ナウシカさん曰く!「のたうちまわって生きろ!血を吐いてでも絶望を越えて飛べ!」【ナウシカ学②-2】
みなさん~ こんにちは~
国分坂です~
今回は、前回の【ナウシカ学②】の続きで~す。
前回「腐海」と「王蟲」を考察しましたが、いやはや難しい・・
難題が解けず、私の脳髄は、闇の中に瞬く豆電球のようにチカチカしてます・・
前回のはこれですね・・↓
難問にぶち当たり、脳髄が酸欠でぱくぱくしてます。
・・・で、こういうときは、あれですよ! 頭の気分転換にですね、もう、ぱーっと自由気ままにやりたいことをやりたいように、やっちゃうことです!
自由な着想で、自由な意見を、畏れず構わず述べちゃうわけです!
どうか、ご容赦ください!
誤りに気づいたら、その都度戻ってきて修正するということで!それが、私なりの「学問」というものだと思っております!
(誤りを「隠ぺい」するなどいうことは、学究の徒としてあり得ない行為ですが、でも、そうしたくなっちゃう雰囲気が学術界にあるのなら、その体質にこそ問題があるのだと思うんですね。どしどし珍説を出し、がしがし誤りを訂正して練り上げていった方が、学術界が活性化すると思うんですよねえ・・・いや、ごめんなさい。生意気いいました~)
というわけで、今回は、「題名」が暗示するとおり、ぶっ飛び企画ですよ~!
国分坂流の「トンデモ説」を展開しちゃいたいと思います!!
もしもお付き合いを頂けます際には、「眉に唾して」お読みください~!
お約束
まずは、毎度ながらの「お約束」です。【ナウシカ学】を進めていく上での、私なりのルール(お約束)は下記3点です。宜しくお願い致します。
1.テキストは徳間書店『風の谷のナウシカ』(全7巻)を使用する。
2.先行研究文献は、基本的には目を通さない。上記1のみを使用し、独自の考え方を、まずは展開する。
3.皆様のご意見・ご感想を頂きながら、学問体系まで昇華させることを目指す。
トンデモ説「危機に瀕した生命の体験が、内なる宇宙を通じ、生命の進化を促進する!」
さて、前回に引き続きよくわからない主要な論点が、次のものです。
・「内なる宇宙」とは、一体なんなのか?本当に、あるのか?
・生命は、本当に「ひとつ」に繋がっているのか?
これらの問題に関しては、やはり前回の【ナウシカ学②】でも取り上げたナウシカが森の人セルムに対して話す下記のセリフ(第7巻目133頁)が、とても重要だと思うのです。
「たとえ、どんなきっかけで生まれようと、生命(いのち)は同じです」
「精神の偉大さは、苦悩の深さによって決まるんです」
「生命は、どんなに小さくとも、外なる宇宙を内なる宇宙に持つのです」
私はこれらセリフに、つぎのような意味合いを汲み取りました。
①偉大な精神を持つ生命体は、より豊かな内なる宇宙を持つ。
②全ての生命は、内なる宇宙で繋がっている。
③偉大な精神を持つ生命体は、内なる宇宙を通じ、より大きな影響を他の生命に与える。
④個々の生命の体験は、内なる宇宙を通じ「びとつの聖なる生命体」に蓄えられ、生命の「進化」を促す原動力となる。
①から⑤まで、順にご説明しますね。
偉大な精神を持つ生命体は、豊かな内なる宇宙を持つ
まずは①です。
「偉大な精神を持つ生命体は、より豊かな内なる宇宙を持つ」ですが、これはナウシカのセリフ 「精神の偉大さは、苦悩の深さによって決まるんです」に、まず引っ掛かりを覚えたんです。
精神の偉大さ。そもそも「精神」って、なんでしょう?
ちょっと『大辞林』を引いてみましょうか。
精神:人間の心/心のはたらき/物事に対する心の持ち方/物事の最も根本的な意義/(物質・肉体に対する)心、意識、霊魂/心の本質。
うーん。わかったような、わからないような。
では次に、白川静の『字通』をみてみましょう。
精神:天地の精気。人の心神。
おお!相変わらず凄い!端的に本質を、ずばり衝いてきますね!
