国分坂ブログ

「歩くこと」「考えること」が好きな、国分坂です!

歌舞伎『風の谷のナウシカ』を観る前に!?生命は「道具」か?【ナウシカ学③】

みなさん、こんにちは~  国分坂です。

さてさて、過ごしやすい季節が到来しましたね。秋です。

秋といえば、そう思索。

思索といえば【ナウシカ学】です!

 

ところで『風の谷のナウシカ』が歌舞伎で公演されるそうですね。

 

見得を切るナウシカ?

 

「てやんでぃ!あ~っ! ダダン‼

 い~の~ち~は~!  ダダン‼

 闇のなかに~ぃ!   ダダン‼

 ま~た~た~く~ぅ  ダダン‼

 ひ~か~り~だああ~‼ ダダダン‼ダン‼」

 

ちょっと違いますかね?

・・是非とも歌舞伎版ナウシカ、観てみたいものです!

 

www.kabuki-bito.jp

 

というわけで、できれば歌舞伎『風の谷のナウシカ』を観賞する前に、今一度【ナウシカ学】でナウシカの世界を考察しておきませんか!?

 

では!では!

  久々の【ナウシカ学】の、は~じ~ま~り~  ジャジャン!

 

今回は【ナウシカ学③】、「シュワの墓所」編です!

いままで、【ナウシカ学①】では「巨神兵」を、【ナウシカ学②】では「腐海と王蟲」を考えてきましたが、今回の③では「シュワの墓所」に迫りたいと思います!

もしもお付き合いを頂けますと、もうもう、嬉しい限りです~!!

 

 

 

 

お約束

毎度ながらで恐縮なのですが、【ナウシカ学】を進めていく上での、私なりのルール(お約束)を、ちょっと記させて頂きます。

(毎度毎度ですみません。読み飛ばして頂いても結構です~)

 

1.テキストは徳間書店『風の谷のナウシカ』(全7巻)を使用する。

2.先行研究文献は、基本的には目を通さない。

  原則として上記1のみを使用し、独自の考え方を、まずは展開する。

3.皆様のご意見・ご感想を頂きながら、学問体系まで昇華させることを目指す。

 

 1と2についてですが、基本的には漫画版『風の谷のナウシカ』のみをテキストとして使用し、論考を進めていきたいと思っています。

誤謬を恐れることなく、自由な発想で考えていきます。

よって、もしかしたら作者(宮崎駿氏)の意図とは、まるで違う考え方が展開されてしまうかもしれませんが、それもまたよし、として進めたいと思います。

なお、『風の谷のナウシカ』に関しては、先行する論文などが様々にあるのかもしれませんが、現段階ではそれらに目を通すことなく、論考を進めていきます。

すでにある論文はとても重要な資料だと思いますが、それらを参照してしまうと、私の貧弱な頭脳ではその影響下から脱することができなくなる、と恐れるためです。

よって、基本的には『風の谷のナウシカ』という作品のみを相手として、まずは自分なりの考えを展開していきたいと考えております。

 

3についてですが、できれば展開させた論考を「学問」にまで昇華させていきたい、『風の谷のナウシカ』についての論考から、『風の谷のナウシカ』にまで高めていきたい、と願っております。

よって、私の拙い論考をきっかけとして、皆様より異論反論などを頂き、それを基に多様な論証を進めていけたら、最高の喜びです。

 ご意見・ご教授・ご指導を頂ければ、嬉しい限りです。

宜しくお願いいたします!

(なお、本記事では『風の谷のナウシカ』を論考するため、当然ながら「ネタバレ」満載です。『風の谷のナウシカ』を未読の方は、是非、作品をお読み頂いたうえで、こちらの記事を楽しんで頂ければ幸いです。)

 

 

 

「シュワの墓所」とは?

では、本題に入りますね。

今回のテーマ、「シュワの墓所」とは、一体何なのでしょうか?

