「森とタタラ場、双方生きる道はないのか!」とアシタカさん。「対話」の重要性を考えます。(あるいは「我慢」のススメ。)
みなさん、こんにちは。国分坂です。
今回は「対話」について、考えてみたいと思います~!
- 『もののけ姫』主人公アシタカの叫び
- 対立関係ある当事者間の対応(回避・交渉・闘争)
- 対話とは
- 対話から得られる感覚(同調・共感・尊重・無視・排斥)
- 対話の先に目指すもの
- 「我慢」のススメ
- アシタカの奮闘で、なにが変わったのか?
『もののけ姫』主人公アシタカの叫び
映画『もののけ姫』の主人公アシタカは、「森」と「人」との間に立って、右往左往しながら孤軍奮闘しますね。
「森とタタラ場、双方生きる道はないのか!」と。
でも、犬神のモロには「小僧、もうお前にできることはなにもない」と言われてしまうし、ジゴ坊には「あいつ、どっちの味方なのだ?」と疑われるし、もののけ姫サンには「来るな!人間なんか大っ嫌いだ!」と突き放されるし。
それでもアシタカは、「森」と「人」、鋭く対峙する両者の間に立とうとして、なんとか双方が共存できる道を、探し出そうと頑張ります。
そしてアシタカは、森の住人である山犬・猪・サンたちに、人間のエボシ・ジゴ坊・タタラ場の人たちに、一生懸命「言葉」を投げ掛け続けます。
その「言葉」は虚しく霧散していくばかりですが、アシタカは諦めずに、体を張って「言葉」を発し続けるのです。
アシタカは、鋭く対峙する両者の間に「対話」の場をつくろうと、奮闘するのです。
対立関係ある当事者間の対応(回避・交渉・闘争)
対立する当事者が相手に対して採り得る対応は、ざっくり分類すると三種類あると思います。
「回避」、「交渉」、「闘争」の三種類です。
「回避」とは、争いに発展することをおそれ、相手との接触を避ける行動です。自然界の野生動物にも、よく見られる行動のようですね。
見て見ぬ振りをし、決定的な敵対関係になることを避けるのです。
「交渉」とは、対立する当事者との間で、「闘争」以外の解決策を図る行動です。
対話、説得、取引など、論理的・感情的・経済的納得を、一方若しくは双方が得るための行為といえます。
「闘争」とは、ここでは「武力を用いて相手方を屈服させ、自らの要求を獲得する行動」とします。個人が行えば暴力的奪取ですし、国家が行えば戦争ですね。
さて、ざっくりと三分類してみましたが、できれば避けたいのは「闘争」ですよね。
一般的には、誰しも暴力を振るいたくないでしょうし、振るわれたくもないでしょう。
「回避」に関していえば、もしもこれで「済む」のであれば、決して悪い手段とはいえないでしょう。
対立する相手方と接触せず「問題を顕著化させない」というやり方ですから。
しかし、往々にして、「回避」したくてもできない、見て見ぬ振りはもう限界、という事態になってしまうことが多いのですね。
そこで、「回避」はできないけど「闘争」はしたくない、ということで採られる手段が「交渉」です。
「交渉」には、様々な手段があります。
法理論的な決着をつけるための「訴訟」も「交渉」のひとつです。
外交的・経済的な決着をつけるための「deal(ディール):取引」も「交渉」です。
倫理的・論理的な納得を得るための「説得」も「交渉」にあたるでしょう。
しかし今回は、数ある「交渉」のうち、「対話」に焦点を当ててみたいと思います。
対話とは
「対話」とは「相手方と対面して話すこと」ですね。(直接対面せず、電話などで話すことも、一応「対話」に含まれるかもしれません。)
「対話」という方法は、理論的・倫理的決着、外交的・経済的決着のみならず、「感情的」な問題についても対処することに長けている点に、特徴があるといえます。
「対話」においては、単なる「情報」のやり取りがなされるだけではなく、「感情が込められた言葉」のやり取りがなされます。
つまり「対話」は、双方でやり取りされる言葉に「感情が込められていること」を前提として成立するもの、といえるのです。
(更に「直接対面して行う対話」においては、いわゆるボディーランゲージも加わるため、感情のやり取りが、より効果的になされます。)
「対話」を行うことで、当事者双方の感情が吐露されていきます。
それにより、「対話」の場に出てきた感情を、双方が「共有」できることになります。
更に「対話」が進み、双方の間で一定の信頼関係が構築されると、相手方の感情的な問題を、「受け入れることはできないが、認識はした」、という態度を示せる場合があります。
自分の感情を「認識」してもらえた当事者は、相手方に対しても、その感情を「認識」しよう、という行動に出ることがあります。
強い言葉を言われれば強い言葉を言い返したくなるように、自分の感情を認識されれば相手の感情も認識しよう、という気持ちになるのですね。
これは「対話」におけるバランス感覚の発露、といった効用ですね。
このようなことが起こると、それを契機として、「対立解消の糸口」が見えてくることがある、というわけなんですね。
「対話」における「感情」の相互認識が、対立解消を促すことがあるのです。
対話から得られる感覚(同調・共感・尊重・無視・排斥)
もちろん、対話により常に問題が解決するわけではありません。
対話することで、より一層、対立が先鋭化してしまうこともあります。
そこで、対話をするに際しては、「対話により何を求めるべきか」というを、常々念頭に置いておく必要があるわけです。
それを考えるにあたり、まずは「対話により得られる感覚」について、ちょっと整理しておきたいと思います。
「対話により得られる感覚」には、ざっくりと5種類あると考えます。
同調・共感・尊重・無視・排斥の5種類です。
以下、私なりに解析してみます。
同調は、相手の感情や意見と、自分の感情・意見とが「一体化」することです。
たとえば、幼児が母親に持つ感情や、幼児が母親に対して求める感情に近いもの、といえます。
相手の感情・意見を無批判的に受け入れ、それらを自らの感情・意見とするものです。
共感は、相手の感情や意見を評価し、一定の範囲で受容することです。
同調とは異なり、自分の感情・意見と、相手の感情・意見とは分離していますが、一定の範囲で受け入れることで、相手の感情・意見と心理的に共鳴できる状態になるものです。
尊重は、相手方の感情・意見を自分の感情・意見と異なるものとして峻別し、それを受容することはできないとしながらも、相手方の感情・意見を重要なものとして認め、自分の感情・意見と共存させることに努めるものです。
無視は、相手方の感情・意見を、あえて認識しない、というものです。
排斥は、相手方の感情・意見を否定し、その存在を認めず、自らの認識の外に追いやろうとするものです。
さて、「対話により何を求めるべきか」についてですが、「無視」や「排斥」はもちろん論外です。
相手方の感情・意見を「無視」「排斥」しようとすれば、当然ながら対立が先鋭化してしまうでしょう。
(結果、世界を味方と敵に分類し、排除し合うだけになってしまいます。)
だとしたら「共感」でしょうか?
そうですね、対話により相手から「共感」が得られたら、とても気持ちが良いでしょう。
相手方が自分の感情や意見を受け入れ、一定の範囲で賛同してくれるわけですからね。
しかし、対立する当事者間での対話で「共感」を得るというのは、実際問題としては、かなり困難なことといわざるを得ません。
「共感」は理想的ともいえますが、受容を前提とする以上、そうそうできるものではないのです。対立関係にない間柄であっても、「共感」できないケースは往々にしてあるのではないでしょうか?
対立する当事者間であれば、なおさらですよね。
対立当事者間での対話の「現場」においては、双方が相手方に「同調」を求め、それが無理だと分かると相手を「無視」または「排斥」してしまう、といった態度が往々にして見受けられます。
しかし、対立する当事者間の対話において、無批判な「同調」なんて、引き出すことはまず無理なはずなのです。
ところが、対話に慣れていないためでしょうか、自分の意見をそのまま受け入れてもらうことを、ついつい求めてしまうのですね。そして、自分の意見に対し少しでも批判的な意見が出されると、もう拒絶反応を起こしてしまい、それ以降は相手を「無視」「排斥」してしまうのです。
残念ながら、そのような対応が、とても多いように見受けられます。
では、どうしたらよいのでしょうか?
「共感」は難しい、「同調」「無視」「排斥」はダメ。
・・そう、対立する当事者間での対話で求めるべきものは、「尊重」なのです。
そもそも「対立」している以上、双方の感情・意見が「異なる」ことは当然であり、「異なる」というところから、出発しなければならないのです。
どれほど言葉を尽くしてみても、双方の隔たりが埋まるには、通常、かなりの時間を要するはずなのです。
そこで、「自分と相手とは異なるのだ」ということを、まずはしっかりと認識することが重要になるのです。
そして、「感情・意見の異なる自分が、相手にその存在を認めてもらうためには、自分も相手の意見を認め、その存在を認めなければならない」という認識に至る必要があるわけです。
相手方の意見を「受け入れること」はできないが「存在すること自体は大切にする」という態度をとるのですね。
それが、「尊重」です。
相手方の意見を「尊重」するのです。
相手方の意見を「尊重」することで、感情・意見の異なる両当事者が、互いの存在を認め合う基盤がうまれます。
互いの存在を認め合うことができたら、そこを出発点として、「互いのテリトリーをなるべく侵さないルール」づくりを話し合う、ということが可能になっていくわけですね。
そう、「尊重」こそが、対立する当事者間での対話で求めるべきものなのです。
なお、「同調」に関しては、私は否定的に捉えております。
「同調」は、「自分と相手とが一体的な感情・意見を持つこと」です。
つまり、「同調」を求めることは、相手に「確立した感情・意見を持たないこと」を求めること、ともいえるのです。
独立した人格を有するはずの個人に「確立した感情や意見を持たない」ことを求めるというのは、非常に危なっかしい状況をつくりだすことになるのではないでしょうか?
やはり、独立した人格を有する者同士、それぞれ確立した感情・意見を持ちながら、ときに「共感」し、ときに「尊重」し合って、互いの関係性を維持していくべきだと思うのです。
よって、私は相手に「同調」しないよう、相手に「同調」を求めないよう、心掛けています。
対話の先に目指すもの
さて、対立する当事者間での対話では「尊重」こそを求めるべきだ、と論じました。
では、相手の感情・意見を「尊重」したうえで、問題解決のためには、その先更に、なにを目指すべきなのでしょうか?
それは、「変容」です。「自己変容」。
自分とは異なる感情・意見を「尊重」し、その存在を認めたうえで、今一度、「自ら」を振り返ってみることが重要なのです。
「このような感情や意見があり得るのだ」ということを、客観的な視点で、今一度、捉え直してみるのです。
「相手方の感情・意見を受け入れる」というのではなく、客観的なデータとして、「このような感情・意見が存在し得るのだ」ということを見つめ直すのです。
すなわち、「学習」するわけですね。
学習することで、自らの中に新たな視点がうまれ、問題の解決方法を得たり、ときには問題自体が霧散することになり得るのです。
そう、学習により「自己変容」が促され、問題解決に繋がるのです。
つまり、対話の先に求めるものは「自己変容」であり、それこそが真の問題解決を生み出す鍵になり得るわけです。
「我慢」のススメ
では、「尊重」と「自己変容」とを実行するには、具体的にどのような行動を心掛けるべきなのでしょうか?
それは「我慢」ですね。
相手の言うことを、何はともあれ、「我慢」して聴く。
自分的にはあり得ない感情であっても、論理的に破綻しているような意見であっても、まずは「我慢」して聴くのです。
反論や問題点を指摘したくなる気持ちをぐっと押さえて、最後まで相手の言葉を遮ることなく、ちょっと「我慢」して聴いてみましょう。
その聴く態度こそが、相手の感情・意見を「尊重」する態度になるのです。
そして、「あり得ない感情」や「破綻している意見」であっても、どうしてそのような感情・意見が発生してしまったのだろうか? 背景事情には一体なにがあり得るのだろうか? といったことを、ちょっと「我慢」して分析していきます。
自分的にはあり得ない感情や意見であっても、そのような感情や意見を持つひとが、実際、目の前にいるわけですから。分析してみる価値は、充分あるはずですよね。
「客観的なデータ」として、その感情・意見の根源、背景事情、隠れた意図などを、じっくりと探って、考えてみましょう。
そうすることで、いままで感じたこともない感覚や、知り得なかった世界観を、垣間見ることができるかもしれません。
それが、我々に自己変容を促すことになり得るのです。
その瞬間、「問題が問題でなくなっている」可能性すらあるのです。
つまり、「我慢」は相手のためにするのではなく、自分のためにするのですね。
相手との対話により学習を得て、自分の中での対話が起こるのです。それらを導いてくれるのが「我慢」というわけです。
その結果、うまくすると自己変容が起こり、問題の解決方法がわかったり、問題が無効化したりするわけですね。
アシタカの奮闘で、なにが変わったのか?
最後にもう一度、『もののけ姫』に戻ってみましょう。
アシタカの奮闘により、問題は解決したのでしょうか?
誰が、何が、変わったのでしょうか?
結局のところ、シシ神の森は破壊され、タタラ場も破壊されてしまいますね。
サンはやはり「人間を許すことはできない!」と言いますし、タタラ場の人たちも、おそらくサンたち森の住人のことを恨み続けることでしょう。
だとしたら、問題は解決せず、なにも変わらなかったのでしょうか?
いえ、違いますよね。
サンは、「アシタカは好きだ」といいます。サンは、人間であるアシタカを受け入れたのです。
そしてエボシは、「礼を言おう。誰かアシタカを迎えに行っておくれ」と、森と人間の間に立ったアシタカを、快く受け入れるのです。
つまり、「森の住人代表」のサンも、「タタラ場代表」のエボシも、ともに変容し、アシタカを介して、取り敢えずの併存関係が成立するわけなんですね。
おそらく対立は解消しておらず、問題は依然山積しているのでしょうが、一応の落しどころを双方見出し休戦できた、といった感じだと思います。
(なお、『もののけ姫』のラストでは「シシ神の森」が失われ「新たな森」が誕生しましたが、この森はおそらく「里山の風景」だと思われます。自然界からすれば、人間により破壊された「いびつな森」である「里山」なのですが、これに関しては様々考察したい点があります。しかし、これはまた別の機会に、改めて論考したいと思います。)
アシタカは、森の住人とタタラ場の人間たちの「闘争」を、なんとか食い止め、「対話」によって解決させようと頑張りました。
残念ながら「闘争」を止めることはできませんでしたが、しかし、「対話」の呼びかけは、一定程度功を奏していたように見受けられる、というわけです。
さてさて、アシタカは、この後もやはり、苦労を重ねることでしょう。
村人たちには、ときに「お前はどっちの味方だい!」と問い詰められるかもしれません。
サンには、ときに「やっぱりお前は人間だ!だいっきらい!」と癇癪を起されるかもしれません。
それでもアシタカは、じっと「我慢」しながら、怒りや疑念が薄れるのを待ちながら、やはり「対話」の場を作り続けていくのでしょう。
そして、サンも村人も、そんなアシタカをやっぱり受け入れて、頼りにして、アシタカの言葉に耳を傾けることになるのではないでしょうか?