「天地の精気」。これってまさに「外的宇宙」を示しているように見えます。
つまり、「精神=心」は「心=天地の精気」であり、「心=外的宇宙」ということではないでしょうか!
この考えを基にして、ナウシカのセリフをいじってみましょう。
「精神の偉大さは、苦悩の深さによって決まるんです」
↓
「心(に宿る外的宇宙)の偉大さは、苦悩の深さによって決まるんです」
つまり、「深く苦悩した生命体は、偉大な精神(外的宇宙)を持つ」のであり、言い換えれば、「(深く苦悩したことで)偉大な精神を持つ生命体は、偉大な外的宇宙を心に宿す」というわけです。
「外宇宙を心に宿す」とは「内なる宇宙を持つ」と同じ意味ですね。
よって、「偉大な精神を持つ生命体は、より豊かな(偉大な)内なる宇宙を持つ」ということが出来ます。
このことは『風の谷のナウシカ』の作中からも読み取ることが出来ます。
「偉大な精神を持つ生命体」といえば、「王蟲」や主人公のナウシカが筆頭にあがると思いますが、そのナウシカの内なる宇宙(=心)が豊かで奥深いことが、第6巻84頁で示されます。
同じく第6巻74頁で森の人セルムがナウシカの前に現れ、目の前に広がる森が、ナウシカの心の中の森であると伝えます。セルムの案内で、美しい森を進むナウシカ。84頁で、セルムはナウシカに「あなたの森は奥深い。こんなに豊かな旅ははじめてです」と称賛するのです。
「偉大な精神を持つ生命体」(=ナウシカ)は、「より豊かな内なる宇宙」(心の中に広がる森)を持つ、ということが示されているのです。
全ての生命は、内なる宇宙で繋がっている
では次に、②「全ての生命は、内なる宇宙で繋がっている」についてです。
これは、先程みた第6巻74頁で、ナウシカの内なる宇宙において、ナウシカとセルムとが出会っていることがヒントになりそうです。
第6巻63頁、セルムは瞑想し、ナウシカに呼びかけます。これは、セルムが自身の内なる宇宙に降りていき、ナウシカの内なる宇宙を訪れようとしていることを示しているのではないでしょうか。
セルムも、ナウシカに勝るとも劣らぬ「偉大な精神を持つ生命体」でしょう。ふたりはともに「豊かな内なる宇宙を持つ存在」といえます。
彼らは、その内なる宇宙が豊かであるがゆえに、互いの内なる宇宙が繋がっていることを、明確に認識し得たのではないでしょうか。(豊かであるがゆえに、内なる宇宙が色濃く鮮明であり、認識しやすい状態になっていた、ということなのかもしれません。)その結果として、ふたりは内なる宇宙において、出会うことができたのではないでしょうか。
また、作中にたびたび現れる「念話」にも、ヒントがあるのでは?と考えました。
「念話」の存在は第4巻129頁で、チヤルカがチククに「わしは僧兵あがりで念話の技も才能もないんだぞ」と語る場面であらわれます。
チヤルカは「念話」を「技」であると言いますが、どうなのでしょうか。
すぐ次のページの130頁で、「念話」の技も才能もないはずのチヤルカに対し、ナウシカは「念話」で語りかけています。もしも「念話」が単なる技であれば、それを習得出来ていないチヤルカはナウシカと「念話」ができないはずです。つまり130頁の事象は、「念話」が単なる技でないことを示しているのではないでしょうか?
「念話」的なものが登場するのは、第1巻13頁、14頁、32頁、33頁、44頁の王蟲の心をナウシカが読み取るもの、第1巻106~107頁のナウシカの声と姿をアスベルが視るもの、第1巻127頁の王蟲の声をアスベルが聞くもの、第2巻15頁、27~29頁、33頁のマニ族の僧正とナウシカの対話、第2巻133頁、第4巻107~109頁の皇弟ミラルパとの対話、第4巻87~92頁のナウシカとオアシスの僧との対話、第6巻124~127頁のチククを通じてのチヤルカとナウシカのテレパシー的面会などがあります。
これらに共通するのは、当事者の一方もしくは双方が、偉大な精神を持つ者であるという点です。
王蟲、ナウシカ、(アスベルはどうでしょう?)、マニ族の僧正、オアシスの僧、チクク、それとミラルパです。ミラルパは第6巻153頁で皇兄ナムリスが言うよう、若い頃は本物の慈悲深い名君だったようです。
またチククは第7巻33頁で、ナウシカに巨神兵のように偉大な力がある(しかし暴走しかねない不安定さを兼ね備えた)存在と認められています。
ではなぜ、偉大な精神力を有する者は「念話」が可能なのか?