 

「シュワの墓所」を私なりに要約してみますと、「旧人類が世界を再建するために造った叡智と技術の集積基地であり、世界再建計画実行のための司令塔」、といった感じでしょうか。

 

 「シュワ」とは、土鬼神聖皇帝が治める聖都の名前です。

その「シュワ」にあるのが「シュワの墓所」なんですね。

いやむしろ、元々「墓所」が先にあり、後から土鬼帝国の聖都が置かれたようです。(土鬼帝国のみならず、歴代の王国が「墓所」の下に都を定めてきたようですね。)

 

以下、作中で「シュワの墓所」に関して語られる部分を、順に見てみましょう。

 

「火の七日間の前後 

 世界の汚染がとり返しのつかぬ状態になったとき

 人間や他の生物をつくり変えた者達がいた」

 

「同じ方法で世界そのものを再生しようとした・・」

 

「有毒物質を結晶化して安定させる方法」

 

「千年前に突然攻撃的な生態系が出現した原因・・」

(7巻131頁)

 

ナウシカとセルムは、腐海や王蟲達が「世界を再生するための道具」として造り出されたもの、すなわち「人造生命体」であることに気付きます。

そして、その技や意図が「シュワの墓所」にある、と見抜くのです。

 

「この世界に仕組まれた秘密が

 シュワの墓所のなかにあると・・・」

(7巻133頁)

 

ナウシカは考察します。

 

「あの黒いもの(墓所)は おそらく再建の核として遺されたのでしょう

 それ自体が生命への最大の侮蔑と気づかずに」

 

「シュワの墓所には 旧い世界のいまわしい技が遺されています。

 王蟲を培養し ヒドラを飼い 巨神を育てた技が。

 その技があるかぎり 邪なものをよびよせ 虚無が死を吐き出します」

(7巻172~173頁)

 

どうやらナウシカは、非常に否定的な見解を「墓所」に対して有しているようですね。

そして「墓所」に到達したナウシカは、「墓所の主」に対し、自分の思いを言い放ちます。

 

「なぜ真実を語らない。

 汚染した大地と生物を 

 すべてとりかえる計画なのだと!」

 

「お前は亡ぼす予定の者達を 

 あくまであざむくつもりか!

 お前が知と技をいくらかかえていても 

 世界をとりかえる朝には

 結局ドレイの手がいるからか!」

 

「私達の身体が人工で作り変えられていても

 私達の生命は私達のものだ。

 生命は生命の力で生きている」

 

「生きることは変わることだ。

 王蟲も粘菌も 草木も人間も 変わっていくだろう。

 腐海も共に生きるだろう。

 だがお前は変われない 

 組み込まれた予定があるだけだ。

 死を否定しているから・・」

 

「絶望の時代に理想と使命感からお前がつくられたことは疑わない。

 その人達はなぜ気づかなかったのだろう。

 清浄と汚濁こそ生命だということを」

 

「苦しみや悲劇やおろかさは 

 清浄な世界でもなくなりはしない。

 それは人間の一部だから・・

 だからこそ 苦界にあっても

 喜びやかがやきも またあるのに」

 

「いのちは 闇の中のまたたく光だ!」

(7巻197~201頁)

 

これらの「ナウシカと墓所の主との対決」については、【ナウシカ学②-3】であれこれと考えてみましたので、詳細はそちらに譲ろうと思います。

 ↓↓↓ 

【過去記事】

www.kokubunzaka.com

 

さて、ナウシカと墓所の主との「対決及びその結末」を、ごくごく端的にまとめますと、「旧人類が考え出した未来」を否定したナウシカは、「その未来」を実現しようとする墓所を完膚なきまで破壊してしまった、ということになるでしょう。

なお、墓所の破壊には、巨神兵の力を利用しています。

 

ナウシカは、旧人類が考えた世界再生計画の「道具」となることを拒み、かつ、旧人類が考えた再生計画そのものを否定しました。

ナウシカは、旧人類が叡智を結集して造り上げた「理性的な未来像」を認めず、自らに宿る「(不可知な)生命力」や、生命を育む「この星の(見えざる)力」の可能性を信じ、それに人類の運命を委ねることとした、と読めそうです。

つまり、「生命が創り出す混沌的未来」にこそ希望を見出した、と読めそうです。

 

もしくは、旧人類があくまでも「人間」の存続を求め「人間」のための環境再生を考えたのに対し、ナウシカは「生命」としての可能性を求め「人間」という枠組みを越えた「生命の一員」としての生き方を考えた、といえるのかもしれません。

人間の理性、すなわち「脳内合理的世界」に限界を感じ、むしろ「生命が宿す力」にこそ現状を克服する可能性、つまり「変化し存続する(=進化する)可能性」を見出した、ということなのかもしれません。

 

墓所の主は言います。

「人類は わたしなしには亡びる。

 お前達は その朝をこえることはできない」

 

しかしナウシカは、墓所の主の力(つまり旧人類の叡智)によってでは、逆に「その朝を越えることはできない」と考えたのではないでしょうか?