どうなんでしょうね?
皆さんは、如何思われますか?
(アシタカって、カッコイイですよねえ。)
というわけで、アシタカさんの叫びから「対話」の重要性を考えてみました!
ここまでお付き合いを頂きまして、誠にありがとうございました!
『トトロの風景』?「都立野山北・六道山公園」に行ってきました~!里山と森林浴とアスレチックと温泉を一度に満喫!
みなさん、こんにちは~!国分坂です。
さて今回は、東京都の西にある「六道山公園」についてのご報告です~!
野山北・六道山公園
今回訪れたのは、正式名称「都立野山北・六道山公園」です。
東京の西方、狭山湖・多摩湖の西に位置する広大な公園です。
東京都最大の広さを誇る公園で、開園予定地も含めると、260ヘクタールにもなるそうですよ。(「260ヘクタール」っていわれてもピンと来ませんよねえ。上野公園が53万㎡だそうですから、上野公園の4.6倍、ということになりますね。)
この六道山公園は、狭山湖・多摩湖の西に位置しますが、いわゆる「狭山丘陵」の一部を形成している公園です。
あの有名な映画『となりのトトロ』は、「狭山丘陵」がモチーフのひとつになっているといわれますが、まさに六道山公園の景色は「トトロの風景」です。
特別の景観ではないのですが、懐かしいような里山の風景、こんもりとした森が広がる公園なのですよ。
なお、この六道山公園から多摩湖を挟んだ東側には「都立八国山緑地」がありますが、この「都立八国山緑地」の近くにある病院が『となりのトトロ』に出てくる「七国山病院」のモデルなんだとか(サツキとメイのお母さんが入院していた病院です)。
【野山北・六道山公園】
《里山民家》:東京都武蔵村山市岸2-32
〈アクセス(里山民家)〉
・JR中央線「立川駅」北口1番バス乗り場から立川バス「箱根ヶ崎駅行」で「岸」下車。バス40~50分、バス停「岸」から徒歩10分。
・JR八高線「箱根ヶ崎駅」から立川バス「立川駅北口行」で「岸」下車。バス20分程、バス停「岸」から徒歩10分。
※野山北・六道山公園マップ
https://www.sayamaparks.com/common/pdf/noyama-p.pdf
JR中央線「立川駅」から出発
さて、六道山公園はとっても広い公園なので、アクセス方法もいろいろあります。
私はJR中央線で「立川駅」まで行き、そこからバスを利用しました。
(「立川駅」まで「新宿駅」からですと、JR中央線特別快速で26分程です。)
立川駅北口の1番バス乗り場から出る「箱根ヶ崎駅東口行」に乗り込みます。
バスの系統番号は「立12-1」または「立12-2」。
下車するのは「岸」バス停です。(片道450円。所要時間は40~50分。)
※路線図は下記をご参考下さい。
https://www.tachikawabus.co.jp/unchin/diagram/diag_tachikawaN4092-01_180701.pdf
※時刻表はこちら。
https://www.tachikawabus.co.jp/time_table_190516/pdf/4092_01.pdf
なお、私は六道山公園の「里山民家」をまず目指したので「岸」で下車しましたが、 公園東側の「あそびの森」へ行くときは「横田」で、「管理所」へ行くときは「峰」で下車してもいいのかもしれません。
※野山北・六道山公園マップ
https://www.sayamaparks.com/common/pdf/noyama-p.pdf
「岸」でバスを降りると看板が出ています。
「岸」バス停から「里山民家」まで徒歩10分くらいですが、ところどころに看板が出ていますので、とてもわかりやすいですよ。
歩いているとT路地になり、左手に神社が出てきます。
須賀神社です。
このT路地を左に折れて、須賀神社の脇を通るようにして進みます。
なお、このT路地を右に折れて進むと、公園の「大将山」を経て「管理所」、「あそびの森」方面に進むことができます。(これは後ほど。)
須賀神社の脇を進んでいくと田園風景が現れます。
「里山民家」のすぐ近くには駐車場がありますので、車でお越しの方はこちらへどうぞ。車はここで右折。徒歩の場合はこのまま直進です。
里山民家
奥に見えるのが「里山民家」です。
気持ちの良い景色が広がりますよ。鳥が囀っていますねえ。
〈野山北・六道山公園 里山民家〉
東京都武蔵村山市三ッ木2-32
利用料:無料
「里山民家」が出迎えてくれます。わくわくしますね。
朝は9時から開いてますね。夏季は夕方5時まで、冬季は夕方4時半までですね。
蔵と母屋がみえますね。なかなか広そうですよ。
門をくぐって進みましょう。
素敵な民家ですねえ。
「母屋 江戸中後期の名主格の農村住居で、狭山丘陵南嶺の民家を新築復元したものです。木造平家建て、間取りは右勝手の食違四間型で、屋根は入母屋の茅葺きです。内部は大きく土間、板間、畳間に別れ、それぞれ主に生産、生活、接客の場に用いられました。」
もちろん、中に入ることができます。
素敵ですよ~!
左の写真に柵で囲まれたものがみえますが、これは囲炉裏です。
とても感じの良いボランティアの方が、火をおこし、お湯を沸かしていました。
「たまにねえ、お弁当代わりにカップラーメンをお持ちになる方がいらっしゃるでね」とかで、そのようなひとのためにお湯を用意して下さっているそうです。
万事こんな具合に、とっても優しくほんわかした雰囲気を漂わしてくれているのです。
実は5月上旬に伺いましたので、「端午の節句」の兜が飾られていました。
なお、外には鯉のぼりが棚引いていました。
(小さくて見えにくいですが、左に見えるのは井戸です。もちろん、じゃぶじゃぶ出来ますよ~)
民家の裏側に広がる広場です。
是非とも、お弁当を広げたくなるような雰囲気。
子供たちがきゃーきゃー叫びながら、走り回っています。
わかるわかる。解放される感じなんだよね~!
奥には田んぼが広がっています。
行ってみましょう!
あぜ道に、可憐な花が咲いています。
ここの田んぼでは、「田植え」や「草刈り」といった「里山体験」ができるようです。
たまには泥んこになって、汗をかいてみるのもいいかも。
※イベントについては事前予約が必要になるみたいですので、「都立野山北・六道山公園」HPをご確認下さい。
ぐんぐんと進んでいくと、やがて田んぼは終わり、森の散策路になります。
(小高い丘程度のアップダウンですが、ちゃんとした靴を用意した方がいいでしょう。)
雑木林の中、たくさんの鳥たちが鳴いていました。
森林浴で、身も心もリフレッシュされますねえ。
あそびの森・冒険の森へ
さて、「里山民家」を満喫したら、今度は公園の東側、「あそびの森」「冒険の森」を目指してみます。
先程の「須賀神社」近くのT路地まで戻り、そのまま東に直進します。
その道を進んでいくと、またT路地にぶつかるので、道路の反対側に渡ってから左折(北へ)。
マップの「大将山」を目指します。
※野山北・六道山公園マップ
https://www.sayamaparks.com/common/pdf/noyama-p.pdf
「武蔵村山市総合体育館」の手前に、山へと向かう急坂が現れるので、そこを頑張って登ります。
よっこらせと登っていきますと、「大将山」の頂上に。
大将山とは大層なお名前ですが、小高い丘程度。
可愛らしい「大将」なのです。
でも、武蔵村山の街が望めますよ。
そこから「管理所」「六地蔵」を経て、「あそびの森」に到着。
大将山から「あそびの森」までは20~30分といった感じでしょうか。
たくさんの遊具・アスレチック道具がありますよ~!
子供たちは大興奮のはず!
運動不足の私も、少しだけチャレンジしてみました!楽しい!!
しかし、頑張りすぎると筋肉痛が怖いです・・
でも、ご安心を。
この「あそびの森」「冒険の森」から徒歩6分くらいの場所に、「村山温泉・かたくりの湯」があるのです!
村山温泉・かたくりの湯
かたくりの湯。
なんと、温泉だけではなくプールもあるんです!
料金は、温泉・プール合わせて、土日祝日だと3時間900円(子供450円)!安い!
(プールご利用時は、水着とスイムキャップをお忘れなく。)
私的には温泉だけで十分ですが、お子さん連れですとプールはテンション上がりそうですよね~。
「里山民家」でリフレッシュして、雑木林の散策を楽しんで、「あそびの森」と「冒険の森」でしっかりと遊んで、最後は「かたくりの湯」で温泉とプールを満喫。
一日たっぷりと遊べそうですよ。
私はアスレチックで普段使わない筋肉を使ってしまった為、温泉でゆっくりと筋肉をもみほぐしました~
打たせ湯が効きますよ~っ
お食事処もあります。
この付近にはレストランなどがないので、助かります!
なお、「食事のみの利用も可」とのこと(施設利用料はかからないそうです)。
使い勝手がいいですねえ。
そして、ここ「かたくりの湯」からバスが出ておりますので、ゆったりくつろぎ気分で帰ることができます~!(多摩モノレール「上北台」行きになります。)
でも!
バスの本数が、とっても少ないので要注意!!
バスをご利用の際は、しっかりと帰りの時間を確認してから、 タイムアラームをセットして、温泉で寛ぎましょう!
※「かたくりの湯」発 多摩モノレール「北上台駅」行バス時刻表
〈土日・朝夜〉
〈土日・日中〉
「かたくりの湯」から「上北台」までは25分くらいでしょうか。
多摩モノレール「上北台」から「立川北」までは15分程度ですね。
そして「立川北」からJR「立川駅」は徒歩2分程度です。
お土産
なかなか素敵な「手ぬぐい」だと思いません?
これ、里山民家の手ぬぐいなんです。
里山基金に募金をしたところ、ボランティアの方が下さいました!
なんとも素敵な絵柄で嬉しい!
一日たっぷりと満喫しましたが、お金は殆ど掛かってません。
ご参考までに、ちょっと記しておきますね。
〈交通費〉
電車:JR新宿駅~JR立川駅:470円
バス:立川駅北口~岸:450円
バス:かたくりの湯~上北台:170円
モノレール:上北台~立川北:310円
電車:JR立川駅~JR新宿駅:470円
〈施設利用費・その他〉
かたくりの湯:900円
里山基金:100円(※任意。10円でも50円でも。募金しなくても、もちろんOK!)
〈以上の合計:2,870円〉
これにお昼と夜の食事代をプラスしても、トータル5,000円程度ですね。
森林浴をたのしみ、里山民家をたのしみ、アスレチックをたのしみ、温泉をたのしんで(更にプールも楽しめて)一日満喫し、交通費込みでこのお値段。
里山は、お財布にもやさしいですねえ。
今回は5月新緑の季節に訪れましたが、夏や秋も楽しめそうですよ。
「里山と森林浴とアスレチックと温泉を、一度に楽しめる場所はないかなあ~」とお探しの皆様、是非ぜひ、訪れてみて下さい!おススメですよ!
というわけで、以上「都立野山北・六道山公園」のご紹介でした!
お付き合いを頂きまして、誠にありがとうございました~!
丸山穂高議員への「譴責決議案」と「辞職勧告決議案」って、なんでしょう?
こんにちは、国分坂です。
今回は、日本維新の会の「丸山穂高議員」に関するお話です。
丸山穂高議員は、北方領土問題に関し不適切な発言をしたということで、現在、話題となっている人物ですね。
しかし、この記事では、丸山穂高議員の発言そのものについては触れません。
この記事では、丸山穂高議員に対する自民党・公明党の「譴責(けんせき)決議案」と、野党6党派による「辞職勧告決議案」に、焦点を当ててみたいと思います。
概要
丸山穂高議員が北方領土問題に関して不適切な発言をしたということで、丸山穂高議員が所属する「日本維新の会」は、2019年5月14日、同議員を除名処分としました。
更に同月17日、「日本維新の会」の協力要請のもと、野党6党派が衆議院において丸山穂高議員に関する「辞職勧告決議案」を提出しました。
これに対して、自民党・公明党は、同月21日、丸山穂高議員に関する「譴責(けんせき)決議案」を衆議院に提出しました。
「譴責決議案」と「辞職勧告決議案」
さて、野党は「辞職勧告決議案」を提出し、与党は「譴責(けんせき)決議案」を提出した、という格好ですが、それぞれの議案はどのようなもので、何が違うのでしょうか?
野党の出した「辞職勧告決議案」とは、文字通り「辞職」を「勧告」する決議です。
そう、「是非とも議員をやめなさい」という決議ですね。
議会の過半数の賛成で成立しますが、しかし、この議案が成立したとしても、法的拘束力はありません。
つまり、この「辞職勧告決議」が成立しても、議員を強制的に辞職させることは出来ないのです。
では、拘束力のないこの議案を提出する意味はなんなのでしょう?
それは、この議案が成立した場合、丸山穂高議員に対し「議会の過半数以上の者が、あなたは議員を辞めるべきだと考えているよ!」と知らしめることができ、更には国民に対し「我々を含めた議会の過半数以上の者が、丸山穂高議員は辞職すべきだと考えています」とアピールできる、ということなのでしょう。
これに対し、与党の出した「譴責(けんせき)決議案」は、「悪い行いや失敗を責め、反省を促す」ための決議です。
つまり、この議案が成立した場合、丸山穂高議員に対し「議会の過半数以上の者が、あなたの行いは正しくないと考えており、しっかりと反省すべきだと考えているよ!」と知らしめ、また国民に対して「我々を含めた議会の過半数以上の者が、丸山穂高議員の行いは正しくないと考えており、丸山穂高議員は反省すべきだと考えています」とアピールできる、ということなのでしょう。
相違点
・・結局のところ、何が違うの?という声が聞こえてきそうですね。
そうですね、「譴責(けんせき)決議案」は反省を促すだけの決議だし、「辞職勧告決議案」も法的拘束力のない決議です。
たいして変わらないんじゃないの?と思われるかもしれませんが、ポイントは、「議員を辞めろ」というのか、「辞めるかどうかは自分で考えろ」というのか、の違いなのだと思います。
「辞職勧告決議案」は、「議員をやめろ」という議案(ただし、法的拘束力はなし)。
「譴責(けんせき)決議案」は、「(反省しろ。そして)議員を辞めるかどうかは自分で考えろ」という議案。
与党は、野党6党派が「辞職勧告決議案」を出してきたことに対して、これに同調せず、「譴責決議案」を出しました。
この与党の行動は、「丸山穂高議員に対しての行動」というより、「国民に対しての行動」である、と私は考えました。
与党の「譴責決議案」は「対丸山議員用」ではなく「対国民用」
つまり、「たしかに丸山穂高議員の発言は大問題だが、これに対して「議員をやめろ」というのは論理的に疑問点があり得る。そのことを我々がちゃんと理解していることを、国民にアピールできる絶好のチャンスなんじゃない?」と与党は捉えたのではないでしょうか?