これは、第6巻63頁以降の、ナウシカの内なる宇宙で人々が出逢うことにヒントがあるように思います。ナウシカの内なる宇宙に出てくるのは、セルムに加え、ミラルパ、チクク、セルム、王蟲です。
彼らはみな偉大な精神を有し、念話が可能な者たちです。
つまり、彼らはセルム同様、豊かな内なる宇宙を持つ者です。豊かであるゆえにその内なる宇宙を自ら認識し得え、その内なる宇宙がナウシカの内なる宇宙とも繋がっていることを認識し得たため、彼らはナウシカと出会うことが出来たのではないでしょうか?
そして「念話」とは、内なる宇宙が接合していることを意識的に、もしくは無意識的に認識することで可能となるものなのではないでしょうか?
その認識が浅い状態では感情や声が聞こえる程度、深い認識に至ると対話、イメージ映像の交換、そして対面すら可能になる、というものなのかもしれません。
(ナウシカとセルムとは、もう「念話」というより「幽体離脱的対面」が常態化している感じですね。驚異的な精神力を持つ二人だと、こんな具合になるのでしょうか。)
では、「偉大な精神を有する者」同士だけが、「念話」を可能とするのでしょうか?
おそらく違います。
第5巻74頁、130頁、第6巻135~138頁などで、チククを通じてナウシカが民衆に対し、テレパシー的演説を行うシーンが出てきます。
平凡な精神で、さほど豊かともいえない内なる宇宙しか持たない人々は、自らの内なる宇宙を認識し得ず、内なる宇宙が他者と繋がっていることを認識しにくい状況にあるのだと思われます。
しかし、チククやナウシカのような偉大な精神を有する者が働きかけることで、平凡な内なる宇宙の保持者たちも、その繋がりが認識できたのでしょう。
「非常に性能の悪いトランシーバーを持つ者が、受信も発信もうまくできないトランシーバーであるためにやがてその存在を忘れてしまうが、ある日、非常に強い電波が飛んできたために受信に成功し、自らがトランシーバーを持っていたことに気づいた」、例えるならそんな感じでしょうか。
また、ナウシカの内なる宇宙に登場するのは、前述の「人間」たちだけではなく、テトとクイといった「動物」も登場します。
テトはナウシカと常に共にあり、もしかしたらナウシカ以上に、身体的過酷な状況に耐えて乗り越えてきた動物です。
またクイは、テト同様にナウシカと共にあったカイを伴侶に持ち、カイが死んだ際にそれを引き受けるように卵を産み、かつ、その後もミト達と共に、過酷な旅を続けてきた動物です。
つまり、テトとクイは動物とはいえ、幾多の困難を乗り越え、深い苦悩を味わってきた存在、といえるのではないでしょうか?
そう、テトとクイも、やはり偉大な精神を有し、豊かな内なる宇宙を持つ生命体なのではないでしょうか。
テトやクイがナウシカの内なる宇宙に登場することは、人間に限定されることなく、「全ての」生命が内なる宇宙で繋がっていること、を示唆しているように、私には思えたのです。
よって以上を綜合して、「全ての生命は、内なる宇宙で繋がっている」と読み解きました。如何でしょうか?
