「森とタタラ場、双方生きる道はないのか!」とアシタカさん。「対話」の重要性を考えます。(あるいは「我慢」のススメ。)
みなさん、こんにちは。国分坂です。
今回は「対話」について、考えてみたいと思います~!
- 『もののけ姫』主人公アシタカの叫び
- 対立関係ある当事者間の対応(回避・交渉・闘争)
- 対話とは
- 対話から得られる感覚(同調・共感・尊重・無視・排斥)
- 対話の先に目指すもの
- 「我慢」のススメ
- アシタカの奮闘で、なにが変わったのか?
『もののけ姫』主人公アシタカの叫び
映画『もののけ姫』の主人公アシタカは、「森」と「人」との間に立って、右往左往しながら孤軍奮闘しますね。
「森とタタラ場、双方生きる道はないのか!」と。
でも、犬神のモロには「小僧、もうお前にできることはなにもない」と言われてしまうし、ジゴ坊には「あいつ、どっちの味方なのだ?」と疑われるし、もののけ姫サンには「来るな!人間なんか大っ嫌いだ!」と突き放されるし。
それでもアシタカは、「森」と「人」、鋭く対峙する両者の間に立とうとして、なんとか双方が共存できる道を、探し出そうと頑張ります。
そしてアシタカは、森の住人である山犬・猪・サンたちに、人間のエボシ・ジゴ坊・タタラ場の人たちに、一生懸命「言葉」を投げ掛け続けます。
その「言葉」は虚しく霧散していくばかりですが、アシタカは諦めずに、体を張って「言葉」を発し続けるのです。
アシタカは、鋭く対峙する両者の間に「対話」の場をつくろうと、奮闘するのです。
対立関係ある当事者間の対応(回避・交渉・闘争)
対立する当事者が相手に対して採り得る対応は、ざっくり分類すると三種類あると思います。
「回避」、「交渉」、「闘争」の三種類です。
「回避」とは、争いに発展することをおそれ、相手との接触を避ける行動です。自然界の野生動物にも、よく見られる行動のようですね。
見て見ぬ振りをし、決定的な敵対関係になることを避けるのです。
「交渉」とは、対立する当事者との間で、「闘争」以外の解決策を図る行動です。
対話、説得、取引など、論理的・感情的・経済的納得を、一方若しくは双方が得るための行為といえます。
「闘争」とは、ここでは「武力を用いて相手方を屈服させ、自らの要求を獲得する行動」とします。個人が行えば暴力的奪取ですし、国家が行えば戦争ですね。
さて、ざっくりと三分類してみましたが、できれば避けたいのは「闘争」ですよね。
一般的には、誰しも暴力を振るいたくないでしょうし、振るわれたくもないでしょう。
「回避」に関していえば、もしもこれで「済む」のであれば、決して悪い手段とはいえないでしょう。
対立する相手方と接触せず「問題を顕著化させない」というやり方ですから。
しかし、往々にして、「回避」したくてもできない、見て見ぬ振りはもう限界、という事態になってしまうことが多いのですね。
そこで、「回避」はできないけど「闘争」はしたくない、ということで採られる手段が「交渉」です。
「交渉」には、様々な手段があります。
法理論的な決着をつけるための「訴訟」も「交渉」のひとつです。
外交的・経済的な決着をつけるための「deal(ディール):取引」も「交渉」です。
倫理的・論理的な納得を得るための「説得」も「交渉」にあたるでしょう。
しかし今回は、数ある「交渉」のうち、「対話」に焦点を当ててみたいと思います。
対話とは
「対話」とは「相手方と対面して話すこと」ですね。(直接対面せず、電話などで話すことも、一応「対話」に含まれるかもしれません。)
「対話」という方法は、理論的・倫理的決着、外交的・経済的決着のみならず、「感情的」な問題についても対処することに長けている点に、特徴があるといえます。
「対話」においては、単なる「情報」のやり取りがなされるだけではなく、「感情が込められた言葉」のやり取りがなされます。