もしもそうだとしたら、与党が「議員をやめろということに論理的疑問点があり得る」、と考えたのは何故か? ということになりますよね。
それは、2つの論点があるのだと思います。
選任・解任権限
ひとつは、選任・解任権限の問題です。
たとえば会社の取締役などもそうですが、「解任する権限は、選任する権限を有する者しか持たない」、というルールがあります。
取締役は株主総会決議で選任されますが、この取締役を解任するには、やはり株主総会決議が必要なのです。
社長や取締役会の決定で、取締役を解任することはできないのです。
取締役の選任権限を持つ株主総会だけが、取締役の解任権限を持つのです。
国会議員は、国民投票により選任されます。
国民により選出された国会議員を、国会が解任することはできないのです。
国民により選任された国会議員は、国民により続投を阻まれるのです(再選させないことで事実上の解任とするのですね)。
つまり、「丸山穂高議員が議員として今後も続投できるかどうかは、国民の判断に委ねられるべきだ」、というのが「選任・解任権限」のルールからすると正しい、ということになるのでしょう。
言論の自由
ふたつ目は、言論の自由についての問題です。
日本国民は、憲法において言論の自由が保障されています。
そして、国会議員は、国民の代弁者として国会で発言する者です。
よって、原則論として、国会議員には国民の代弁者として言論の自由が保障されるべきだ、という考え方が成り立つわけです。
国会といえども、国民の代弁者たる国会議員の言論の自由を、簡単には奪ってはならない、ということになるのです。
やはり「巧みな」与党
与党は、この二つの問題に着眼したのだと思います。
そこで「与党は(野党6党派とは異なり)、〈議員が国民により選任されていること〉、〈議員には国民の代弁者としての言論の自由があること〉を、しっかりと理解していますよ。だから我々は、軽々に辞職勧告などしませんよ」ということを、国民にアピールしたかったのではないでしょうか?
丸山穂高議員を国会議員として続投させるかどうかは、確かに国民の判断になります。
そして与党としては、丸山穂高議員のことはすでに眼中になく、対野党戦略を考えていた、ということなのかもしれません。
だとすると、与党にも「辞職勧告決議案」への協力を呼び掛けてしまった日本維新の会は、政治的手腕において、まだまだ与党には及ばない、ということになってしまうのかもしれません。
いや、更に深読みすると、もしかしたらこの「場外戦」は先に日本維新の会が与党に仕掛けたものなのかもしれません。丸山穂高議員の失言に対し、与党の協力も得て「議員辞職勧告決議案」が成立すれば、今後、「議員の失言」=「議員辞職勧告決議案」という流れをつくることができるかもしれません。
常々発言が注目されるのは、野党よりも圧倒的に与党です。注目される発言が多い分だけ、その失言が取り沙汰される可能性も割合的に与党の方が高くなるでしょう。
つまり、今回の事案で与党賛成の上「議員辞職勧告決議案」が成立すれば、今後、与党議員に失言があった際、「この前の丸山穂高議員の際もあなた達は議員辞職勧告決議案に賛成したのだから、今回の身内与党議員の失言に対しても、当然議員辞職勧告決議案を通すべきだろう!」と詰め寄ることができるわけです。
日本維新の会は、これを狙ったのではないでしょうか?
しかし、与党はこの策を見破り、「譴責決議案」で野党を返り討ちにした、というわけです。
まあどちらにせよ、その是非はともかくとして、今回の「譴責(けんせき)決議案」で、「野党は与党にしてやられてしまった」、ということになりそうです。
・・もしもこの深読みが正しければ、政治的駆け引きって、なかなか泥臭くて、こわいものですねえ・・
そんなことを、私は思った次第です。
皆さんは、如何お考えになりますでしょうか?
というわけで、以上、丸山穂高議員への「譴責決議案」と「辞職勧告決議案」って、なんでしょう? でした!
ここまでお付き合いを頂きまして、誠にありがとうございました!!
「人類を亡ぼすかもしれない・・」それでも彼女は決断した。生きるために。人類のために。
こんにちは。国分坂です。
「迷い」と「決断」。
最初にある女性の「迷い」と「決断」につき、触れてみたいと思います。
彼女は、大いに「迷い」ました。なぜなら、自分の行動が、人類を亡ぼすことになるかもしれないからです。
しかし、彼女は「決断」し、行動します。人類が緩慢に亡びていくことを防ぐために。
いったいなんの話かといいますと、すみません、現実の話ではなく、『風の谷のナウシカ』という物語のなかのお話です。
映画『風の谷のナウシカ』の原作『風の谷のナウシカ』(宮崎駿著)のお話なんです。
先日、この『風の谷のナウシカ』に関する考察を書いてみたのですが、今回のお題「迷いと決断」をみて、ちょっとだけ述べてみたくなり、参加させて頂いた次第です。
『風の谷のナウシカ』という物語において、主人公のナウシカという女性が、本当に苦しみ「迷い」、悩み模索しながら、大きな「決断」をすることになります。
この『風の谷のナウシカ』は、1995年1月に最終巻が発刊されましたので、四半世紀近く前の物語といえます。
しかし、内容が色褪せないように思われるのは、「生命についての深い考察」が、物語のあちらこちらに垣間見えるからでしょう。
そしてまた、人間の苦悩や生き方といった、哲学的な課題も盛り込まれています。
なかなか深くて難解な部分もあるのですが、さすがは宮崎駿氏の作品、面白くてぐいぐいと引き込まれてしまうのですね。
様々な論点を深く深く考察している物語なので、もうそれはそれは読みごたえがあるのですが、「迷い」と「決断」も、この物語における非常に大きな論点です。
それもそのはず。
『風の谷のナウシカ』は「生きること」を論じた物語であり、「生きること」は「迷い」と「決断」のなかにある、ともいえるのですから。
「迷い」とは、自らの境遇を知ること、といえます。
自分がこの世界にあって、この世界にどのような立ち位置で存在するのか、を知ることです。
「世界には無限の可能性があり、自分の進む道はどれなのか、その先はどうなっているのか、それらはまるでわからない」、ということを知ることです。
つまり、生きている自分に真摯に向き合うことが、「迷い」なのです。
そんな五里霧中といった状態で、それでも積極的に「生きよう」という態度が「決断」です。
世界がどうなっているのかわからない。
自分がどこにいるのかわからない。
自分の進むべき道がわからない。
選んだ先がどうなっているのかわからない。
そんな、わからないだらけのなかで、それでも「生きよう」と覚悟を持つのが「決断」なのでしょう。
つまり、「生きること」は「迷い」と「決断」の連続であり、「迷い」と「決断」こそが「生きること」ともいえるのです。
では、迷わず決断せずに生きることはできないのか?
いや、できるかもしれません。
世界をあるがままに受け入れて、なされるがままに存在する。
悟りの境地、といえる状態かもしれませんね。
しかし、残念ながら、我々がその境地に達するためには、「悩み」と「決断」を乗り越えなければならないでしょう。
我々人間は、「ただあるがまま」に生きるという能力よりも、「悩み」苦しんで、「決断」しながら世界を変容させていく能力に長けた生き物なのです。
「悩み」と「決断」は、我々人間の性(さが)ともいえそうですね。
だから、その「悩み」と「決断」という性を捨て去り、悟りの境地に達するのもひとつの道であるし、「悩み」と「決断」という性とともに、迷い苦しみながら生き抜くのも、我々の道なのです。
どちらを選ぶかは、自分次第。どちらも優劣、正誤はないのでしょう。
私は、「世界をあるがままに受け入れる」という境地に憧れます。
そこは、おそらく静寂な世界なのでしょう。
しかし、おそらく私は、「迷い」と「決断」のなかで生きていくでしょう。
深く「迷い」、果敢に「決断」していくことで、私の人生は谷あり山あり、忙しく騒がしい世界になるはずです。
でも、それもまた良し。
日々繰り返される「迷い」と「決断」が、私に「生きている」ことを実感させてくれるでしょう。
そしてまた、喧騒の中に訪れる僅かな静けさを、私は愛でることができるでしょう。
私は、そのように生きていくでしょう。
『風の谷のナウシカ』におけるナウシカのように、「人類を亡ぼすかもしれない」などという「迷い」や「決断」は、おそらく私には訪れないでしょう。
でも、私は私なりに、私の人生の中で、大きな「迷い」を抱え、果敢な「決断」をして、人生を大いに生きていくのだと思います。
大きな「迷い」と果敢な「決断」は、人生という物語における「見せ場」です。
我々は、「人生という物語」において、「自分という主人公」とともに、それらの「見せ場」をたのしみ乗り越えていくのではないでしょうか?
そう思うと、人生たのしそうですよ?
「迷い」と「決断」。
皆さまは、如何お考えでしょうか?
以上、『風の谷のナウシカ』を題材に、「迷い」と「決断」を考えてみました!
お付き合いを頂きまして、誠にありがとうございました!
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「生命の本来」は増殖のみ。なのに、世界はこんなに美しい。【ナウシカ学②-3】
みなさん、こんにちは!国分坂です!
前回および前々回、【ナウシカ学②】と【ナウシカ学②-2】を発表させて頂きました。今回はこれらの続きとしての【ナウシカ学②-3】です。
ワケノワカラナイ私の考察というのか、混迷というべきかの文章に、お付き合いを頂いております皆様、本当に感謝感謝です!
なお、前回及び前々回の【ナウシカ学②】【ナウシカ学②ー2】はこちらです~!
↓
【ナウシカ学②】
【ナウシカ学②-2】
さて今回は、前回の【ナウシカ学②-2】で頂きました「ご意見」を基に、考察を進めていきたいと考えております!
お約束
【ナウシカ学】を進めていく上での、私なりのルール(お約束)は下記3点です。
宜しくお願い致します!
1.テキストは徳間書店『風の谷のナウシカ』(全7巻)を使用する。
2.先行研究文献は、基本的には目を通さない。上記1のみを使用し、独自の考え方を、まずは展開する。
3.皆様のご意見・ご感想を頂きながら、学問体系まで昇華させることを目指す。
お寄せ頂きましたご意見!
「お約束」のなかでも述べさせて頂いておりますが、私のつたない考察を、なんとかして練り上げ「学問」まで昇華さたい!と願ってまして、そのために大変不躾ながら、「是非是非、皆様にご意見等々を頂戴したく!」とお願いしている次第です。
そしてなんと!!ご意見頂戴いたしました!!!
「苔とメダカ」様!!
もう重ね重ね、本当にありがとうございます!!
(苔とメダカ様のブログ、私は勝手に「ナウシカの秘密の地下室」みたい!などと称しておりますが、もう本当に美しくて神秘的なんですよね。おかげでもう、私は完全に「苔」に嵌ってしまいましたよ~)
苔とメダカ様、勝手にすみません!でも、万が一ご存知ない方がいらっしゃったら、是非訪れて頂きたい、と思いまして。
この記事では「生命」を考察しますが、是非、苔とメダカ様のブログで、「生命の美しさ」を今一度、ご確認して頂きたいのです。
ではでは! 今回は「苔とメダカ」様より頂きましたご意見から、考察を進めていきたいと思います!
(苔とメダカ様、もしも私の考察が頓珍漢な方向に飛んでいっておりましたら、是非、ご指摘を頂ければと存じます!「知らぬ間にダメな生徒をなぜだか抱えてしまった・・」とおっしゃって頂けたなら、存外の喜びデス!)
【ご意見】
善と悪、利己的と利他的、本来存在しない概念ではないだろうか。「私達は血を吐きつつ、くり返し、くり返し、その朝をこえて飛ぶ鳥だ!」というナウシカも、同じだけ業が深いと感じる。
「利己的と利他的、本来存在しない概念」。
そうなんですか・・・そうなんですね!!!
そうか!そうなんだ!
善悪はもちろん、利己的というのも利他的というのも、生命の起こす現象を人間が「評価」しているに過ぎないことなのですね!
「生命の本来」には、利己的も利他的もないのだ!
ぱーっと目の前が開けた感じですよ!!
生命の本来
改めて「生命の本来」を考えてみたいと思います。
これについては、生物学をしっかりと学んだうえで取り組むべきなのですが、まずは直感的に述べていきたいと思います。
「生命の本来」は、「増殖と存続」ではないでしょうか?
(そして、増殖と存続のために代謝をしているのではないでしょうか?)
生物学を学んだうえで、改めてこれらをしっかりと見直したいと思いますが、ここでは一応、「生命の本来」は「増殖と存続」であるという仮説を立ててみたいと思います。
(生物学にお詳しい方、この仮説はダメですか?ダメであれば是非ご指導下さい!)
「生命の本来」が「増殖と存続」であるとすると、「生命」とは、「増殖と存続」を行う特性を持つ物質、と定義することができそうです。
「液体」が低温では凝固し、高温では気体化するという特性を有するように、「生命」は増殖し存続する。
「液体」が凝固し気体化することに「意味」や「価値」がないように、「生命」が増殖し存続することに「意味」や「価値」はない。
これが、「本来」なのではないでしょうか?
生命は、その特性として「増殖し存続」しているだけで、死滅することを否定しているわけではないし、拒絶しているわけでもありません。
ただ生命として存在した以上、「増殖し存続」するのみ。何らかの要因で死滅することもありますが、残っていれば、残った生命が「増殖し存続」するのみ。
これが、「生命の本来」なのかもしれません。
そして個々の生命体は、「増殖と存続」のために、様々な「機能」を手に入れました(例えば、「アポトーシス」という機能など)。
その「機能」を人間が「評価」したとき、「利己的」や「利他的」といった定義がなされるに過ぎない、ということなのですね。
「生命の本来」からすると、「増殖と存続」があるのみですから、自己が増殖しようが、他者が増殖しようが、同じことなのです。
たとえば自己(及び自己の子孫)の増殖のための行動を利己的、他者の増殖のための行動を利他的と定義してみても、「生命の本来」からしたら、自己も他者もどうでも良いことです。そこに「意味」も「価値」もありません。ただ存在する生命が、「増殖と存続」をするだけなのですから。
「生命の本来」からすると、利己的も利他的も、存在しない概念なのですね。
ナウシカの宿業
「生命の本来」からすると、善悪はおろか、利己的も利他的もない、というところを出発点にして、今一度『風の谷のナウシカ』を見直してみましょう。
【ナウシカ学②】で、私は「世界には清浄と汚濁があり、生命は神聖さと暗愚さを兼ね備えるもの」と書きましたが、ここは見直しが必要ですね。
「生命の本来」には善悪、利己利他はないのですから、「世界には清浄も汚濁もなく、生命には神聖も暗愚もない」というべきですね。
清浄や汚濁、神聖や暗愚は、人の「評価」なのです。
ナウシカは「墓所」の主の考えを否定しますが、「生命の本来」からすれば、「墓所」の主の考えも、ナウシカの考えも、どちらも同じであり、どちらでもいいのです。「生命の本来」からすれば、正しいも誤りもないのです。
生命という物質の特性上、増殖と存続をしているだけであり、そうすることに意味も価値もないのです。
個々の生命体が「機能」として獲得した増殖方法、存続方法は、「生命の本来」からすれば、どうでもよいことなのでしょう。
しかし、個々の生命体のひとつである「墓所」の主(人工知能)は、自ら考案した増殖方法、存続方法に固執します。
そして同様にナウシカも、自ら考案した増殖方法、存続方法に固執しているのです。
そして両者の固執する方法が両立しえないためか、ナウシカは「墓所」を破壊してしまうのです。
くり返しになりますが、ナウシカのこの行動は、正しくもないし、間違っているわけでもありません。「墓所」の主が企画し実行してきた行動が、正しくもなく、間違ってもいなかったのと同様です。
ナウシカは、「生命の本来」である「増殖・存続」に従い、数ある方法のうちの一つを、選択したに過ぎないのです。
なぜ、ナウシカは「墓所」を破壊したのか?