偉大な精神を持つ生命体は、内なる宇宙を通じ、大きな影響を与える
では、次に進みますね。
③「偉大な精神を持つ生命体は、内なる宇宙を通じ、より大きな影響を他の生命に与える」についてです。
これはですね、第7巻218~219頁、クシャナがナウシカの生存を直感的に知るシーンに象徴されているように思います。
「墓所」がドロドロと音を立てて崩れていく中、クシャナは「ナウシカだ 生きている!」と叫びます。隣にいるチヤルカは「な なぜ判るのだ?わしには見えぬぞ」といいますが、クシャナは「間違えない。感じるのだ」と言い切ります。
クシャナは本来、偉大な精神を有しながらも、憎しみにまみれ、修羅の道に堕ちてしまった人物です。そのことは7巻目84頁のチククがクシャナと語らうシーンに垣間見ることができます。
チククはクシャナに言います。
「クシャナのこともナウシカが教えてくれた。クシャナは深く傷ついた鳥だといった。本当は、心の広い大きな翼をもつ、やさしい鳥だって」
なお「鳥」は『風の谷のナウシカ』において、象徴的な存在として描かれます。
第6巻89頁、腐海の尽きる所、浄化された世界においてナウシカが見つけた旧世界の動物が「鳥」です。
また第7巻198頁で、ナウシカが「墓所」の主に言い放つ、非常に象徴的なセリフがあります。
「その朝が来るなら、私達はその朝にむかって生きよう。私達は、血を吐きつつ、くり返し、くり返し、その朝をこえてとぶ鳥だ!」
ナウシカがクシャナを「広い大きな翼をもつ、やさしい鳥」と称したのは、まさにクシャナが、深い苦悩を乗り越え生きていける「偉大な精神」を有する存在であることを言っているのでしょう。
また、ナウシカが「クシャナは深く傷ついた鳥だ」というのは、憎悪という傷で自らを見失い、豊かな内なる宇宙に気が付けない状態にあることを示唆しているのだと思います。
しかし、クシャナはナウシカに接していく中で、変わっていきます。
またユパという偉大な精神を有する者が、身を挺して人々の怒りを鎮める姿を目の当たりにしたことで、クシャナはその内面を大きく変容させます(第7巻79~84頁)。
ユパは自ら生贄となるべく身を捧げ、また同じく自ら身をささげたマニ族の僧正をも、人々の前に発現させました。マニ族の僧正は、ユパの内なる宇宙を通じて、人々の前に現れたのでしょうか。
そのユパとマニ族の僧侶の姿が、クシャナの心を大きく揺すぶるのです。
それにより、クシャナの心に渦巻いていた憎悪は悲しみに形を変え、恐怖は去り、彼女の心は、ありのままの世界を受容していけるようになったのでしょう。
そして、ナウシカの言動も、素直に受け入れることが可能になります。これを示すのが第7巻222頁の「私は王にはならぬ。すでに新しい王を持っている」というクシャナの言葉でしょう。「新しい王」とは、ナウシカのことを指すのだと思われます。
傷を癒したクシャナは、一気に偉大なる精神力を発揮し、内なる宇宙によるナウシカとの接合を認識するのです。
それが、前述の第7巻218~219頁、クシャナがナウシカの生存を直感的に知るシーンです。
つまり、偉大な精神を有するナウシカとユパ(及びマニ族の僧正?)は、内なる宇宙を通じてクシャナを覚醒させ、彼女の内なる宇宙を開花させた、ということなのではないでしょうか。
このことから、「偉大な精神を持つ生命体は、内なる宇宙を通じ、より大きな影響を他の生命に与える」という考えを私は得ました。
個々の生命の体験は、内なる宇宙を通じ、生命の進化を促進する
最後が④「個々の生命の体験は、内なる宇宙を通じ「びとつの聖なる生命体」に蓄えられ、生命の「進化」を促す原動力となる」です。
ここから私のトンデモ説は飛躍していきますよ!