つまり「対話」は、双方でやり取りされる言葉に「感情が込められていること」を前提として成立するもの、といえるのです。
(更に「直接対面して行う対話」においては、いわゆるボディーランゲージも加わるため、感情のやり取りが、より効果的になされます。)
「対話」を行うことで、当事者双方の感情が吐露されていきます。
それにより、「対話」の場に出てきた感情を、双方が「共有」できることになります。
更に「対話」が進み、双方の間で一定の信頼関係が構築されると、相手方の感情的な問題を、「受け入れることはできないが、認識はした」、という態度を示せる場合があります。
自分の感情を「認識」してもらえた当事者は、相手方に対しても、その感情を「認識」しよう、という行動に出ることがあります。
強い言葉を言われれば強い言葉を言い返したくなるように、自分の感情を認識されれば相手の感情も認識しよう、という気持ちになるのですね。
これは「対話」におけるバランス感覚の発露、といった効用ですね。
このようなことが起こると、それを契機として、「対立解消の糸口」が見えてくることがある、というわけなんですね。
「対話」における「感情」の相互認識が、対立解消を促すことがあるのです。
対話から得られる感覚(同調・共感・尊重・無視・排斥)
もちろん、対話により常に問題が解決するわけではありません。
対話することで、より一層、対立が先鋭化してしまうこともあります。
そこで、対話をするに際しては、「対話により何を求めるべきか」というを、常々念頭に置いておく必要があるわけです。
それを考えるにあたり、まずは「対話により得られる感覚」について、ちょっと整理しておきたいと思います。
「対話により得られる感覚」には、ざっくりと5種類あると考えます。
同調・共感・尊重・無視・排斥の5種類です。
以下、私なりに解析してみます。
同調は、相手の感情や意見と、自分の感情・意見とが「一体化」することです。
たとえば、幼児が母親に持つ感情や、幼児が母親に対して求める感情に近いもの、といえます。
相手の感情・意見を無批判的に受け入れ、それらを自らの感情・意見とするものです。
共感は、相手の感情や意見を評価し、一定の範囲で受容することです。
同調とは異なり、自分の感情・意見と、相手の感情・意見とは分離していますが、一定の範囲で受け入れることで、相手の感情・意見と心理的に共鳴できる状態になるものです。
尊重は、相手方の感情・意見を自分の感情・意見と異なるものとして峻別し、それを受容することはできないとしながらも、相手方の感情・意見を重要なものとして認め、自分の感情・意見と共存させることに努めるものです。
無視は、相手方の感情・意見を、あえて認識しない、というものです。
排斥は、相手方の感情・意見を否定し、その存在を認めず、自らの認識の外に追いやろうとするものです。
さて、「対話により何を求めるべきか」についてですが、「無視」や「排斥」はもちろん論外です。
相手方の感情・意見を「無視」「排斥」しようとすれば、当然ながら対立が先鋭化してしまうでしょう。
(結果、世界を味方と敵に分類し、排除し合うだけになってしまいます。)
だとしたら「共感」でしょうか?
そうですね、対話により相手から「共感」が得られたら、とても気持ちが良いでしょう。
相手方が自分の感情や意見を受け入れ、一定の範囲で賛同してくれるわけですからね。
しかし、対立する当事者間での対話で「共感」を得るというのは、実際問題としては、かなり困難なことといわざるを得ません。
「共感」は理想的ともいえますが、受容を前提とする以上、そうそうできるものではないのです。対立関係にない間柄であっても、「共感」できないケースは往々にしてあるのではないでしょうか?