ここで、ちょっと疑問が浮かびました。
ナウシカは、「墓所」の主と共存することはできなかったのでしょうか?
第7巻200頁で、ナウシカは「墓所」の主に対し、「絶望の時代に、理想と使命感からお前がつくられたことは疑わない」と述べています。
つまり、人間が滅亡しないよう努力した結果「墓所」がつくられた、ということをナウシカは認めているのです。しかし、ナウシカは「墓所」が行うその「方法」を、受け入れることが出来なかったのです。
「墓所」の主は、世界を浄化し、人類を穏やかな種族にかえることで、人類の存続を図ろうとしています。
しかしナウシカは、「生きることは変わることだ。王蟲も粘菌も、草木も人間も、変わっていくだろう。腐海も共に生きるだろう」と述べます。
「墓所」の主は、「娘よ、お前は再生への努力を放棄して、人類を亡びるにまかせるというのか?」と問います。
これに対しナウシカは、「その問いはこっけいだ。私達は腐海と共に生きて来たのだ。亡びは、私達のくらしのすでに一部になっている」と応えます。
「墓所」の主が「種としての人間についていっているのだ」「人類は、わたしなしには亡びる」「お前達は、その朝をこえることはできない」というと、ナウシカは、「それは星がきめること」と応えるのです。
この「問答」はなにをいっているのかといえば、「墓所」の主があくまでも「人類」の存続を図るための方法を実行しているのに対し、ナウシカは「人類にこだわらない」生命の存続方法を実行しようとしている、ということなのではないでしょうか?
「鳥」は恐竜の進化した姿である、という説があります。
もしもこの説が正しいのだとすれば、恐竜は絶滅したが、その一部が「鳥」に変わり、新たな種として存続した、ということになります。
もしかしたらナウシカは、このようなことを考え、実行しようと考えたのではないでしょうか?
つまり、草木も人間も「新たな種」に変わる可能性がある、我々はその可能性に賭けて生きよう、とナウシカは考えたのではないでしょうか?
だからこそ、ナウシカは「墓所」を破壊したのだと、私は考えました。
もしもナウシカが、「人類」の存続を考えたのであれば、仮に方法論が異なったとしても、「墓所」を破壊する必要はなかったと思うのです。
「墓所」には「王蟲を培養し、ヒドラを飼い、巨神を育てた技」がありますが(第7巻173頁)、「清浄な世界が回復した時、汚染に適応した人間を元にもどす技術もここに記されている」のです(第7巻199頁)。「人類」の存続を考えるのであれば、「墓所」の叡智はとっておいても損はない、と思うんですね。
しかし、ナウシカは躊躇いなくこれを破壊してしまいます。つまり、ナウシカが採ろうとしている行動は、「墓所」の主の行動とは相いれない、とみるべきなのです。
「墓所」の主が採る戦略、それは「人類が考えた人類のための理想世界の再生」です。
しかし、ナウシカは、その理想はすでにところどころ綻びが生じており、その方法は成功しないどころか、人類や他の生命も滅ぼしかねない、と考えているのでしょう。
腐海の誕生により、地球の環境は「墓所」の主の想定を超え、今後大きく変化していく可能性があり、それに適応するには、もう「人類」のままではいられない、草木や王蟲や腐海たちと共に、全くあらたな生命へと変革しなくてはならない、とナウシカは考えたのではないでしょうか?
恐竜が「鳥」へと進化したように、ナウシカは人間がたとえば「鳥人」や「樹人」のように、全く新たな生命体に進化すべきだと、考えたのかもしれません。
ナウシカは、第7巻141頁にあるように「人間を亡ぼしに行くのかもしれない・・」と考えています。ナウシカは「人間を亡ぼすかもしれないが、人間が新たな生命に飛躍できるよう、墓所を破壊する」という賭けに出たのではないでしょうか。
なお、「墓所」の主の「人類はわたしなしには亡びる」という言葉に、ナウシカは「それはこの星がきめること」と応じますが、これに「墓所」の主は「虚無だ!それは虚無だ!」と叫びます。
これについて、もしも「生命の本来」からニュートラルに分かりやすく返答するのであれば、「お前がそれを虚無と呼ぶなら虚無で構わない。我々は存続のために、ただ明日に向かって生きるだけだ。亡びは我々の思惑の外にあり、かつ、常に我々と共にある」となるのでしょう。
ところで私は【ナウシカ学②】において、「墓所はナウシカにより破壊されたことで、不死から解放され、ひとつの聖なる生命体に回帰できた、という見方もできるのでは?」といったことを書きましたが、これは明らかに誤りですね。
何故なら、そもそも「墓所」が「不死」であるといっても、それは「アポトーシス」(自死)機能を有しない生命体ということであり、「ネクローシス」(壊死)は有しているのです。
つまり「墓所」は「アポトーシス」機能を有していなかった太古の生命と同じなのであり、ナウシカにより破壊されようと破壊されまいと、「ひとつの聖なる生命体」の一部であることに変わりない、ということなんですね。
つまりナウシカの行動は、「墓所の解放」といった意味合いはなく、「墓所の否定」でしかありません。(私はナウシカの行動を好意的に捉えすぎました。)
ナウシカは、「墓所」の戦略を否定し、「墓所」の戦略が自分の戦略に有害であると判断したため、「墓所」を破壊したわけなんですね。
よって、この部分は修正させて下さい~!
なぜ人は「業」を背負うのか
さてさて、「墓所」の主は「人類」を救うため、ナウシカも「人類」を救うため、鋭く激しく対立します。
「墓所」の主は「改良型人類」と「改良型人類に適した改良型世界」を用意しようと頑張りますし、ナウシカは「人類らから進化した新生命」と「現世界から進化した新世界」により未来を描こうと頑張るのです。
ともに「生きること」と「存続すること」に固執するのです。
これが「業」です。
「業」とは「現在の行いは過去の行いの結果である」といった考え方であるようです。
つまり、「墓所」の主の行動も、ナウシカの行動も、共に、過去の生命が繰り返し繰り返し行ってきた行動に基づくものである、ということですね。
「墓所」の主の業が深いと思われるのと同様、ナウシカの業も深いのです。
共に、「生命の本来」たる「増殖と存続」から逃れることができないのです。
亡びへの憧れと生きることの意味
ナウシカのみならず、生命はみな深い業のなかにいるわけですね。それが「生命の本来」でありますから。全ての生命は「増殖と存続」から逃れることができません。
ところがです、他の生物は分かりませんが、少なくとも人間は、「死への逃避」「死への憧れ」という感覚を持ちました。
「生きることはあまりに過酷であり、死は恐怖でありながらも救いになる」という感覚ですね。
一見すると、「増殖と存続」という「生命の本来」に矛盾する感覚です。
どうして人間は、このような感覚を持ったのでしょう?
「死への逃避」「死への憧れ」という感覚は、あるいは宗教を生み、あるいは哲学を生んだのではないかと思います。
宗教は「救いを求める」ものであり、哲学は「思考して意味を見出す」ものです。
共に、過酷な生に対処するための「技術」、ということになるでしょう。
宗教や哲学は、「生きる意味」「生きる価値」を見出してくれるからです。
人間は、過酷な生に対処し、「死への逃避」や「死への憧れ」を払底しながら、「生きる意味」や「生きる価値」、「生命の尊さ」というものを見出してきたのです。
もちろん、「生命の本来」からすると、「生きる意味」や「生きる価値」などといったものは存在しません。
「生命」は、単に「増殖と存続」する特性をもつ物質にすぎません。
「液体」が凝固し気体化することに「意味」や「価値」がないように、「生命」が増殖し存続することに「意味」や「価値」はないはずです。
つまり、人間の死を憧れる感覚や、生きることの意味を考える行為は、生命の本質ではなく、人間が「増殖と存続」をするために獲得した「機能」から派生した「技術」なのです。
過去の生命が「増殖と存続」のための機能として脊髄を得たり手足を得たりして行動範囲を広げていったのと同様、人間が「増殖と存続」のために得た機能から、生を過酷と捉えたり、死を憧れたり、生きることの意味を考えるという行動をするようになったのです。
人間は、「業」としての「増殖と存続」と、派生的に得た「死への逃避や憧れという思考」の間で苦しみます。
宗教や哲学を駆使し、生きることの意味や価値を高らかに宣言し自らを鼓舞しますが、やはり生きることの過酷さに、常々打ちのめされ苦しみ続けます。
しかし、その苦しみが、人間の行動を加速度的に変化させました。人間は、生きることの過酷さを知り、ときに死を憧れ、それらを乗り越えるために宗教や哲学を生み、更にそこから科学が生まれ、それらの「技術」によって行動範囲を飛躍的に拡大し続けました。
「苦しみ」を感じることは、人間が獲得した「技術」のひとつなのです。
もちろん、人間の獲得した「技術」は、「苦しみ」を感じることだけではありません。
人間は、世界は「美しい」と感じることもできます。世界を「美しい」と感じることができるのは、人間の「技術」です。
そしてまた、木や苔たちも、自分たちの「技術」により「美しく」あろうとします。木や苔たちは、「美しく」あることで、「増殖と存続」を図ろうとしているのでしょう。
・・・不思議ですよね。そして、面白いです。
「生命の本来」は、かくもシンプルなのに、個々の生命は、こんなに不思議で面白い世界をつくりだしているのです。
「増殖し存続」せよ、ただそれだけのシンプルな命令なのに、木や苔は、様々な色素や香りを用いて虫や動物たちを魅了するのです。また人間は、苦悩しながら、世界の美しさに喜びを感じるのです。
人類は人類ではなくなる
さて、人間の技術、「苦しみを知ることで加速度的に変化していく技術」は、今後も、人間を「増殖と存続」へと導く「技術」となり続けるのでしょうか?それとも極限まで進化した種が抱える「弊害」として、人間を亡ぼすことになるのでしょうか?
それは、分かりません。
ただ、ナウシカの世界では、「世界の変化」に「人間の変化」はもはや追いつかず、このままでは人間は亡びるしかない、という状況にあるのでしょう。
だからナウシカは、「人間を超えた新生命」を目指すのだと思われます。
では、ナウシカが目指す「人間を超えた新生命」は、人間の「技術」を引き継いでいく者たちなのでしょうか?
「墓所」の主は、人間の思考を一部改良した「新型人間」を存続させようとします。これについて、ナウシカと共に居たヴ王は「そんなものは人間とはいえん」と切って捨てます(第7巻211頁)。おそらくナウシカも、ヴ王と同意見のように見受けられます。
しかし、ナウシカの目指す「人間を超えた新生命」も、人間の想定を超えた存在になるはずであり、「そんなものは人間とはいえん」のです。
ナウシカは、人類がどんな「新生命」に変わっていくかは分からないけれども、存続のためにはそれに賭けるしかない、と考えたのではないでしょうか。
つまり、「墓所」の主もナウシカも、人類を「人間とはいえない」ものにしようとしている点は同じなのです。
ただナウシカは、「墓所」の主以上に人類を変革しようとしているのであり、そうすることで「増殖と存続」を図ろうとしているのではないでしょうか。
内なる宇宙とはなにか?
最後に、【ナウシカ学②】で考察した「内なる宇宙」についても触れておきます。
「生命は、どんなに小さくとも、外なる宇宙を、内なる宇宙に持つのです」というナウシカのセリフについてです(第7巻133頁)。
【ナウシカ学②-2】ではトンデモ説を展開しましたが、あれはあれでちょっとオモシロイので、取り敢えずは取っておきたいと思います。
しかし、もう少し地に足着いた(真面目な)考察も必要であるとおもいますので、二つのアプローチから、ちょこっとだけ考えておきたいと思います。
心理学的な意味での「内なる宇宙」
ひとつは、心理学的アプローチから考えるものです。
「内なる宇宙」は「精神」「心」をいうのであり、「精神」「心」は外的世界を反映する、という意味になるのでしょうか。
「文学的な意味合い」としてはしっくりきますが、ただ、なんだか分かったような分からないような曖昧さが残りますね。
これを解明するには、「心とはなんぞや」という難題を越えなければなりません。
心理学を深く学ぶ必要があるでしょう。(もしかしたら心理学だけでは足りないのかもしれませんが。)
これはもう、今後の課題ですね。
生物学的な意味での「内なる宇宙」
もうひとつは、生物学的アプローチから考えるものです。
これは、「生命は、宇宙のような世界を体内に持っている」という意味ではないでしょうか。
人間の体は、およそ60兆個の細胞で構成されているそうです。そして、その一つ一つの細胞はもちろん生きていて、生活をしています。細胞たちの「生活空間」が、我々「人体」なのです。細胞たちからすれば、我々は「宇宙そのもの」なのです。
人間は、この世界で生きようと、あがき苦しみながら変化しながら、日々生きようと様々に試みております。
でも実は、人間のなかにある細胞たちも、人間同様、様々に変化し、増殖と存続のため日々活動しているのです。
人間の活動が世界に大きな影響を与えるよう、細胞たちの活動も、人間に大きな影響を与えます。
細胞たちは、人間という世界を変化させることで、自分たちの存続を図ろうとしているのです。
つまり人間は、細胞たちにより図らずとも変化させられている、というわけなのです。
「人間をはじめとする全ての生命は、自らを変えるなかで他の生命をも変えていき、また、自身を構成する細胞によっても変えられていく。それが生命の営みである」
そのようなことをいっていると捉えることもできそうです。
こう考えると「生命はひとつに連鎖している、繋がっている」、と考えることも出来ますね。
生物学をもう少し勉強して、この視点を更に掘り下げていきたいと思う次第です。
まとめ
苔とメダカ様のご指摘により、かなり深く考察を進めてくることができました!
改めて感謝申し上げます!