前述の、クシャナがナウシカやユパの影響を受け、内なる宇宙を開花させた結果、ナウシカの生存を知覚できたという場面も、生命の「進化」を垣間見る一例なのかもしれません。これはクシャナに「念話」の力を芽生えさせた、ということを示し、人間の進化の方向を示す事象を表している、とみることもできるわけです。
ただ、「個々の生命の体験は、内なる宇宙を通じ「びとつの聖なる生命体」に蓄えられ、生命の「進化」を促す原動力となる」という仮説を説明するには、一旦この物語から離れて、他の事例から説明した方が分かりやすいかもしれません。
ここであげる他の事例とは、「生物の進化の場面」のことです。
生物は、様々な進化を遂げてきましたが、その進化の場面は、どれもが困難への挑戦、危機を脱するための果敢なチャレンジ、といえるようなものだったと思われます。
たとえば、古代の魚が「肺」を獲得し、やがて陸上動物の祖先となった事例などもそうでしょう。
海の捕食者から逃れるために、古代の魚は河に進出しました。(実は、河に進出するためにも、多くの進化を要したのですが、ここでは省略します。)
河は海と異なり、乾季になると水不足が原因で泥水化し、水中における鰓呼吸が困難になり得ます。この現象により、多くの魚が死滅したのですが、そのうち「肺」を獲得した魚が登場し始めたのです。いわゆる「肺魚」ですね。肺を持つ魚は肺呼吸により、直接空気中の酸素を取り入れることができるようになったのです。
さて、この「肺を獲得した魚が登場し始めた」ということを、よくよくじっくりと考えてみると、奇妙なことに気が付きました。
ちょっと、具体例を挙げて考えてみましょう。
河には岸に近い浅瀬の部分と、岸から遠く離れた水深のある部分とがあります。
浅瀬の部分をA地帯、水深のある部分をB地帯、としましょう。
A地帯に棲息する魚たちをA群と呼び、B地帯に棲息する魚たちをB群と呼びます。
乾季になり、全く雨が降らない異常気象が発生しました。A地帯は泥水となり、更には干上がっていきます。A群の魚たちは、鰓呼吸が出来ず、のたうちまわります。
一方、B地帯では、水位が下がったものの、特に影響はありません。
(なお、A地帯は干ばつの影響などでB地帯から隔離された状態にあります。A地帯からB地帯に避難できてしまうと、A地帯は事実上B地帯と同じ環境、ということになってしまいますから。)
さて、この際、「進化」はA群とB群、どちらで起こるのでしょうか?
B群では、特段「進化」の必要となる環境変化は起こっていませんよね。安泰なる状況です。「進化」が起こるきっかけがありません。(なお、A地帯からB地帯へと避難できる環境であれば、やはりほぼ安泰な状況といえ、「進化」が起こるきっかけがあるとはいえないでしょう。)
では、A群で「進化」が起こったのでしょうか?
A地帯は泥水化と干ばつで、鰓呼吸ができません。「みるみる間」に、魚たちは酸素不足で死んでいく状況です。
ところで鰓呼吸をする魚が「肺」を獲得するのに、どれだけの時間を要するのでしょうか?一代や二代の世代交代で、全く機構が違う「肺」を獲得できたとは思えませんよね。長い年月が必要になるはずです。
しかし、危機的状況にあるA群の魚には、そんな時間的猶予はないのです。死滅の瀬戸際にありながらも、もしかしたら卵を産み育てたものもあったでしょう。でも、よくて二代目?三代目?でも、そんな短期間では、とても「肺」を獲得する「進化」は望めません。
時間的余裕があるのは、B地点にいるB群の魚たちです。彼らであれば、何千年、何万年と時間をかけて、進化していけるかもしれません。しかし、B群の魚たちは、「進化」が起こるための切っ掛けとしての「危機的経験」をしえないのです。鰓呼吸でなんらの不自由もなく生きているのに、どうして「肺」を必要としますでしょうか?