ナウシカの見る限り、旧人類が考えたらしき再生計画は、実際にはまるで進んでいなかったからです。

 

「計画では今は再生への道程のはずでした

 けれど 現実には愚行はやまず 

 虚無と絶望は更に拡がっています」

(7巻132頁)

 

そんな不確かで杜撰な再生計画に、人類の未来を託すわけにはいかないのだと、ナウシカは考えたのでしょう。

 

更には、もしかしたらナウシカは、人間が人間として存続することを、諦めたのかもしれません。

人間は滅び他の生命体にバトンを渡すことになるのか、もしくは人間が他の生命体へと進化していくのか。

それらも含めて、未来を「自らに宿る生命力」「この星の見えざる力」に委ねよう、とナウシカは考えたのかもしれません。

 

「ひょっとすると・・

 人間を亡ぼしにいくのかもしれない・・・」

(7巻141頁)

 

そんな覚悟を、ナウシカは心に宿していたのです。

人類が存続していくことをどこかで諦めつつ、しかし旧人類の計画を諾々と受け入れることはせず、「何らかの形で人類が命を繋げていく未来」を、むしろ果敢に選択するために墓所を破壊した、といえるのかもしれません。

 

「世界は よみがえろうとしていました

 たとえ 私達の肉体が その清浄さに耐えられなくとも

 

 次の瞬間に 肺から血を噴き出しても鳥達が渡っていくように

 私達はくり返しいきるのだと・・・」

(7巻172頁)

 

ナウシカは人間という種に固執することよりも、生命の一員、生命の環に繋がるものとしての存在を、より重視したのだ、とも読めそうです。

 

でも、そう読むと「人類滅びちゃうのかあ。虚しいなあ」と思えてきますよね。

 

いや、しかし、しかしですね。

全ての人間は個体として必ず死ぬのですし、種としても、いつかは必ず滅びるものなのですね。

それが、生命の定め、なのですね。

 

だからこそ、「個体や種としての存在」に固執するのではなく、「生命の流れのなかにあるもの」と認識すべきだ、とナウシカは考えたのかもしれません。

(なんだか仏教的ですかねえ。)

 

すべては死に滅び流れていく

その流れの中でまた生まれ増え広がっていく

生命とはその流れであり繰り返しだ

 

それこそが、「いのちは 闇の中の またたく光だ」という言葉が意味するものなのではないか、と思いました。

 それが、「真理」なのかもしれませんね。

 

ただ、うーん、分かるような気もしますけど、やはり寂しいですねえ。うん、寂しいなあ。

流れて消えていくことを受け入れるのだ、といわれても・・哀しいですねえ。

 

そこで、外部でとても興味深い記事を見つけましたので、少し脱線しちゃいますけど、ご紹介しますね。

 ↓↓↓

【繁栄を止めるために遺伝子組み換えされた蚊、自然界に放たれ裏目の結果に】

www.newsweekjapan.jp

 

以下、内容を要約してみます。

「マラリア等を媒介する蚊を根絶するため、遺伝子組み換え技術により、繁殖能力を奪うオスの蚊を創り出すことに成功した。メスがこのオスと交尾し子を産むと、その子は、繁殖能力を持つ前にほとんど死んでしまう。実験では、生まれてきた子が成虫まで生存するのは3~4%だという。

ところが、実際にこのオスの蚊を自然界に放ったところ、一時的に蚊の個体数は減少したものの、18カ月後には個体数が回復してしまった。生存している成虫の蚊のなかには、遺伝子組み換えされたオスの蚊の遺伝子を受け継いでいるものもあるという。

さらには、遺伝子組み換えされたオスの蚊の遺伝子を引き継いだことで、より強固な個体が生まれた可能性すらある、と研究チームは指摘した。」

 

つまりですね、人間の叡智により「生殖能力を失わせる蚊」が造り出されたのですが、自然界の蚊は易々と、たった18カ月でその障害を乗り越えて、更に強固に「進化した」可能性すらある、という内容の記事です。

人間の「叡智」が、蚊の持つ「生命力」にあっけなく敗れた、ということですかね。

 

この記事を読むと、ナウシカの選択はあながち間違えではなく、しかも、人間は人間として進化し存続していけるのかも?と、希望を持てそうですね。

どうでしょう?