今回述べてきてた事柄を、以下、少しまとめておきたいと思います。
・「生命の本来」は、「増殖と存続」ではないか?(仮説)
・個々の生命は「増殖と存続」のために、様々な「機能」を獲得した。
・人間は「機能」により「生を苦しみ、死を憧れる」といった感覚を得た。その感覚により人間は、自らを加速度的に変化させるための「技術」を得た。
・生命が「増殖し存続」することに「意味」や「価値」はない。人間が「意味」や「価値」を求めるのは、人間が得た「技術」に基づく行為に過ぎない。
・全ての生命は、「増殖と存続」という業から逃れることはできない。「墓所」の主もナウシカも、深い業のなかで、「増殖と存続」のための行動を採ろうとする。
・「墓所」の主の行動も、ナウシカの行動も、「生命の本来」からすれば、どちらも「増殖と存続」のための行動であり、善悪も正誤もない。
・「墓所」はナウシカの企みにとって有害な存在であった為、ナウシカによって破壊された。
・「墓所」の主は「人類」の存続を図ろうとしたが、ナウシカは「人類らが変わること」に希望をかけた。
・「墓所」が存続させようとした「人類」は改造されたものであり、もはや「人類」とは呼べないものかもしれないが、ナウシカが存続させようとしたものも「人類から進化した新生命体」であり、もはや人類ではない存在である。
・ナウシカは、世界が「墓所」の主の予想を超えて変化すると考えており、それにあわせて人間も「墓所」の主が考える以上に変化する必要があると考えたものと思われる。
・「内なる宇宙」については、哲学的なアプローチと、生物学的なアプローチが考えられる。
・哲学的なアプローチから考えると、「心とはなにか」という問題を突き詰めていく必要があるように思われる。
・生物学的なアプローチから考えると、生命はより小さな生命により構成され、それらの生命が連鎖しながら「増殖と存続」のための活動を行っている、と考えることができる。
こんな感じでしょうか?
そして、今回感じた最も不思議で面白いことは、「生命の本来は実にシンプルなのに、個々の生命は複雑怪奇な行動を繰り返し、矛盾を抱えたり、美しい世界をつくりだしたりしている」という点です。
地球上の生命は38億年前に誕生したそうですが、長い長い年月をかけて、様々な個々の生命体による活動が、そのような世界をつくりだしてきたというのでしょうか?
凄いですね。
「生命の進化」は本当に凄い。
どうしてそこまで頑張るの?もういいよ、もうあきらめちゃってもいいよ、と思いたくなるくらいに、生命は果敢に生きて進化を求めるのです。
凄いですね。
この点をどのように考察したらよいのかが分からないため、ただ「凄い」としかいえないのですが・・
「海から離れるために背骨を得た」とか、もう信じられない。
だって、痛くなかったの?もう病気でしょう?苦しみもがきながら、何世代も何世代もかけて背骨ができていったの?
「宿業」という言葉の重みを、本当に感じます。
それが、生命なんですね。
我々は、そんな「宿業」を背負った多くの先輩生命たちの末に、いま、この世界に存在しているわけです。
そして我々も、「宿業」を背負って生きていく。
・・・生命って、凄いですね。
最後は「凄い」しかいえない国分坂ですが、まだまだ「生命とはなにか」に肉迫できた感がありません。
生物学や哲学などを学び、これからも考えていきたいと思います。
そして、また戻ってきます!捲土重来です!(ごめんなさい~まだまだ【ナウシカ学】は続くのです~!)
というわけで、今回はここまで。
「生命の本来」は増殖のみ、なのに世界はこんなに美しい! でした!
お付き合いを頂きまして、本当に、本当に、ありがとうございました!!
ナウシカさん曰く!「のたうちまわって生きろ!血を吐いてでも絶望を越えて飛べ!」【ナウシカ学②-2】
みなさん~ こんにちは~
国分坂です~
今回は、前回の【ナウシカ学②】の続きで~す。
前回「腐海」と「王蟲」を考察しましたが、いやはや難しい・・
難題が解けず、私の脳髄は、闇の中に瞬く豆電球のようにチカチカしてます・・
前回のはこれですね・・↓
難問にぶち当たり、脳髄が酸欠でぱくぱくしてます。
・・・で、こういうときは、あれですよ! 頭の気分転換にですね、もう、ぱーっと自由気ままにやりたいことをやりたいように、やっちゃうことです!
自由な着想で、自由な意見を、畏れず構わず述べちゃうわけです!
どうか、ご容赦ください!
誤りに気づいたら、その都度戻ってきて修正するということで!それが、私なりの「学問」というものだと思っております!
(誤りを「隠ぺい」するなどいうことは、学究の徒としてあり得ない行為ですが、でも、そうしたくなっちゃう雰囲気が学術界にあるのなら、その体質にこそ問題があるのだと思うんですね。どしどし珍説を出し、がしがし誤りを訂正して練り上げていった方が、学術界が活性化すると思うんですよねえ・・・いや、ごめんなさい。生意気いいました~)
というわけで、今回は、「題名」が暗示するとおり、ぶっ飛び企画ですよ~!
国分坂流の「トンデモ説」を展開しちゃいたいと思います!!
もしもお付き合いを頂けます際には、「眉に唾して」お読みください~!
お約束
まずは、毎度ながらの「お約束」です。【ナウシカ学】を進めていく上での、私なりのルール(お約束)は下記3点です。宜しくお願い致します。
1.テキストは徳間書店『風の谷のナウシカ』(全7巻)を使用する。
2.先行研究文献は、基本的には目を通さない。上記1のみを使用し、独自の考え方を、まずは展開する。
3.皆様のご意見・ご感想を頂きながら、学問体系まで昇華させることを目指す。
トンデモ説「危機に瀕した生命の体験が、内なる宇宙を通じ、生命の進化を促進する!」
さて、前回に引き続きよくわからない主要な論点が、次のものです。
・「内なる宇宙」とは、一体なんなのか?本当に、あるのか?
・生命は、本当に「ひとつ」に繋がっているのか?
これらの問題に関しては、やはり前回の【ナウシカ学②】でも取り上げたナウシカが森の人セルムに対して話す下記のセリフ(第7巻目133頁)が、とても重要だと思うのです。
「たとえ、どんなきっかけで生まれようと、生命(いのち)は同じです」
「精神の偉大さは、苦悩の深さによって決まるんです」
「生命は、どんなに小さくとも、外なる宇宙を内なる宇宙に持つのです」
私はこれらセリフに、つぎのような意味合いを汲み取りました。
①偉大な精神を持つ生命体は、より豊かな内なる宇宙を持つ。
②全ての生命は、内なる宇宙で繋がっている。
③偉大な精神を持つ生命体は、内なる宇宙を通じ、より大きな影響を他の生命に与える。
④個々の生命の体験は、内なる宇宙を通じ「びとつの聖なる生命体」に蓄えられ、生命の「進化」を促す原動力となる。
①から⑤まで、順にご説明しますね。
偉大な精神を持つ生命体は、豊かな内なる宇宙を持つ
まずは①です。
「偉大な精神を持つ生命体は、より豊かな内なる宇宙を持つ」ですが、これはナウシカのセリフ 「精神の偉大さは、苦悩の深さによって決まるんです」に、まず引っ掛かりを覚えたんです。
精神の偉大さ。そもそも「精神」って、なんでしょう?
ちょっと『大辞林』を引いてみましょうか。
精神:人間の心/心のはたらき/物事に対する心の持ち方/物事の最も根本的な意義/(物質・肉体に対する)心、意識、霊魂/心の本質。
うーん。わかったような、わからないような。
では次に、白川静の『字通』をみてみましょう。
精神:天地の精気。人の心神。
おお!相変わらず凄い!端的に本質を、ずばり衝いてきますね!
「天地の精気」。これってまさに「外的宇宙」を示しているように見えます。
つまり、「精神=心」は「心=天地の精気」であり、「心=外的宇宙」ということではないでしょうか!
この考えを基にして、ナウシカのセリフをいじってみましょう。
「精神の偉大さは、苦悩の深さによって決まるんです」
↓
「心(に宿る外的宇宙)の偉大さは、苦悩の深さによって決まるんです」
つまり、「深く苦悩した生命体は、偉大な精神(外的宇宙)を持つ」のであり、言い換えれば、「(深く苦悩したことで)偉大な精神を持つ生命体は、偉大な外的宇宙を心に宿す」というわけです。
「外宇宙を心に宿す」とは「内なる宇宙を持つ」と同じ意味ですね。
よって、「偉大な精神を持つ生命体は、より豊かな(偉大な)内なる宇宙を持つ」ということが出来ます。
このことは『風の谷のナウシカ』の作中からも読み取ることが出来ます。
「偉大な精神を持つ生命体」といえば、「王蟲」や主人公のナウシカが筆頭にあがると思いますが、そのナウシカの内なる宇宙(=心)が豊かで奥深いことが、第6巻84頁で示されます。
同じく第6巻74頁で森の人セルムがナウシカの前に現れ、目の前に広がる森が、ナウシカの心の中の森であると伝えます。セルムの案内で、美しい森を進むナウシカ。84頁で、セルムはナウシカに「あなたの森は奥深い。こんなに豊かな旅ははじめてです」と称賛するのです。
「偉大な精神を持つ生命体」(=ナウシカ)は、「より豊かな内なる宇宙」(心の中に広がる森)を持つ、ということが示されているのです。
全ての生命は、内なる宇宙で繋がっている
では次に、②「全ての生命は、内なる宇宙で繋がっている」についてです。
これは、先程みた第6巻74頁で、ナウシカの内なる宇宙において、ナウシカとセルムとが出会っていることがヒントになりそうです。
第6巻63頁、セルムは瞑想し、ナウシカに呼びかけます。これは、セルムが自身の内なる宇宙に降りていき、ナウシカの内なる宇宙を訪れようとしていることを示しているのではないでしょうか。
セルムも、ナウシカに勝るとも劣らぬ「偉大な精神を持つ生命体」でしょう。ふたりはともに「豊かな内なる宇宙を持つ存在」といえます。
彼らは、その内なる宇宙が豊かであるがゆえに、互いの内なる宇宙が繋がっていることを、明確に認識し得たのではないでしょうか。(豊かであるがゆえに、内なる宇宙が色濃く鮮明であり、認識しやすい状態になっていた、ということなのかもしれません。)その結果として、ふたりは内なる宇宙において、出会うことができたのではないでしょうか。
また、作中にたびたび現れる「念話」にも、ヒントがあるのでは?と考えました。
「念話」の存在は第4巻129頁で、チヤルカがチククに「わしは僧兵あがりで念話の技も才能もないんだぞ」と語る場面であらわれます。
チヤルカは「念話」を「技」であると言いますが、どうなのでしょうか。
すぐ次のページの130頁で、「念話」の技も才能もないはずのチヤルカに対し、ナウシカは「念話」で語りかけています。もしも「念話」が単なる技であれば、それを習得出来ていないチヤルカはナウシカと「念話」ができないはずです。つまり130頁の事象は、「念話」が単なる技でないことを示しているのではないでしょうか?
「念話」的なものが登場するのは、第1巻13頁、14頁、32頁、33頁、44頁の王蟲の心をナウシカが読み取るもの、第1巻106~107頁のナウシカの声と姿をアスベルが視るもの、第1巻127頁の王蟲の声をアスベルが聞くもの、第2巻15頁、27~29頁、33頁のマニ族の僧正とナウシカの対話、第2巻133頁、第4巻107~109頁の皇弟ミラルパとの対話、第4巻87~92頁のナウシカとオアシスの僧との対話、第6巻124~127頁のチククを通じてのチヤルカとナウシカのテレパシー的面会などがあります。
これらに共通するのは、当事者の一方もしくは双方が、偉大な精神を持つ者であるという点です。
王蟲、ナウシカ、(アスベルはどうでしょう?)、マニ族の僧正、オアシスの僧、チクク、それとミラルパです。ミラルパは第6巻153頁で皇兄ナムリスが言うよう、若い頃は本物の慈悲深い名君だったようです。
またチククは第7巻33頁で、ナウシカに巨神兵のように偉大な力がある(しかし暴走しかねない不安定さを兼ね備えた)存在と認められています。
ではなぜ、偉大な精神力を有する者は「念話」が可能なのか?
これは、第6巻63頁以降の、ナウシカの内なる宇宙で人々が出逢うことにヒントがあるように思います。ナウシカの内なる宇宙に出てくるのは、セルムに加え、ミラルパ、チクク、セルム、王蟲です。
彼らはみな偉大な精神を有し、念話が可能な者たちです。
つまり、彼らはセルム同様、豊かな内なる宇宙を持つ者です。豊かであるゆえにその内なる宇宙を自ら認識し得え、その内なる宇宙がナウシカの内なる宇宙とも繋がっていることを認識し得たため、彼らはナウシカと出会うことが出来たのではないでしょうか?
そして「念話」とは、内なる宇宙が接合していることを意識的に、もしくは無意識的に認識することで可能となるものなのではないでしょうか?
その認識が浅い状態では感情や声が聞こえる程度、深い認識に至ると対話、イメージ映像の交換、そして対面すら可能になる、というものなのかもしれません。
(ナウシカとセルムとは、もう「念話」というより「幽体離脱的対面」が常態化している感じですね。驚異的な精神力を持つ二人だと、こんな具合になるのでしょうか。)
では、「偉大な精神を有する者」同士だけが、「念話」を可能とするのでしょうか?
おそらく違います。
第5巻74頁、130頁、第6巻135~138頁などで、チククを通じてナウシカが民衆に対し、テレパシー的演説を行うシーンが出てきます。
平凡な精神で、さほど豊かともいえない内なる宇宙しか持たない人々は、自らの内なる宇宙を認識し得ず、内なる宇宙が他者と繋がっていることを認識しにくい状況にあるのだと思われます。
しかし、チククやナウシカのような偉大な精神を有する者が働きかけることで、平凡な内なる宇宙の保持者たちも、その繋がりが認識できたのでしょう。
「非常に性能の悪いトランシーバーを持つ者が、受信も発信もうまくできないトランシーバーであるためにやがてその存在を忘れてしまうが、ある日、非常に強い電波が飛んできたために受信に成功し、自らがトランシーバーを持っていたことに気づいた」、例えるならそんな感じでしょうか。
また、ナウシカの内なる宇宙に登場するのは、前述の「人間」たちだけではなく、テトとクイといった「動物」も登場します。
テトはナウシカと常に共にあり、もしかしたらナウシカ以上に、身体的過酷な状況に耐えて乗り越えてきた動物です。
またクイは、テト同様にナウシカと共にあったカイを伴侶に持ち、カイが死んだ際にそれを引き受けるように卵を産み、かつ、その後もミト達と共に、過酷な旅を続けてきた動物です。
つまり、テトとクイは動物とはいえ、幾多の困難を乗り越え、深い苦悩を味わってきた存在、といえるのではないでしょうか?
そう、テトとクイも、やはり偉大な精神を有し、豊かな内なる宇宙を持つ生命体なのではないでしょうか。
テトやクイがナウシカの内なる宇宙に登場することは、人間に限定されることなく、「全ての」生命が内なる宇宙で繋がっていること、を示唆しているように、私には思えたのです。
よって以上を綜合して、「全ての生命は、内なる宇宙で繋がっている」と読み解きました。如何でしょうか?