つまり、A群には「進化」のための切っ掛けとしての「危機的経験」はあっても、「進化」に必要となる時間がありません。
一方、B群には「進化」に必要となる時間はあっても、「進化」のための切っ掛けとなる「危機的経験」がないのです。
このままでは、A群もB群も、「進化」できないではないですか。
そこで思いついたのが「内なる宇宙」なんです。これがあると助かるんですね。
A群の魚たちの「危機的経験」が彼らの内なる宇宙を通じて「ひとつの聖なる生命体」に蓄積され、それが内なる宇宙を通じてB群の魚たちに伝わり、B群の魚たちを「進化」させていった、という仮説です。
そう、「個々の生命の体験は、内なる宇宙を通じ「びとつの聖なる生命体」に蓄えられ、生命の「進化」を促す原動力となる」という仮説を用いてみると、具体的な進化の場面を無理なく説明できるのでは?と思い至ったのです。
ところで、生命の「大量絶滅」というものがありますね。地球上で、過去に5回、あったそうですよ。
「大量絶滅」のあと、生命は急激な進化をするんですね。これは、それまで支配的地位にいた生物が絶滅することで、他の生物がその地位を埋めるべく進化し多様化していく、という説明がなされるのですが・・いや、その説明はいいのですが、「大量絶滅」後の生命の爆発的な進化って、私、「もの凄いもの」を感じるんですよね。「席が空いたから埋まる」ということ以上に、「大量絶滅そのもの」が「進化のエネルギー」になっているような。
つまりですね、「大量絶滅」していった生命体の「死に瀕しての究極的な体験」が、「生命の進化を促す原動力となった」と考えると、「大量絶滅」後の爆発的な進化について、感覚的に納得できる、という気がしたんですね。
このような考え方を着想させたシーンが、『風の谷のナウシカ』第7巻171~173頁にあるのです。ナウシカが蟲使いたちに、腐海の役割を語るシーンです。
「世界はよみがえろうとしていました。たとえ、私達の肉体がその清浄さに耐えられなくても」
「次の瞬間に、肺から血を噴き出しても、鳥達が渡っていくように、私達はくり返し生きるのだと・・」
「腐海の胞子は、たったひとつの発芽のために、くり返し、くり返し降りつもり、無駄な死を重ねます」
「私の生は、10人の兄と姉の死によって、支えられました」
「先を急いで、沢山の死者を後に残して来た」
「どうかみんな・・死者へのいたわりをわすれないで・・」
危機に瀕した生命体が、その危機を乗り越えようとして死んでいく。その重ねられた死が、今の生命たちを支えている。我々はそのことを自覚し、過去の生命たちの死に感謝と労りの念を持つべきではないのか、といったことをいっていますね。
そして、第7巻目198頁の、ナウシカが「墓所」の主に語るシーンです。
「その朝が来るなら、私達はその朝にむかって生きよう」
「私達は、血を吐きつつ、くり返しくり返し、その朝をこえてとぶ鳥だ!」
「生きることは変わることだ。王蟲も粘菌も、草木も人間も変わっていくだろう。腐海も共に生きるだろう」
危機に瀕しながらも、その危機を乗り越えようともがくことで、生命は変化(進化)していくのだ、という語らいです。
そして同じく第7巻目198頁の「だがお前は変われない。組み込まれた予定があるだけだ。死を否定しているから」というナウシカのセリフは、「死」をむしろ肯定的に捉えているセリフだといえます。
死に至る危機的体験が、生命を変えていく、生命を進化させる、ということを述べているのだと思うわけです。
これらのシーンから、私は「個々の生命の体験は、内なる宇宙を通じ「ひとつの聖なる生命体」に蓄えられ、生命の「進化」を促す原動力となる」という仮説を得るに至ったのでした。
はい!トンデモ説はここまで!!
いやあ~、自由に発想し、妄想的思考をどこまでも飛翔させることの楽しさといったらありませんねえ。お陰で、疲弊しきっていた脳髄がよみがえりましたよ!
「危機に瀕した生命の体験が、内なる宇宙を通じ、生命の進化を促進する」という私のトンデモ説、ちゃんと「進化」というものを勉強してから、改めて考えてみたいと思います。
これに関しては、まだ読んでいないのですが、以下、気になる書物を発見しました。
『胎児期に刻まれた進化の痕跡』
ーあなたにも魚のような胎児期があったー
『クジラの鼻から進化を覗く』
ーわずか1000万年程度の短期間で、これほどまで劇的に姿を変えた生物はめったにいない―
これらの本を読み「進化」というものを学んでから、もう一度、我がトンデモ説「危機に瀕した生命の体験が、内なる宇宙を通じ、生命の進化を促進する」を、じっくりと料理してみたいと思います。いつになるか分かりませんが、乞うご期待!
というわけで、以上、ナウシカさん曰く!「のたうちまわって生きろ!血を吐いてでも絶望を越えて飛べ!」でした!
突拍子もない文章に最後までお付き合いを頂きまして、誠にありがとうございました!