 

流れゆく寂しさの中にも、晴れやかで明るい光が見えましたような気がしませんか?

 

「いのちは 闇の中の またたく光だ!」

 

 

 

この物語の「最終にして最大の謎」

ところで『風の谷のナウシカ』全7巻をお読みになったとき、最後の最後で妙な記述があることを、みなさんお気づきになりましたでしょうか?

本当に最後の最後、「最終見開き2ページ」のなかに出てくるナウシカとセルムとの会話なので、ついつい読み飛ばしがちなのですが、じっくり読んで、よくよく考えてみると、なんとも「奇妙な」会話であることに気づきます。

 

「王蟲の体液と墓のそれとが同じだった」

とナウシカ。

これに対してセルムが答えます。

「それはわたしとあなただけの秘密です

 生きましょう

 すべてをこの星にたくして」

(7巻222~223頁)

 

まずナウシカのセリフから見てみましょう。

「王蟲の体液と墓のそれとが同じだった」

これ、もう随分前にナウシカとセルムが解き明かした謎でしたよね。

 

「腐海は 人の手が造り出したものというのですか!?」

「エエ・・ そう考えるとすべてが判って来ます」

 

「その王蟲を 愚かな人間が造ったなどと」

(7巻131~132頁)

 

腐海や王蟲は人間に造られたものであった、その秘密はシュワの墓所の中にある、とナウシカとセルムはすでに暴いていました。

なので王蟲の体液と墓の体液とが同じもの、すなわち人造血液であることは、二人にとっては当然に分かり切ったことなのです。

なのに、ナウシカは最後の最後の場面で、実に悩ましい顔で、「王蟲の体液と墓のそれとが同じだった」とつぶやきます。

それに対し、セルムは達観したような顔つきで「それはわたしとあなただけの秘密です。生きましょう。すべてをこの星にたくして」と応えるのです。

 

妙ですよね? 

一体どういうことでしょう? 

 

つまり、ナウシカが最後の最後で悩ましい顔をして「王蟲の体液と墓のそれとが同じだった」とつぶやくのは、「王蟲や墓が人造生命体である」ということとは「別の謎」が、そのセリフに込められているのだ、とみるべきなのではないでしょうか?

 

「王蟲や墓、森や人間すら、実は人造生命体であった」、ということは、既に解明されている謎です。

最終場面で、いまさらナウシカが苦悶する必要はないはずなのです。だって、ナウシカは実に思い切って、清々しいまでに墓所を破壊しているわけですしね。

もしも「人造生命体」であることに悩みや不安を感じていたのであれば、人造生命体の司令塔ともいえる墓所を、気持ち良いまでに破壊することはできなかったのではないでしょうか?

墓所には、人造生命体のための技や情報が蓄積されているのですから。

しかしナウシカは、躊躇なく墓所を破壊します。人造生命体であろうと生命であることに変わりない、自分達は自分達の力で生きるのだ、と決断するのですね。

 

つまりナウシカは「王蟲や森や人間たちが人造生命体であること」に関しては、とっくに乗り越えているはずなのです。

それを示す台詞が下記のものでしょう。

 

「たとえ どんなきっかけで生まれようと 生命は同じです」

(7巻133頁)

 

愚かな計画に拘泥するため破壊せざるを得なかった墓所と、尊崇すべき偉大なる生命体である王蟲とが、同じく旧人類由来の人工生命体であることは、ナウシカは先刻承知でした。

 

だから、「王蟲の体液と墓のそれとが同じだった」というセリフは、王蟲や墓が人造物であることを言っているのではない、と読むべきだと思うのです。

それ以外のことで、ナウシカは苦悶しているはずです。

これに対してセルムは「わたしとあなただけの秘密」にしておきましょう、と応えています。

一体、なんの「秘密」なんでしょうか?