偉大な精神を持つ生命体は、内なる宇宙を通じ、大きな影響を与える
では、次に進みますね。
③「偉大な精神を持つ生命体は、内なる宇宙を通じ、より大きな影響を他の生命に与える」についてです。
これはですね、第7巻218~219頁、クシャナがナウシカの生存を直感的に知るシーンに象徴されているように思います。
「墓所」がドロドロと音を立てて崩れていく中、クシャナは「ナウシカだ 生きている!」と叫びます。隣にいるチヤルカは「な なぜ判るのだ?わしには見えぬぞ」といいますが、クシャナは「間違えない。感じるのだ」と言い切ります。
クシャナは本来、偉大な精神を有しながらも、憎しみにまみれ、修羅の道に堕ちてしまった人物です。そのことは7巻目84頁のチククがクシャナと語らうシーンに垣間見ることができます。
チククはクシャナに言います。
「クシャナのこともナウシカが教えてくれた。クシャナは深く傷ついた鳥だといった。本当は、心の広い大きな翼をもつ、やさしい鳥だって」
なお「鳥」は『風の谷のナウシカ』において、象徴的な存在として描かれます。
第6巻89頁、腐海の尽きる所、浄化された世界においてナウシカが見つけた旧世界の動物が「鳥」です。
また第7巻198頁で、ナウシカが「墓所」の主に言い放つ、非常に象徴的なセリフがあります。
「その朝が来るなら、私達はその朝にむかって生きよう。私達は、血を吐きつつ、くり返し、くり返し、その朝をこえてとぶ鳥だ!」
ナウシカがクシャナを「広い大きな翼をもつ、やさしい鳥」と称したのは、まさにクシャナが、深い苦悩を乗り越え生きていける「偉大な精神」を有する存在であることを言っているのでしょう。
また、ナウシカが「クシャナは深く傷ついた鳥だ」というのは、憎悪という傷で自らを見失い、豊かな内なる宇宙に気が付けない状態にあることを示唆しているのだと思います。
しかし、クシャナはナウシカに接していく中で、変わっていきます。
またユパという偉大な精神を有する者が、身を挺して人々の怒りを鎮める姿を目の当たりにしたことで、クシャナはその内面を大きく変容させます(第7巻79~84頁)。
ユパは自ら生贄となるべく身を捧げ、また同じく自ら身をささげたマニ族の僧正をも、人々の前に発現させました。マニ族の僧正は、ユパの内なる宇宙を通じて、人々の前に現れたのでしょうか。
そのユパとマニ族の僧侶の姿が、クシャナの心を大きく揺すぶるのです。
それにより、クシャナの心に渦巻いていた憎悪は悲しみに形を変え、恐怖は去り、彼女の心は、ありのままの世界を受容していけるようになったのでしょう。
そして、ナウシカの言動も、素直に受け入れることが可能になります。これを示すのが第7巻222頁の「私は王にはならぬ。すでに新しい王を持っている」というクシャナの言葉でしょう。「新しい王」とは、ナウシカのことを指すのだと思われます。
傷を癒したクシャナは、一気に偉大なる精神力を発揮し、内なる宇宙によるナウシカとの接合を認識するのです。
それが、前述の第7巻218~219頁、クシャナがナウシカの生存を直感的に知るシーンです。
つまり、偉大な精神を有するナウシカとユパ(及びマニ族の僧正?)は、内なる宇宙を通じてクシャナを覚醒させ、彼女の内なる宇宙を開花させた、ということなのではないでしょうか。
このことから、「偉大な精神を持つ生命体は、内なる宇宙を通じ、より大きな影響を他の生命に与える」という考えを私は得ました。
個々の生命の体験は、内なる宇宙を通じ、生命の進化を促進する
最後が④「個々の生命の体験は、内なる宇宙を通じ「びとつの聖なる生命体」に蓄えられ、生命の「進化」を促す原動力となる」です。
ここから私のトンデモ説は飛躍していきますよ!
前述の、クシャナがナウシカやユパの影響を受け、内なる宇宙を開花させた結果、ナウシカの生存を知覚できたという場面も、生命の「進化」を垣間見る一例なのかもしれません。これはクシャナに「念話」の力を芽生えさせた、ということを示し、人間の進化の方向を示す事象を表している、とみることもできるわけです。
ただ、「個々の生命の体験は、内なる宇宙を通じ「びとつの聖なる生命体」に蓄えられ、生命の「進化」を促す原動力となる」という仮説を説明するには、一旦この物語から離れて、他の事例から説明した方が分かりやすいかもしれません。
ここであげる他の事例とは、「生物の進化の場面」のことです。
生物は、様々な進化を遂げてきましたが、その進化の場面は、どれもが困難への挑戦、危機を脱するための果敢なチャレンジ、といえるようなものだったと思われます。
たとえば、古代の魚が「肺」を獲得し、やがて陸上動物の祖先となった事例などもそうでしょう。
海の捕食者から逃れるために、古代の魚は河に進出しました。(実は、河に進出するためにも、多くの進化を要したのですが、ここでは省略します。)
河は海と異なり、乾季になると水不足が原因で泥水化し、水中における鰓呼吸が困難になり得ます。この現象により、多くの魚が死滅したのですが、そのうち「肺」を獲得した魚が登場し始めたのです。いわゆる「肺魚」ですね。肺を持つ魚は肺呼吸により、直接空気中の酸素を取り入れることができるようになったのです。
さて、この「肺を獲得した魚が登場し始めた」ということを、よくよくじっくりと考えてみると、奇妙なことに気が付きました。
ちょっと、具体例を挙げて考えてみましょう。
河には岸に近い浅瀬の部分と、岸から遠く離れた水深のある部分とがあります。
浅瀬の部分をA地帯、水深のある部分をB地帯、としましょう。
A地帯に棲息する魚たちをA群と呼び、B地帯に棲息する魚たちをB群と呼びます。
乾季になり、全く雨が降らない異常気象が発生しました。A地帯は泥水となり、更には干上がっていきます。A群の魚たちは、鰓呼吸が出来ず、のたうちまわります。
一方、B地帯では、水位が下がったものの、特に影響はありません。
(なお、A地帯は干ばつの影響などでB地帯から隔離された状態にあります。A地帯からB地帯に避難できてしまうと、A地帯は事実上B地帯と同じ環境、ということになってしまいますから。)
さて、この際、「進化」はA群とB群、どちらで起こるのでしょうか?
B群では、特段「進化」の必要となる環境変化は起こっていませんよね。安泰なる状況です。「進化」が起こるきっかけがありません。(なお、A地帯からB地帯へと避難できる環境であれば、やはりほぼ安泰な状況といえ、「進化」が起こるきっかけがあるとはいえないでしょう。)
では、A群で「進化」が起こったのでしょうか?
A地帯は泥水化と干ばつで、鰓呼吸ができません。「みるみる間」に、魚たちは酸素不足で死んでいく状況です。
ところで鰓呼吸をする魚が「肺」を獲得するのに、どれだけの時間を要するのでしょうか?一代や二代の世代交代で、全く機構が違う「肺」を獲得できたとは思えませんよね。長い年月が必要になるはずです。
しかし、危機的状況にあるA群の魚には、そんな時間的猶予はないのです。死滅の瀬戸際にありながらも、もしかしたら卵を産み育てたものもあったでしょう。でも、よくて二代目?三代目?でも、そんな短期間では、とても「肺」を獲得する「進化」は望めません。
時間的余裕があるのは、B地点にいるB群の魚たちです。彼らであれば、何千年、何万年と時間をかけて、進化していけるかもしれません。しかし、B群の魚たちは、「進化」が起こるための切っ掛けとしての「危機的経験」をしえないのです。鰓呼吸でなんらの不自由もなく生きているのに、どうして「肺」を必要としますでしょうか?
つまり、A群には「進化」のための切っ掛けとしての「危機的経験」はあっても、「進化」に必要となる時間がありません。
一方、B群には「進化」に必要となる時間はあっても、「進化」のための切っ掛けとなる「危機的経験」がないのです。
このままでは、A群もB群も、「進化」できないではないですか。
そこで思いついたのが「内なる宇宙」なんです。これがあると助かるんですね。
A群の魚たちの「危機的経験」が彼らの内なる宇宙を通じて「ひとつの聖なる生命体」に蓄積され、それが内なる宇宙を通じてB群の魚たちに伝わり、B群の魚たちを「進化」させていった、という仮説です。
そう、「個々の生命の体験は、内なる宇宙を通じ「びとつの聖なる生命体」に蓄えられ、生命の「進化」を促す原動力となる」という仮説を用いてみると、具体的な進化の場面を無理なく説明できるのでは?と思い至ったのです。
ところで、生命の「大量絶滅」というものがありますね。地球上で、過去に5回、あったそうですよ。
「大量絶滅」のあと、生命は急激な進化をするんですね。これは、それまで支配的地位にいた生物が絶滅することで、他の生物がその地位を埋めるべく進化し多様化していく、という説明がなされるのですが・・いや、その説明はいいのですが、「大量絶滅」後の生命の爆発的な進化って、私、「もの凄いもの」を感じるんですよね。「席が空いたから埋まる」ということ以上に、「大量絶滅そのもの」が「進化のエネルギー」になっているような。
つまりですね、「大量絶滅」していった生命体の「死に瀕しての究極的な体験」が、「生命の進化を促す原動力となった」と考えると、「大量絶滅」後の爆発的な進化について、感覚的に納得できる、という気がしたんですね。
このような考え方を着想させたシーンが、『風の谷のナウシカ』第7巻171~173頁にあるのです。ナウシカが蟲使いたちに、腐海の役割を語るシーンです。
「世界はよみがえろうとしていました。たとえ、私達の肉体がその清浄さに耐えられなくても」
「次の瞬間に、肺から血を噴き出しても、鳥達が渡っていくように、私達はくり返し生きるのだと・・」
「腐海の胞子は、たったひとつの発芽のために、くり返し、くり返し降りつもり、無駄な死を重ねます」
「私の生は、10人の兄と姉の死によって、支えられました」
「先を急いで、沢山の死者を後に残して来た」
「どうかみんな・・死者へのいたわりをわすれないで・・」
危機に瀕した生命体が、その危機を乗り越えようとして死んでいく。その重ねられた死が、今の生命たちを支えている。我々はそのことを自覚し、過去の生命たちの死に感謝と労りの念を持つべきではないのか、といったことをいっていますね。
そして、第7巻目198頁の、ナウシカが「墓所」の主に語るシーンです。
「その朝が来るなら、私達はその朝にむかって生きよう」
「私達は、血を吐きつつ、くり返しくり返し、その朝をこえてとぶ鳥だ!」
「生きることは変わることだ。王蟲も粘菌も、草木も人間も変わっていくだろう。腐海も共に生きるだろう」
危機に瀕しながらも、その危機を乗り越えようともがくことで、生命は変化(進化)していくのだ、という語らいです。
そして同じく第7巻目198頁の「だがお前は変われない。組み込まれた予定があるだけだ。死を否定しているから」というナウシカのセリフは、「死」をむしろ肯定的に捉えているセリフだといえます。
死に至る危機的体験が、生命を変えていく、生命を進化させる、ということを述べているのだと思うわけです。
これらのシーンから、私は「個々の生命の体験は、内なる宇宙を通じ「ひとつの聖なる生命体」に蓄えられ、生命の「進化」を促す原動力となる」という仮説を得るに至ったのでした。
はい!トンデモ説はここまで!!
いやあ~、自由に発想し、妄想的思考をどこまでも飛翔させることの楽しさといったらありませんねえ。お陰で、疲弊しきっていた脳髄がよみがえりましたよ!
「危機に瀕した生命の体験が、内なる宇宙を通じ、生命の進化を促進する」という私のトンデモ説、ちゃんと「進化」というものを勉強してから、改めて考えてみたいと思います。
これに関しては、まだ読んでいないのですが、以下、気になる書物を発見しました。
『胎児期に刻まれた進化の痕跡』
ーあなたにも魚のような胎児期があったー
『クジラの鼻から進化を覗く』
ーわずか1000万年程度の短期間で、これほどまで劇的に姿を変えた生物はめったにいない―
これらの本を読み「進化」というものを学んでから、もう一度、我がトンデモ説「危機に瀕した生命の体験が、内なる宇宙を通じ、生命の進化を促進する」を、じっくりと料理してみたいと思います。いつになるか分かりませんが、乞うご期待!
というわけで、以上、ナウシカさん曰く!「のたうちまわって生きろ!血を吐いてでも絶望を越えて飛べ!」でした!
突拍子もない文章に最後までお付き合いを頂きまして、誠にありがとうございました!
新宿から80分?こんなに素敵な「里山」が広がっていましたよ!(横沢入里山保全地域)
こんにちは~!国分坂です~!
新緑が気持ちい季節ですねえ。
五月。一年で最も爽やかな季節です。
そんな爽やかな時期に如何でしょうか、「里山」を歩いてみませんか?
今回は、新宿から80分程度で訪れることができる「横沢入里山保全地域」をご紹介させて頂きます~!
最寄り駅「武蔵増戸駅」から徒歩20分弱
最寄り駅はJR五日市線「武蔵増戸駅」になります。
目的地の「横沢入」まで、駅から徒歩20分弱です。(東京都あきる野市)
JR中央線立川駅から拝島駅まで行き、そこからJR五日市線で「武蔵増戸駅」下車。
新宿からですと80分前後、立川からですと30~40分くらいでしょうか。
武蔵増戸駅の改札を出ますと五日市線の南側に出ます。
(トイレは駅の外にあります。)
駅を出て右側(西側)に進むと、コンビニ(ローソン)がみえてきます。
ここで飲み物やお弁当、おやつなどを購入しておくと良いでしょう。
(途中、自動販売機はありますが、里山付近には食事処がないかもしれません。)
ローソンの脇を北に進むと五日市線を跨ぐことができますので、線路を北側に渡ったらすぐに左(西)に曲がり、直進していきます。
五日市線の北側を西に進んでいきます。
まっすぐ進んでいくとお地蔵さんが見え(すみません!写真撮り忘れました!)、そこからわりとすぐに上の写真左側のような標識が出てきます。
この標識のあるところで右に曲がります。
右に曲がると、上の写真右側のような少し上り気味の道になります。
牧歌的な景色の中、進んでいきましょう。
進んでいくと、上の写真のような看板が出てきます。
この看板が示すのは「大悲願寺」。左に進んでいけば「大悲願寺」に至りますが、まずは里山へ行きましょう。
このまま直進します。
進むと上のような風景と看板がみえます。
もう里山はすぐそこです。
横沢入里山保全地域
建物が見えてきました。
管理棟です。ここにトイレがありますよ。
中にはベンチがあり、なんと更衣室も用意されています。
日陰で休憩したいときはこちらで。
お子さんを連れてきて着替えさせたいときには、こちらの更衣室が使えますね。
(お子さんがどろんこになっても大丈夫です!)
