、「憎悪」をまき散らすおそれすらありました。

これは悔しいけれど、私の中の「理性」がいうとおりです。

「怒りをぶつける為の相手を、でっち上げるべきではない」のですね。

 

このような事件が起こってしまったとき、当然ながら、なんとかして再発を防ぎたい、と思うのは当然だと思います。

そして、そのように思った人々から、様々な意見が出てきます。

私達は、それらの意見に、それぞれ真摯に向き合うべきでしょう。

たとえ自分とは異なる意見が出てきても、「再発防止」という観点から、「理論的」に受け止め、「理論的」に反応すべきなのですね。

決して、「やり場のない怒り」の対象として、「感情的」に受け止め、「感情的」に反応すべきではない、ということなのですね。

この記事を書いてみたおかげで、私の中のもやもやが、少し解消できた気がします。

・・勉強になりました。

 

でも、一番大きなもやもやは、依然として残っています。

私のなかに渦巻く「怒り」は、やっぱりそのまま渦巻いているのです。

今後、ニュース等で「原因」探しが、やっきになって行われるでしょう。

背景事情などが、語られることでしょう。

 

しかし、前述したように、おそらくどのような「原因」が語られても、私のなかの「怒り」は収まらないはずです。

どのような「原因」が語られても、あの「結果」を受け入れることが難しいからです。

残念ながら、「因果関係」などといった「理論的」説明では、私の中の荒ぶる「怒り」を鎮めることは無理なのです。

 

だから、どうしたら良いのか分からなくなり、途方に暮れます。

おそらく、「感情」を鎮めることができるのは、「感情」だけなのでしょう。

しかし、どのような「感情」が新たに生まれれば、被害者の皆さん、被害者の親族方の傷は、癒されるというのでしょう。それを想像するだけで、途方に暮れます。

 

正しいかどうか、わかりません。ただ、少しでもこの事件で「怒り」を感じた以上、その「感情」をなるべく持ち続けていくべきなのでは? と私は思いました。

この事件で得た「感情」を持ち続けていかなければならない、と思ったのです。

でも、「怒り」は爆発的な力を発揮しますが、長続きしません。やがて、忘却してしまいます。

しかし、この事件に触れて「怒り」を感じた私は、「忘却してしまってはならない」、と感じているのです。

いや、もちろん、日々様々なことが起こりますから、やがては忘却してしまうかもしれません。でも、なるべく忘却してはならない、と思うのです。

 

それが、私の中に渦巻いた「怒り」に、真摯に向き合う態度のように思われるからなのです。

 

被害者の方々のためにするわけではありません。

社会のためにするわけでもありません。

あくまでも、自分のなかに渦巻いた「怒り」のために、少しでも忘却しないよう心掛けたい、と思うのです。

 

でも、「怒り」は長続きしない感情なのですね。

なので、間違っているのかもしれませんが、私はこの「怒り」を「悲しみ」に変えて、心の中に留まらせたいと思います。

 

繰り返しますが、私ごときが被害者の皆さんのために悲しめるはずもありません。

社会のために、悲しむわけでもないのです。

あくまでも、私の中に渦巻いた「怒り」に真摯に向き合い、これを鎮めるために、私は「悲しむ」のだと思います。

 

あんまりにも理不尽です。

でも、その「怒りのやり場」はないのです。

「怒りのやり場」をつくるわけにもいきません。

ひどいです。

だから、私はここからうまれた「感情」を、「怒り」を「悲しみ」に変えて、持ち続けたいと思うのです。

 

「怒り」がいつ「悲しみ」に転じるかわかりませんが、私はそのようにしてみたいと思います。

もしかしたら、「怒り」が「悲しみ」に転じたら、他の感情も受け入れやすくなるかもしれません。

感情的な決着はつかないかもしれませんし、つけるべきでもないのかもしれませんが、「怒り」が「悲しみ」に転じたら、今よりはもう少し、まわりが見えるようになるかもしれません。

 

理不尽なことが起こってしまう世界を、少しでもなんとかしようとするのが「理性」でしょう。

でも、ひとは「理性」だけでは生きることができません。

重い「感情」を引きずって生きるのが人間です。

ともに大切にしながら、ときにはごっちゃにせず、うまく分けながら、双方に折り合いを付けながら、なんとかして生きていきたいと思います。

 

「やり場のない怒り」をどうしたら良いのか、正直なところよくわかりませんが、少なくとも今は、忘れないように引きずりながら、しかし理性のささやきにも耳を貸しながら、進んでいくしかない、と思いました。

 

ああ、すみません。なんとも纏まりのない乱文です。

お付き合いを頂き、本当にありがとうございました。