 

私は、二つのことを考えました。

 

その1.「青き衣の使徒は墓所がつくった装置なのだ説」

青き衣の使徒とは、土鬼の地に古くから伝わる救世主のことです。

ナウシカは、たびたびその「青き衣の使徒」であるとみなされています。

 

「ケチャよ あの子(ナウシカ)が王蟲の中で 

 どのような姿をしているのか

 わしの盲(めしい)た眼のかわりに 見ておくれ」

「遠くてよく見えない・・・

 青い服を着ているわ

 たしかあの服 ばばさまの・・・

 でも・・色がちがう・・

 王蟲の血を浴びたように まっ青だわ

 触手が風になびく金色の草のよう・・

 あの子 まるで黄昏の草原を歩いているみたい・・」

「・・その者青き衣をまといて

 金色の野に降りたつべし・・」

(2巻79頁)

 

ナウシカが王蟲の群れの前に立ち、助けた幼虫を群れに戻すシーンですね。ナウシカの姿をケチャから聞いたマニ族の僧正は、青き衣をまとうナウシカに驚愕します。

 

このシーンから「青き衣」とは「王蟲の血に染まった衣」であることが解ります。

土鬼の地には、救世主神話ともいえる伝承があるようで、それが「その者青き衣をまといて 金色の野に降りたつべし」の語りなのですね。

「金色の野」とは「王蟲の触手」のようです。

 

さて、この「青き衣の使徒」と思われる者は、どうもナウシカが初めてではなく、過去に何度か登場したらしいのです。

 

「あいつだ 青い衣が現れたのだ」

「またか 帝位をついでからこの100年

 同じ話を何十回もきかされたぞ

 その度にお前は大騒ぎをして

 あわれな容疑者を引き裂くのだ」

(5巻17頁)

 

上記は皇弟ミラルパとその兄ナムリスの会話です。

つまり、過去に何度となく「王蟲の血に染まった衣」を纏った者が現れた、という事象が起こっているようなのです。

 

それを前提として、今一度、ナウシカがセルムに呟くセリフを見てみましょう。

「王蟲の体液と墓のそれとが同じだった」

 

墓所は、旧人類の計画に基づき、世界を再生させようとする存在です。

その墓所の血と王蟲の血とが同じであった、というのは、つまり、王蟲の血に染まった衣を纏う使徒は、実は墓所の計画を実行するためのツールのひとつであった、ということを意味するのではないでしょうか?

(王蟲も、再生計画の道具として造られたものでしたね。)

 

「世界をとりかえる朝には結局ドレイの手が」必要となる墓所としては、人々を導くためのツールとして、「使徒」を必要としたのでしょう。

そして、人々に「使徒伝承」を流布し、更にその伝承を植え付けるために、ときどき使徒を誕生させては、人々が使徒に従うよう仕向けてきたのでしょう。とても長い長い年月をかけて。

 

つまり、「青き衣をまとい金色の野に降りたつ使徒」は、人々の救世主なのではなく、墓所が自らの計画を実行するために王蟲を介して造り出した装置に過ぎなかったのです。

そのことをナウシカは見抜いてしまった、ということではないでしょうか?

それが、実に悩ましい顔で「王蟲の体液と墓のそれとが同じだった」とつぶやくナウシカの姿に込められた「謎」なのではないでしょうか?

 

7巻220頁で、王蟲の血よりも青い血を浴びたナウシカが、夕日を浴びて金色に輝く大地に降り立ち、土鬼の長老たちが涙する姿が描かれます。

人々は、ナウシカを救世主たる使徒ととらえ、彼女に導かれ進んでいくのです。

 

セルムはいいます。

「それは わたしとあなただけの秘密です」

 

つまりセルムの言葉は、「青き衣を纏った者は人々の救世主などでは決してなく、むしろ人々を墓所の奴隷に駆り立てる存在だったわけだが、そんなことを人々に伝えても仕方ないので、ここは秘密にしておきましょう」、という意味だと捉えることができるのでは?ということです。

 

・・ただ、この説だと、ちょっと弱いところがあるんですよ。

たしかに、歴代の「青き衣の使徒」たちは、墓所の装置として動いていたのかもしれません。

でもナウシカは、墓所の主と対決し、その思惑を見抜き、墓所を破壊したわけですから、「墓所の装置としての軛(くびき)」から放たれているわけですね。

ならば、悩ましい顔をして呟く必要はないのでは?とも思うのですよ。

墓所の思惑は阻止したのですからね。

 

ところで、青き衣の者を引き裂いてきた皇弟ミラルパや、その兄ナムリスも、「青き衣の者たちが墓所の装置に過ぎない」ということを、もしかしたら見抜いていたのかもしれません。