里山の入り口です。
里山とは
里山とは、人の手が入った森や林のことをいいます。人間が生産・経済活動に利用する森や林のことであり、自然界と人間界との緩衝地帯、といった場所ともいえます。
民俗学的にも異界(山)と人間界(まち)との「境」としての役割を持ち、野生動物と人間との「境界」としての役割も有していたそうです。
日本の原風景のイメージは、この里山の風景なのかもしれません。人間と野生動物との共生関係の象徴的な存在として、近年、里山の保全が進められているようです。
では、早速「横沢入」に入っていきましょう!
田んぼがあって、水路があって、池があって。
奥には森や林が広がっていて。
ああ、里山です!タンポポ!
(夏になると、オタマジャクシも見られるかも?)
地図がありますよ。なんとも愛嬌のある地図ですこと。
なかなか広いですね。
ちょっと、奥の方まで行ってみましょうか。
いい景色です。
そこらへんでお弁当を広げたくなりますねえ。
(私は午前中からお昼過ぎまで滞在しましたが、夕暮れ時の姿も美しいかもしれませんね。)
進んでいくと、細い道が続いていました。
途中まで、行ってみましょう。
進むと森のなか特有の、ひんやりとした空気になっていきます。
更に進んでいくと、右側に、洞穴がありましたよ。
ちょっと覗きましたが、真っ暗。かなり深そうです。
もちろん入ったりはせず、引き返しましたよ。
近くに説明書きなどはありませんでした。
(貯蔵庫などに使っていたのでしょうかね?)
この洞窟のあたりで、来た道を戻り、再度「里山」の景色を堪能。
なんででしょうね。私、生まれたときから「都会っ子」ですから、「里山」は身近になかったはずなのですが、どうしてか「懐かしい」という気持ちが、ふつふつと湧き上がってくるんですよね。
どうしてでしょう?
でも、やっぱり「懐かしい」景色です。
水がきれい。
別段、なにか特別なものがあるわけではありません。
でも、ゆったりとした景色があり、適度に人の手が入った自然があり、なんだか安心感に包まれた感じがします。
ぼうっと、一時間でも二時間でも、寝っ転がっていたくなる場所ですね。
お子さん連れなら、靴と靴下をぬいでじゃぶじゃぶ水辺で遊んだり、虫を探してみたり、追いかけっこしたりと、時間を忘れて遊べるのではないでしょうか?
(お着替えをお忘れなく。管理棟に更衣室もありましたしね。)
あと、日陰はあまりないので、帽子をかぶることをお薦めします。
里山には「おにぎり」が似合いますよねえ。
ところどころにベンチも用意してくれていますので、そこでお弁当を食べては如何でしょうか。
日陰で休みたいときには、管理棟にもベンチがありますので、そちらでどうぞ。
さて、里山を楽しんだら、先程スルーした「大悲願寺」へ行ってみましょう。
大悲願寺
先ほどの看板のところまで戻り、西へ進みます。
素敵な道が続いてます。
歩いていくと、本堂の裏側にでました。裏庭でしょうか、美しいですね。
進んでいくと、観音堂の横に出ましたよ。
なんとも美しい色合いの観音堂です。
彫刻が見事。
じっくりと眺めると、時が過ぎるのを忘れてしまいます。
なお、この観音堂の右手に、先程見えた本堂があるのですが、その本堂付近に白萩が植えられています。(白萩が咲くのは9月中旬から10月上旬くらいですね。今は残念ながらシーズンではありません。)
大悲願寺の歴史ミステリー
この白萩、かの有名な「伊達政宗」ゆかりの白萩なんだそうですよ。
伊達政宗の弟、伊達秀雄がこの大悲願寺の住職を務めたそうで、その縁で伊達政宗が大悲願寺を訪れたことがあるそうです。
そのとき、庭に咲く白萩を大層気に入り、後日、白萩を分けてもらったのだとか。
その際の手紙が現存しているそうですよ(但し非公開)。
ところで、ご存知の方も多いかと思いますが、この「伊達政宗と大悲願寺」には、「歴史ミステリー」が秘められているのですね。
伊達政宗の弟といえば、そう、次男の小次郎です。小次郎は母に溺愛されたため、伊達家では政宗と小次郎とのお家騒動が勃発した、という説があります。
そして小次郎は天正18年(1590年)22歳で急死。兄弟対立のすえ、政宗に殺されたのでは、といわれたりしています。
・・ところがですね、この大悲願寺の住職「秀雄」こそが小次郎であった、という説が伝わっているのだそうですよ。
小次郎が殺害されたという天正18年は、政宗が豊臣秀吉から小田原征伐への参陣を要求され、事実上、政宗が秀吉に屈服した年です。
一説に、秀吉の怒りを受け殺害される恐れがあった政宗が、伊達家滅亡を回避するために一計を案じ、小次郎を死んだものとしたうえで「秀雄」という別人に仕立て、大悲願寺の住職という安全地帯に送り込んだ、といわれています。大悲願寺は徳川家康の庇護下にあったため、秀吉の追及を避けることができた、というわけですね。
それだけではありません。
政宗の長女いろは姫は、徳川家康の六男松平忠輝に嫁ぎますが、その後、忠輝は改易されてしまい、いろは姫は伊達家に戻されます。江戸の伊達藩邸に戻されたいろは姫は懐胎しており、ひそかに男子を出産します。その子は大悲願寺に預けられ、住職の秀雄の元で、ひそかに育てられたのだそうです。
そしてですね、政宗が大悲願寺を訪れた後に「白萩を仙台に送って欲しい」と手紙を書いたのは、実は、その隠し子を仙台に送れ、という意味であった、というのです。
・・・たしかに、仙台はもともと萩の名産地ですからねえ。わざわざ武蔵野の白萩を送るというのも、ちょっと解せないなあ、という感じはありますよね。
こんな歴史ミステリーが、「大悲願寺」には残されているんですよ!
大悲願寺
建久2年(1191年)創建。
平山季重(源平合戦で活躍した猛将)が醍醐寺三宝院の僧を招いて開山。
真言宗豊山派の寺院。
住所:あきる野市横沢134
アクセス:JR五日市線武蔵増戸駅下車徒歩15分。
山門が立派です。
横沢入の里山を訪れる際には、是非、こちらの「大悲願寺」も訪れてみて下さい。
運がよければご住職から「歴史ミステリー」を聴かせてもらえるかも?
(なお、白萩が目当てであれば9月から10月がシーズンのようです!)
というわけで、今回は里山と大悲願寺のご紹介でした。
以上、新宿から80分?こんなに素敵な「里山」が広がっていました!でした!
お付き合いを頂きまして、誠にありがとうございました!
「腐海」と「王蟲」を考えます。生命とは、一体なんなのでしょうか?【ナウシカ学②】
みなさん、こんにちは。国分坂です。
さて、今回は【ナウシカ学②】として、「腐海」と「王蟲」を考えたいと思います。
「腐海」と「王蟲」、『風の谷のナウシカ』における最も重要な存在といえる両者ですよね。
この最重要テーマに、正面から切り込んでみよう、というわけなのです。
お付き合い頂ければ幸いです!
お約束
まずは、毎度ながらの「お約束」です。【ナウシカ学】を進めていく上での、私なりのルール(お約束)は下記3点です。宜しくお願い致します。
1.テキストは徳間書店『風の谷のナウシカ』(全7巻)を使用する。
2.先行研究文献は、基本的には目を通さない。上記1のみを使用し、独自の考え方を、まずは展開する。
3.皆様のご意見・ご感想を頂きながら、学問体系まで昇華させることを目指す。
腐海とは
最初に「腐海」について、考えていきたいと思います。
『風の谷のナウシカ』の主要な舞台にして、最大のテーマを内包する「腐海」。第1巻26頁には、次のような説明があります。
「腐海とは・・ 滅亡した過去の文明に汚染され不毛と化した大地に生まれた新しい生態系の世界をいう。 蟲たちのみが生きる有毒の瘴気を発する巨大な菌類の森に、いま地表は静かに覆われようとしていた。」
・新しい生態系の世界
・蟲たちのみが生き、有毒の瘴気を発する、巨大な菌類の森
端的に「腐海」を説明すると、このようになりますね。
さて、古い生物群が新しい生物群にとって代わられた例は、この星の歴史に幾度となくあったことです。しかし、その場合、新旧の生態系の交替は、ゆるやかな変化として行われたきました。
ところが「腐海」は違う、とユパはいいます。
腐海一の剣士といわれるユパは、半生をかけて、「腐海」の謎を探し求めてきました。
ユパは、「腐海」の植物と蟲たちで構成される「新しい生態系」が古い生物群にとって代わろうとする姿は、過去に行われてきた生態系の交替とは全く異なる、といいます。
「腐海」を旅したユパは、王蟲の群れが胞子をまき散らしつつ人間の村を襲うのを何度となく目撃してきました。その襲撃を見たユパは、「腐海の生物は、旧世界のすべての動植物を滅ぼそうとしているかのようだ」といいます。
つまり、新しい生態系である「腐海」の生物たちは、意図的に、旧世界の動植物を滅ぼそうと行動しているようにみえる、というのです。
結果的に新旧の生態系が交替するのではなく、明確な目的意識をもって新旧の生態系を交替させようとしている、というわけです。
トルメキアの神官たちは、この世を汚した「人間たちへの罰」として、神が与えた業苦が「腐海」である、と説きます。
しかし、ユパはその説明に懐疑的です。世界を汚した人間を罰するために、なぜ、人間よりもはるかに古い生命の歴史をもつ草木や鳥まで、滅ぼす必要があるのか?と。
ユパは、若い頃、一度だけ「腐海」の深部にさ迷いこんだことがあります。
そのとき彼は、「腐海」の深部に、清浄な地が広がっていることを知りました。
「腐海」の深部は、石化した菌類による空洞の世界が広がっていました。石化した菌類は、無毒な砂をつくりだしていたのです。
ユパは、それらの経験から、「腐海」は汚染されたこの星を浄化するために生まれてきた、という仮説を導き出しました。
そして、ナウシカも、ユパとは異なる論法で、この仮説に達していました。「腐海」をみてまわっていたナウシカは、観察と推論により、「腐海」の植物が毒(瘴気)を出すのは、土が汚れているためである、と見抜いたのです。
彼女は、きれいな水と空気のなかで「腐海」の植物を育ててみて、その仮説の裏付けに成功します。
きれいな水と空気のなかでは、「腐海」の植物たちは瘴気を出さず、花すら咲かせます。そう、「ごく普通の植物」に過ぎないことを明らかにしたのです。
汚れているのは土であり、腐海の植物は、土を浄化するために瘴気を出していたのです。
さて、ユパとナウシカが考えた仮説が真実であれば、人間たちは滅びるしかない、ということになってしまいそうですよ。
その営みのなかで大地を穢し続ける人間たちは、この星にとって「穢れそのもの」ということになるからです。
この星が、穢れを浄化するために「腐海」を創り出したとするならば、この星は、穢れの根源である人間を滅ぼそうとするでしょう。
しかし、ナウシカは疑問を持つのです。
「腐海」は、旧世界を滅ぼし、やがては自らも、石と化して滅びていきます。
「腐海」が滅びたのちには、清浄な世界が広がることになりますが、そこは旧世界の動植物はもちろん、新しい生態系の蟲たちも存在しえない世界です。
本当に「腐海」は、自分を含めた全ての生き物を滅ぼすために、誕生したというのでしょうか?
「腐海」の活動は、ただ滅びゆくだけの道であり、「腐海」の未来には、ただ滅亡があるのみ、というのでしょうか?
「腐海」も生き物です。にも関わらず、「生きること」そのことが滅びとなり、その営みにより生き物が存在しない「虚無の世界」を作り続けていく、果たしてそんなことがあり得るのでしょうか?それは「生命の本来」に、そぐわないのではないでしょうか?
ナウシカは、疑問を持ちます。
第7巻目、墓所の貯蔵庫の主の話を聞くなかで、ナウシカの疑問は氷解していきます。
「世界と自らとを滅ぼす」という「一定の目的」をもって生まれてきた生態系など、やはり「生命の本来」にそぐわないのです。
そう、「腐海」はこの星が生み出した生態系ではなかったのです。
「腐海」は、人間が作り出した人工生命体だったのです。
人間は、自らが汚染したこの世界を清浄にするために、「腐海」を作り出したのでした。有毒物質を結晶化させ安定させる装置として、「腐海」は作られたのです。
王蟲とは
「腐海」とともに考える必要があるのが「王蟲」です。「腐海」には沢山の蟲たちが生息していますが、その蟲たちに君臨するのが「王蟲」です。
「王蟲」は、体が大きいというばかりではなく、高い知能と深い精神とを有する生き物であり、その意味でも他の蟲たちとは格別の存在として描かれます。
「王蟲」は蟲たちの指導者であり、腐海を世界に広げていく実践者でもあります。
人間を襲う際には他の蟲たちを従え先頭に立ち、「腐海」を突出して死んだ「王蟲」の亡骸は、「腐海」の植物の苗床となります。
第5巻149頁では、ナウシカが「王蟲の血の中に(腐海の植物の)成長を促す何かがあるのかしら」と推測しています。
おそらく、このナウシカの推測は正しいのでしょう。既にみてきたとおり、「腐海」は人間の手で作られた装置ですが、「王蟲」もまた、人間によって作られた人工生命体なのです。
おそらく、「腐海」の頭脳と手足の役割を担っているのが、「王蟲」なのでしょう。そして、「王蟲」の身体には「腐海」の苗床としての機能が、与えられているのでしょう。
「腐海」を作った人間たちは、「腐海」を守り、かつ「腐海」を世界に広げていく実行者として蟲たちを作り、その蟲たちを束ね行動するものとして「王蟲」を作ったのでしょう。
「王蟲」を筆頭とする蟲たちも、「腐海」同様、この世界を浄化するための装置として、人間の手により作られたのです。
「王蟲」に関して特筆すべき点は、その高い知能と深い精神でしょう。
その高い知能と深い精神の根源は、「王蟲」に備わる「時空ヲ超エテ心ヲ伝エユク」能力(第1巻127頁)にあるのでしょうか。人間の知能と精神とを、はるかに凌駕した存在といえます。
そしてまた「王蟲」には、「個にして全、全にして個」という意識があります。
そのため、「全」を守るために、やすやすと「個」である自らを犠牲にするのです。
ただ、どうやらこの「個にして全、全にして個」の意識は、「王蟲」特有のものではなく、蟲たち全体が共有する意識のようです。
仮説:「全にして個、個にして全」は人為的操作による意識か?