対立する当事者間であれば、なおさらですよね。
対立当事者間での対話の「現場」においては、双方が相手方に「同調」を求め、それが無理だと分かると相手を「無視」または「排斥」してしまう、といった態度が往々にして見受けられます。
しかし、対立する当事者間の対話において、無批判な「同調」なんて、引き出すことはまず無理なはずなのです。
ところが、対話に慣れていないためでしょうか、自分の意見をそのまま受け入れてもらうことを、ついつい求めてしまうのですね。そして、自分の意見に対し少しでも批判的な意見が出されると、もう拒絶反応を起こしてしまい、それ以降は相手を「無視」「排斥」してしまうのです。
残念ながら、そのような対応が、とても多いように見受けられます。
では、どうしたらよいのでしょうか?
「共感」は難しい、「同調」「無視」「排斥」はダメ。
・・そう、対立する当事者間での対話で求めるべきものは、「尊重」なのです。
そもそも「対立」している以上、双方の感情・意見が「異なる」ことは当然であり、「異なる」というところから、出発しなければならないのです。
どれほど言葉を尽くしてみても、双方の隔たりが埋まるには、通常、かなりの時間を要するはずなのです。
そこで、「自分と相手とは異なるのだ」ということを、まずはしっかりと認識することが重要になるのです。
そして、「感情・意見の異なる自分が、相手にその存在を認めてもらうためには、自分も相手の意見を認め、その存在を認めなければならない」という認識に至る必要があるわけです。
相手方の意見を「受け入れること」はできないが「存在すること自体は大切にする」という態度をとるのですね。
それが、「尊重」です。
相手方の意見を「尊重」するのです。
相手方の意見を「尊重」することで、感情・意見の異なる両当事者が、互いの存在を認め合う基盤がうまれます。
互いの存在を認め合うことができたら、そこを出発点として、「互いのテリトリーをなるべく侵さないルール」づくりを話し合う、ということが可能になっていくわけですね。
そう、「尊重」こそが、対立する当事者間での対話で求めるべきものなのです。
なお、「同調」に関しては、私は否定的に捉えております。
「同調」は、「自分と相手とが一体的な感情・意見を持つこと」です。
つまり、「同調」を求めることは、相手に「確立した感情・意見を持たないこと」を求めること、ともいえるのです。
独立した人格を有するはずの個人に「確立した感情や意見を持たない」ことを求めるというのは、非常に危なっかしい状況をつくりだすことになるのではないでしょうか?
やはり、独立した人格を有する者同士、それぞれ確立した感情・意見を持ちながら、ときに「共感」し、ときに「尊重」し合って、互いの関係性を維持していくべきだと思うのです。
よって、私は相手に「同調」しないよう、相手に「同調」を求めないよう、心掛けています。
対話の先に目指すもの
さて、対立する当事者間での対話では「尊重」こそを求めるべきだ、と論じました。
では、相手の感情・意見を「尊重」したうえで、問題解決のためには、その先更に、なにを目指すべきなのでしょうか?
それは、「変容」です。「自己変容」。
自分とは異なる感情・意見を「尊重」し、その存在を認めたうえで、今一度、「自ら」を振り返ってみることが重要なのです。
「このような感情や意見があり得るのだ」ということを、客観的な視点で、今一度、捉え直してみるのです。
「相手方の感情・意見を受け入れる」というのではなく、客観的なデータとして、「このような感情・意見が存在し得るのだ」ということを見つめ直すのです。
すなわち、「学習」するわけですね。
学習することで、自らの中に新たな視点がうまれ、問題の解決方法を得たり、ときには問題自体が霧散することになり得るのです。
そう、学習により「自己変容」が促され、問題解決に繋がるのです。
つまり、対話の先に求めるものは「自己変容」であり、それこそが真の問題解決を生み出す鍵になり得るわけです。
「我慢」のススメ
では、「尊重」と「自己変容」とを実行するには、具体的にどのような行動を心掛けるべきなのでしょうか?