 

「俺はもう生きあきた

 何をやっても墓所の主のいうとうり(原文ママ)にしかならん」

(6巻165頁)

 

このナムリスの言葉から、墓所の計画から逃れよう、軛(くびき)を断とう、としてきたことが伺えます。

また、青き衣まとう者を警戒した皇弟ミラルパが、以前はナウシカのように慈悲深く思慮深い人間であったことを示す台詞もあります。

 

「へへ 弟のでっちあげた教義とそっくりだな

 思い出したぜ お前は 百年前のあいつに 似ているんだ

 若い頃 やつは本物の慈悲深い名君だったよ

 土民の平安を心底願っていた」

(6巻153頁)

 

聡明なミラルパやナムリスは、墓所の意図に気が付いていたのでしょう。

なので、なんとかして墓所が定めた道筋から抜け出そうと画策しました。

しかし、ミラルパやナムリスの画策は、失敗に終わってしまうのです。

ミラルパもナムリスも、墓所の計画から逃れようと奮闘するのですが、墓所を破壊することまでは出来なかったため、結局「墓所の装置」の一員として、終わってしまったのですね。

 

しかしナウシカは、墓所を破壊して、軛(くびき)を断ちます。

ゆえに、彼女は「墓所の装置としての使徒」ではなくなったわけです。

くり返しになりますが、墓所を破壊し軛を断ったのであれば、「悩ましい顔」をして呟く必要はないはずですよね。

皆に「伝えられてきた青き衣の使徒は、実のところ墓所の装置に過ぎませんでした。我々を奴隷にするための仕組みのひとつだったのです。しかし安心してください。もうその軛は断たれました。我々は我々の命をこれから生きていくのです。すべては終わりました。これからすべてを始めましょう!」と宣言すればいいのですから。

セルムが「それはわたしとあなただけの秘密です」などという必要はないはずなんです。秘密にしなくて良いのです。

にもかかわらず、どうして秘密にするのか?一体なにを秘密にするのか?

 

これに答えるために、ちょっと意地悪な考え方をしてみました。

青き衣の使徒は人々の救世主ではなかったわけですが、人々を導いていく為には、青き衣の使徒伝説は利用できます。

墓所のお陰で人々は青き衣の使徒を信じきっているのですから。

そこで、青き衣の使徒が墓所の装置であったということは二人だけの秘密にして、うまく使徒伝説を利用していきましょう、と考えたのではないか、と。

「人々は愚かだから、ナウシカ、あなたは救世主であり続けなさい。このことは、私とあなただけの秘密にしておきましょう」とセルムが提案し、ナウシカがそれを承諾した、という考え方です。

これだと、筋はとおりますね。

ナウシカの苦しげな表情も理解できます。

ナウシカのなかで「人々を騙し続けようか」という悩みが持ち上がったときに、セルムが涼しい顔をして「大事の前の小事です。騙しましょう。なによりも今は、生きていくことが重要ですから」と背中を押した、と読むとぴったりきませんか?

 

でも、ナウシカですからね。直情径行で曲がったことが大っ嫌い、やや潔癖なところがあるナウシカですからね。

やっぱり、「青き衣は救世主などではありませんでした。墓所が操る装置でした。でも大丈夫、墓所は破壊され我々は自由になりました。これからが全てのはじまります。皆で進み、生きていきましょう!」と声高らかに宣言しますよねえ、ナウシカですから。

「民衆は愚かで盲目的だからうまく騙して導くべし」などとセルムがいったら、張り倒すかもしれませんよ。

 

なので、この説ですと、ちょっと謎が残ってしまう感じは、あるんですねえ。

 

その2.「生命はすべて道具かもしれない説」

 そこで、さらに考えました。

 

「王蟲の体液と墓のそれとが同じだった」

 

「墓」は「人間が造った生命体」のことを示し、「王蟲」は「個にして全、全にして個という、ひとつの聖なる生命体」のことを示し、この二つを対立軸として置いている。

そして、この対極的な「墓」と「王蟲」という生命体も、結局のところは「同じもの」でしかなのだ、ということ表現している。

そんなふうに解釈してみました。

なお、ここでいう「体液」とは、「生命力」を示すのではないか、と。

 

つまり、「偉大なるひとつの生命体」も「人造生命体」も、同じ「生命力」を有する同様の存在なのである、ということをいっているのではないか、というわけです。

 