さて、ここでちょっと私の仮説を述べさせて頂きます。
「蟲たちの、全にして個、個にして全という意識の「おおもと」は、人間が蟲たちを作った際に根付かせた、人為的なものなのではないだろうか」、という仮説です。
旧世界を滅ぼし、やがては自ら滅んでいく「腐海」とともに、蟲たちにも「滅びゆく定め」が与えれました。
その定めを全うするため、「全体のために個を犠牲にする」という意識が、人為的に、本能として蟲たちに植え付けられたのではなかろうか、という仮説です。
もしも高い知能を持つ「王蟲」に「自我」が芽生え、利己的な行動をし始めてしまったら、世界の浄化は望めません。
その心配を払拭するために、人為的に、「利他的な行動」を採るよう蟲たちは作られたのでは、という推測です。
仮にそう考えてみると、ここで疑問が湧いてきます。
「腐海」や「王蟲」をはじめとする蟲たちは人工生命体ですが、実は、ナウシカたち人間も、人間の手で作り変えられた「人工生命体」だったのですよね。
このことは、第7巻の129頁から131頁、ナウシカと墓所の貯蔵庫の主との会話で明らかになります。
人間も、人為的に作り変えられた存在だったのです。
ところが、作り変えられた人間たちには、「全体のために個を犠牲にする」という意識が植え付けられているとは、まるで見受けられません。
第7巻の132頁で、ナウシカは「計画では今は再生への道程のはずでした。けれど、現実には愚行はやまず、虚無と絶望は更に拡がっています」と述べます。
ここでいう「愚行」とは、自分の欲望を優先するあまり、世界を破壊してしまうことをいうのでしょう。
もしも「作り変えられた人間」たちに、「全体のために個を犠牲にする」という意識が本能として植え付けられていたら、このような愚行を繰り返すことにはならなかったのではないでしょうか?
世界を浄化させるつもりがあるなら、作り変えた人間にこそ、「全体のために個を犠牲にする」という意識が、必要だったと思うのですが。
世界を再生させるために人間を作り替えた人々は、作り変えた人間に「全体のために個を犠牲にする」という意識を、植え付けなかったのでしょうか?
それとも、植え付けはしたが、作り変えらえた人間たちにはその意識が発芽せず、従来通り「自我」の方がより強く発芽し続けた、ということなのでしょうか?
第7巻目の131頁には、「火の七日間の前後、世界の汚染がとり返しのつかぬ状態になった時、人間や他の生物をつくり変えた者達がいた。同じ方法で、世界そのものも再生しようとした・・有毒物質を結晶化して、安定させる方法。千年前に、突然攻撃的な生態系が出現した原因・・」とナウシカが語るシーンがあります。
これを見ると、先に人間が改造され、その後、「腐海」や「王蟲」たちが作られた、という時系列になっていることがわかります。
瘴気に肌をさらしながら、わずかなマスクだけでも平気な体に人間を改造したうえで、「腐海」を作った、ということですね。
なので、人間を改造した時には「全体のために個を犠牲にする」という意識の植え付け技術は未だなく、蟲を作る時にその技術が開発された、という推論も、一応立つのかもしれません。
しかし、「墓所」の存在を考えると、この推論は弱いように思えます。
仮に意識の植付技術が人間改造時に無かったとしても、用意周到な「墓所」の主であれば、蟲を作った後に、あらためて人間を作り変えることが出来たのではないでしょうか?
蟲で成功した「全体のために個を犠牲にする」という意識付けを、再度人間を改造することで、行えたのではないでしょうか?
そう考えると、単なる技術的な問題で意識の植え付けができなかった、という推論は弱いと思わざるをえません。
繰り返しになりますが、世界の浄化を願うなら、人間にこそ「全体のために個を犠牲にする」という意識が必要であったはずだからです。
そうすると、作り変えられた人間にも蟲たち同様に、「全体のために個を犠牲にする」という意識付けがなされたが、しかし、人間ではその意識が発芽しなかった、と考えるのが順当なのではないでしょうか?
ところで、そもそも生命には、「全体のために個を犠牲にする」という機能が備わっています。「アポトーシス」などが、その代表例となりますでしょうか。
「アポトーシス」とは、多細胞生物において、個体の維持保全を目的とし、細胞が自ら死ぬ機能をいうそうです。まさに「全体のために個を犠牲にする」機能ですね。
つまり、自らを守ろうとする「利己的意識」も、全体を守るために自らを犠牲にする「利他的意識」も、もともと生命が持っている機能です。
(より正確にいえば、生命が進化の中で獲得した機能、でしょうか。)
「王蟲」ら蟲たちは、「利他的意識」という生命がもともと有する機能をより尊重し、人間たちは、「利己的意識」という生命がもともと有する機能をより尊重した、ということなのかもしれません。
すなわち、蟲を作り出した人間たちは、装置として機能させるために、「利他的行動」を採るよう誘導しました。その誘導が功を奏したのかどうかは分かりませんが、蟲たちは「利他的意識」を強く持ち、「利己的行動」を採るようになりました。一方、作り変えられた人間たちにはその誘導が効かず、人間たちは「利己的意識」を強く持ち、「利己的行動」を採り続けた、ということなのではないでしょうか。
このように考えてみると、結局のところ、蟲や人間を作った者達の「作為(誘導)」はたいして成功しておらず、実際には、蟲は蟲の生命の本質として「利他的意識」を自ら採用し、人間は人間の生命の本質として「利己的意識」を自ら採用した、ということなのかもしれません。
このことは、第7巻目の198頁、ナウシカが「墓所」の主に対していう、「私達の身体が人工で作り変えられていても、私達の生命は私達のものだ。生命は生命の力で生きている」というセリフに通じているようにも思われます。
(もしもこのように考えると、ナウシカが「墓所」を破壊するまでもなく、実は、人間たちは自らの力で「墓所」の軛から離れつつあり、自らの生命をすでに生き始めていたが、ナウシカが「墓所」を壊すことでそれを更に促進した、という見方ができるのかもしれませんね。)
森はひとつの聖なる生命体
「利他的行動」を採る「王蟲」や「腐海」は、ナウシカや森の人セルムなどに神聖視されますが、「利己的行動」を採る人間は、愚かなものと断じられます。
そして森の人セルムは、「腐海」や「王蟲」が人間によってつくられた、というナウシカの言葉に、ひどく動揺するのです。
「腐海」の森を聖なるひとつの生命体と捉え、「王蟲」を神聖なる生命と捉える森の人からすると、それら聖なるものが愚かな人間によってつくられた、などという考え方は、到底受け入れ難いのでしょう。
しかし、ナウシカはセルムに言います。(第7巻目133頁)
「たとえ、どんなきっかけで生まれようと、生命(いのち)は同じです」
「精神の偉大さは、苦悩の深さによって決まるんです」
「生命は、どんなに小さくとも、外なる宇宙を内なる宇宙に持つのです」
・・難しいですね。禅問答のようですよ。
最初の「どんなきっかけで生まれようと、生命は同じ」というのは、「腐海」も「王蟲」も人間も、ヒドラも粘菌の変異体も、等しく同じ生命だ、ということでしょう。
そして、次の「精神の偉大さは、苦悩の深さにより決まる」とは、その生命体がその生をどのように受け止め、悩みと苦しみとを乗り越えるかで、その生命体の厚み、偉大さが変わってくるのだ、といっているのでしょうか?
最後の「生命は、どんなに小さくても、外なる宇宙を内なる宇宙に持つ」とは、すべての生命はその内側に宇宙(内的世界)を宿し、そこに外なる宇宙(外的世界)を取り込む存在である、といっているのでしょうか?
これらを一体として見てみると、つまり、人工生命体であろうとなかろうと、等しく生命は、この素晴らしい外的世界と同等の、内なる宇宙を有している。生命は、この過酷な外的世界を生き抜き苦難を乗り越えることで、より豊かな内的世界を育んでいく。内なる宇宙の豊かさ、大きさこそが、その生命体の偉大さである。
そして生命は、内的世界を介して、互いに繋がり合っている。
より豊かで大きな内的世界を有する偉大なる生命体は、内的世界を通じ、より大きな影響を他の生命体たちに及ぼしていく。
もしかしたら、そのようなことをナウシカは言っているのではないでしょうか?
またナウシカは「世界を清浄と汚濁に分けてしまっては、何も見えない」といいます(第7巻130頁)。
同じように、聖なる「腐海」と「王蟲」、愚かなる「人間」、という対立軸を用いてしまっては、「生命」を捉えることが出来ません。
世界には清浄と汚濁があり、生命は神聖さと暗愚さを兼ね備えるものなのでしょう。
それらをともに愛でて受け入れ、悩み、苦しみ、乗り越えていくことが、すなわち「生きること」なのだと、ナウシカは説いているようです。
そもそも、「ひとつの聖なる生命体」からすれば、利他的意識を有するものたちも、利己的意識を有するものたちも、共に等価値な存在なのでしょう。そこに「聖」も「愚」もありません。
生命が選択した主要な戦略のひとつが「多様性」である以上、利他的意識を強く持つ種族も、利己的意識を強く持つ種族も、等しくともに重要な存在でしょう。
そんなふうに考えてみると、「ひとつの聖なる生命体」には、「腐海」の植物や「王蟲」などの蟲、粘菌の変異体のみならず、「人間」すらも含まれる、ということになるのだと思います。
つまり、人間も人工生命体も含め、あらゆるすべての生命体は、その有する内なる宇宙を通じて繋がり合い、「ひとつの聖なる生命体」を構成している、ということになるのでしょう。
そして、この星に誕生した様々な生命体、はるか昔に滅亡した種族を含め、すべての生命体が、「ひとつの聖なる生命体」を構成しているのだと、この物語は説いているのだと思うのです。
「腐海」や「王蟲」たち蟲は、「利他的意識」を有し、「利他的行動」を採るために、容易に「ひとつの聖なる生命体」に達することが出来るのかもしれません。
なぜなら、「利他的意識」は他者を受け入れ同化しようとする意識であり、他者という外的宇宙を自らの内的宇宙に導く意識である、といえるからです。常時「利他的意識」を有していれば、自他の境は消えていき、全にして個、個にして全という、「ひとつの聖なる生命体」に自然と合致していくのでしょう。
(これは夏目漱石先生の「則天去私」と同じですかね!?)
しかし、人間は、「利己的意識」を有し、「利己的行動」を採るために、常に疎外感に苛まれ続けてしまいます。
まるで粘菌の変異体のように、不安にうろたえ悲鳴をあげて、所かまわず他者を攻撃しまくるのです。
しかし、「腐海」や「王蟲」たち「ひとつの聖なる生命体」は、そのように暴走し続ける者であっても、実は愛情をもって受け止め、迎え入れようとしてくれていました。
人間は、この星を蝕むガンや汚濁などでは決してなく、やはり神聖なる生命体であり、「ひとつの聖なる生命体」を構成する一部だったのです。
「自我」が邪魔をして「全にして個、個にして全」という感性を体感しにくい可哀そうな生命体ではありますが、生きて悩みや苦しみをのり越え、泥にまみれながらも内なる宇宙を育んでいく中で、やがては「全にして個、個にして全」の体現に至るのが人間であると、この物語は教えてくれているのではないでしょうか?
ゆえに、「墓所」の主が計画する「浄化」は、ナウシカに否定され破壊されてしまいす。
「浄化」という考えは、いわば「外なる宇宙を拒絶し、内なる宇宙に取り込まない」という考え方であり、生命の本来に背く考え方だからでしょう。
ナウシカは、「墓所」を破壊した自分に恐れおののきます。なぜなら、「墓所」も生命だったからです。
しかし、「墓所」はナウシカにより破壊されたことで、不死から解放され、「ひとつの聖なる生命体」に回帰できた、という見方もできるのではないでしょうか?
「墓所」が不死を背負ったままであり続けたらなら、まるでガン細胞のように、他の生命との融合を拒み、自らを増殖させるだけだったのでしょう。
蟲が粘菌の変異体を食い殺し、また逆に食われて殺されて、ともに受け入れ合っていったように、「墓所」もナウシカに破壊され殺されることで生命の本来を取り戻し、「ひとつの聖なる生命体」に回帰できたのではないでしょうか。
まとめ
いやはや、やはりテーマが重すぎて、まだまだ考察しきれていない感が強いですね。
やはり「腐海」と「王蟲」は手強いです。
とりあえず、今回考察してみたことを、ざっとまとめてみますね。
・「全にして個、個にして全」という意識は、蟲や人間を作った者が、人為的に植え込んだ意識ではないだろうか?
・しかし、人為的操作は成功せず、蟲たちは自らの選択で「利他的意識」を選び、人間たちは自らの選択で「利己的意識」を選んだのではないだろうか?
・世界には清浄と汚濁があり、生命は神聖さと暗愚さを兼ね備えるものである。
・等しく生命は、この素晴らしい外的宇宙と同等の内なる宇宙を内在する。生命は、この過酷な外的世界を生き抜くことで、より豊かな内的世界を育んでいる。そして生命は内なる宇宙を通じて、互いに繋がり合っている。
・偉大な精神を有する生命体は、より豊かな内なる宇宙を有し、内なる宇宙を通じて、他の生命体たちにより大きな影響を与える。
・この星に誕生したすべての生命が、「ひとつの聖なる生命体」を構成している。
・「利他的意識」を有する蟲たちは、腐海の森と共に、容易に「ひとつの聖なる生命体」に合致することができた。
・「利己的意識」を有する人間たちは、世界との一体感を得られず、疎外感に苛まれ続けている。しかし、人間も生命である以上、「ひとつの聖なる生命体」の構成要素である。
・「利己的意識」を有する人間たちが、「ひとつの聖なる生命体」の構成員であることを体現するためには、苦悩しながらも生き続け、外なる宇宙を内なる宇宙に取り込み続けることが重要となる。そうすることで、やがて育まれた内なる宇宙において、他の生命と繋がっていることを知るのだ。
こんな感じでしょうか?
そして、まだよくわからない主要な論点が次のものです。
・「内なる宇宙」とは、一体なんなのか?本当に、あるのか?
・生命は、本当に「ひとつ」に繋がっているのか?
・・・生物学の「セ」の字も知らない国分坂には、難問過ぎる難問です。
哲学的な意味合いも強いとは思うのですが、でも、生命を語る以上、生物学的な整合性もある程度とれていないと、やっぱり納得ができないですよねえ。
これは、今後取り組むべき課題として、掲げておきたいと思います!
(哺乳類の胎児の形が、進化の過程を表しているように変化することに、もしかしてヒントがあったりします?生物学に詳しい方がいらっしゃったら、是非ご教授下さい!)
というわけで、まだまだ達していない感が大いにあるのですが、今回はこれくらいにさせて頂きたいと思います。すみません!(もう頭がくらくらです~)
是非ぜひ、皆さまの忌憚ないご意見ご感想を頂ければ幸いです!
以上、腐海と王蟲を考えます、生命とは、一体なんなのでしょうか?でした!
ここまで雑文乱文にお付き合いを頂きまして、誠にありがとうございました!