それは「我慢」ですね。
相手の言うことを、何はともあれ、「我慢」して聴く。
自分的にはあり得ない感情であっても、論理的に破綻しているような意見であっても、まずは「我慢」して聴くのです。
反論や問題点を指摘したくなる気持ちをぐっと押さえて、最後まで相手の言葉を遮ることなく、ちょっと「我慢」して聴いてみましょう。
その聴く態度こそが、相手の感情・意見を「尊重」する態度になるのです。
そして、「あり得ない感情」や「破綻している意見」であっても、どうしてそのような感情・意見が発生してしまったのだろうか? 背景事情には一体なにがあり得るのだろうか? といったことを、ちょっと「我慢」して分析していきます。
自分的にはあり得ない感情や意見であっても、そのような感情や意見を持つひとが、実際、目の前にいるわけですから。分析してみる価値は、充分あるはずですよね。
「客観的なデータ」として、その感情・意見の根源、背景事情、隠れた意図などを、じっくりと探って、考えてみましょう。
そうすることで、いままで感じたこともない感覚や、知り得なかった世界観を、垣間見ることができるかもしれません。
それが、我々に自己変容を促すことになり得るのです。
その瞬間、「問題が問題でなくなっている」可能性すらあるのです。
つまり、「我慢」は相手のためにするのではなく、自分のためにするのですね。
相手との対話により学習を得て、自分の中での対話が起こるのです。それらを導いてくれるのが「我慢」というわけです。
その結果、うまくすると自己変容が起こり、問題の解決方法がわかったり、問題が無効化したりするわけですね。
アシタカの奮闘で、なにが変わったのか?
最後にもう一度、『もののけ姫』に戻ってみましょう。
アシタカの奮闘により、問題は解決したのでしょうか?
誰が、何が、変わったのでしょうか?
結局のところ、シシ神の森は破壊され、タタラ場も破壊されてしまいますね。
サンはやはり「人間を許すことはできない!」と言いますし、タタラ場の人たちも、おそらくサンたち森の住人のことを恨み続けることでしょう。
だとしたら、問題は解決せず、なにも変わらなかったのでしょうか?
いえ、違いますよね。
サンは、「アシタカは好きだ」といいます。サンは、人間であるアシタカを受け入れたのです。
そしてエボシは、「礼を言おう。誰かアシタカを迎えに行っておくれ」と、森と人間の間に立ったアシタカを、快く受け入れるのです。
つまり、「森の住人代表」のサンも、「タタラ場代表」のエボシも、ともに変容し、アシタカを介して、取り敢えずの併存関係が成立するわけなんですね。
おそらく対立は解消しておらず、問題は依然山積しているのでしょうが、一応の落しどころを双方見出し休戦できた、といった感じだと思います。
(なお、『もののけ姫』のラストでは「シシ神の森」が失われ「新たな森」が誕生しましたが、この森はおそらく「里山の風景」だと思われます。自然界からすれば、人間により破壊された「いびつな森」である「里山」なのですが、これに関しては様々考察したい点があります。しかし、これはまた別の機会に、改めて論考したいと思います。)
アシタカは、森の住人とタタラ場の人間たちの「闘争」を、なんとか食い止め、「対話」によって解決させようと頑張りました。
残念ながら「闘争」を止めることはできませんでしたが、しかし、「対話」の呼びかけは、一定程度功を奏していたように見受けられる、というわけです。
さてさて、アシタカは、この後もやはり、苦労を重ねることでしょう。
村人たちには、ときに「お前はどっちの味方だい!」と問い詰められるかもしれません。
サンには、ときに「やっぱりお前は人間だ!だいっきらい!」と癇癪を起されるかもしれません。
それでもアシタカは、じっと「我慢」しながら、怒りや疑念が薄れるのを待ちながら、やはり「対話」の場を作り続けていくのでしょう。
そして、サンも村人も、そんなアシタカをやっぱり受け入れて、頼りにして、アシタカの言葉に耳を傾けることになるのではないでしょうか?
どうなんでしょうね?
皆さんは、如何思われますか?
(アシタカって、カッコイイですよねえ。)
というわけで、アシタカさんの叫びから「対話」の重要性を考えてみました!
ここまでお付き合いを頂きまして、誠にありがとうございました!