さらには、「旧人類の目的遂行のために造られた」墓所と同様に、そもそも生命体は「何らかの目的を遂行するために創られた存在」なのではないのか、ということです。

 

「王蟲も墓所も同じ」というのは「聖なるひとつの生命体も人造生命体も同じ」ということであり、「人造生命体が目的遂行のために造られたのと同様に、聖なる一つの生命体もなんらかの目的遂行のために創られたのではないか」、ということです。

 

つまり、生命はすべて「目的遂行のための道具」としてつくられたのでは、という意味が「王蟲の体液と墓のそれとが同じだった」というセリフの裏に隠されているのではないだろうか、という推論なんです。

 

生命はなぜ存在するのか?

生きることの意味はなにか?

我々は、どこからきて、どこへいくのか?

 

このような哲学的な問いも、もしも我々が「道具」であるとしたら、「明確な答え」が存在してしまうことになります。

 

生命はなぜ存在するのか?

→ある目的のためにつくられた。

生きることの意味とはなにか?

→目的を遂行することに意味がある。

我々は、どこからきて、どこにいくのか?

→必要とするものが道具としてつくり、不要となれば捨てる。

 

もっとも、「目的」を知っているのは道具の制作者や使用者であり、道具そのものには「目的」を知るすべはありません。

たとえばハサミに意識があったとして、毎日毎日そのハサミは紙を切り続けるのですが、どうして自分が紙を切るのか、なんのために紙を切っているのか、ハサミには永久に知ることができないでしょう。

その行動の意味や存在の価値を理解できないままに、ハサミは壊れるまで紙を切り続けるのです。

 

ひょっとすると、ナウシカは最後の最後に、気がついてしまったのかもしれません。

墓所を破壊することで「墓所の道具」であることからは解放されました。

しかし、そもそも生命そのものが、なんらかの道具として誕生したのだとしたら?

結局のところ、我々はその軛(くびき)を断ったことにはならないのでは?

結局のところ、我々は「道具」のままあり続けるのでは?

 

ナウシカのそのような疑問に対し、セルムは答えます。

 

「それはわたしとあなただけの秘密です

 生きましょう

 すべてをこの星にたくして」

 

生命は何らかの目的のために創られた道具なのだろうか?・・そんなことは解らない。仮に道具だとしても、その道具としての目的を知りうることは不可能だ。それこそ不可知への問いに他ならない。

ひょっとしたら、そうかもしれない、我々は道具なのかもしれない。

しかし、それを人々に伝えてどうなるのでしょうか?答えようのない問いを人々に与えたところで、一体どうなるというのでしょうか?

その疑問は、わたしとあなただけの秘密にしておきましょう。

道具としての目的をこの星が知っているというのであれば、それはこの星に託せばよいのです。

我々は我々として、道具であろうとなかろうと、生きていけばよいのです・・

セルムは悟りを開いたような顔をして、そのような想いのなかで述べたのではないでしょうか?

 

もっとも、この説は国分坂の妄想的な推論に過ぎません。

かなり飛躍してます。

この「生命はすべて道具なんじゃないか説」を直截的に示すセリフは、物語中のどこにもないのです。

ただ、この物語を読み込み、あれこれ悩んでいたら、ふと浮き上がってきた推論なのですね。

 

この物語は、生命の神秘を探求する物語、といえそうです。

哲学的な問いを発し続ける物語です。

そして、この物語の一番最後に出てくるメッセージが、「生きねば・・」です。

 

「生きるとはこういうことだ」とか、「このように生きるべきだ」とかいったメッセージではなく、「だたただ、とにかく生きていかないとね、生きようね」というメッセージが、最後に示されるのです。

これはつまり、「なぜ生きるのか?」とか「どのように生きるべきか?」という問いに対しては、固定化された普遍的な回答はあり得ない、ということを暗に示しているのではないでしょうか。

 

もし「なぜ生きるのか?」という問いや、「どのように生きるべきか?」という問いに対し、「明確な答え」が存在したならば、問いを発した者は、その答えを聞いた瞬間に、その答えを遂行するための道具となってしまうでしょう。

 

この物語の最後の最後で、ナウシカは生命が存在する意味に、なにかしら気づいてしまったのかもしれません。

しかしセルムがその疑念を祓い落とすのです。

 

生きることの意味や使命は、予め定まっているのかもしれない。

いや、定まってはいないのかもしれない。

しかし、そんなことを問いてみても、意味がありません。

定められた道筋があってもなくても、我々はただ我々として生きるのです。

定めがあるとしても、我々には触れることも知ることもできないのですから。

そのような定めへの疑問は、認識の外にでも置いておけばよいのです。

そう、たとえばこの星にでも、託しておけばよいでしょう。

そして、ただただ、生きましょう・・・

セルムは、あの達観したような顔で、そのように思ったのではないでしょうか?

 

うん、この説は、やっぱり飛躍してますねえ。

作者の宮崎駿氏に「そんなこと書いてない!」と怒られそうです。

ただ私的には、仮にこの物語では語られていなくても、この物語を読んで得た到達点として、なかなか面白い仮説だなあ、と感じました。

 

すべての生命体は道具である。しかし、作成者も意図も不明だ。

(「神様」なんてものを持ち出してもいいのでしょうが、それは単なるイメージ画像のようなものでしかないでしょう。我々が道具に過ぎないのであれば、作成者や使用者の存在や意図を知覚することは、到底できないでしょうから。)

我々の存在や行動には、一定の意味があったのである。

しかし、我々はそれを知覚できない。

であるならば、結局のところ、我々は存在の意味や行動の意味から自由である。

我々が知覚しえない意味は、我々を拘束し得ないからだ。

よって我々は、存在の意味や行動の意味を、自ら自由に定めることができる。

そのうえで、ひとつの生命体の一員として、我々は大いに生きていくべきだ。

 

そんなことを、この飛躍した仮説から、私は自ら読み取ったのですね。

 

ところで、私は【ナウシカ学②-3】で、「生命の本質は増殖し存続することのみで、増殖することや存続することに意味などないのだろう」、と考察しました。

この考察と上記の「生命は全て道具」説とは、実のところ矛盾しない、両立しうるものだと思うのですね。

なぜなら、結局のところ我々には、我々生命体が意味もなく増殖しているのか、それとも何らかの目的のために創られたのか、どうしたって知りようがないことなのです。

なので我々は、自ら自由に定めることが出来るし、定めるしかありません。

 

「意味などない。ただ増殖しただ存続するのみだ」

「ある目的のために創られた。その目的は解らないが、たしかに定められた意味はあるのだ」

 

どちらでも好きな方を選べばいいし、これ以外のものを考えてもいい。

「不可知なもの」へは、そのように対応するしかないし、また対応できるのです。

そう思うのですが、如何でしょう?

 

あ~すみません、とっても長く長く飛躍しちゃいましたね・・

  

おわりに

というわけで【ナウシカ学③】「シュワの墓所」編ですが、またもやダラダラと続けてしまいました・・ごめんなさい。

纏まらないかもしれませんが、強引にまとめてみますと、以下の通りかと思います。

 

《ナウシカと墓所の主》

・ナウシカが墓所を破壊したのは、旧人類の計画を阻止するためだった。

・ナウシカからすると、墓所の計画では人類は到底救われない。

・ナウシカは墓所を破壊することで軛を断ち、生命の可能性に賭ける道を選び取った。

・ナウシカが選んだ道は、人類の枠組みを越えた生命の一員としての、存続の道なのかもしれない。

 

《最後の最後のナウシカとセルムの会話》

・青き衣の使徒は救世主ではなく、墓所が作り出した人民誘導のための装置であることを示唆している。

ナウシカはそのことを知りつつも、人民にはそれを秘密にして、青き衣の使徒として人民を導こうとしている、という一つ目の説。

・実は生命はすべからく「道具」であるということを、ナウシカが察したことを暗示している。

しかしセルムは、その問いが無意味であると諭し、生命は生命として、ひとつの聖なる生命体の一員として、ただ生きていけばよいし生きるしかない、としている二つ目の説。

 

こんな感じでしょうか。

ああ、まとまらない。

またいつの日か、じっくりと見直したいと思いますので、今日はこの辺で。

もう、くたくたです~・・ひょ~

 

というわけで、以上、生命は道具か?ナウシカ学③シュワの墓所編でした!

(歌舞伎、観に行きたいですねえ~!)

ホント、長々と失礼いたしました!

お付き合いを頂きまして、誠にありがとうございました!!