国分坂ブログ

「歩くこと」「考えること」が好きな、国分坂です!

「神」とは、なにか?「巨神兵」を問う。【ナウシカ学①-2】

みなさん、こんにちは!国分坂です。

前回、【ナウシカ学】第一弾を発表させて頂きました。

お付き合いを頂きました皆様、本当に感謝感謝です!

 

  ↓ 前回の【ナウシカ学①】はこちらです~!

www.kokubunzaka.com

 

今回は、前回の【ナウシカ学①】で頂きました「ご意見」を基に、考察を進めていきたいと考えております!

 

 

 

 お約束

【ナウシカ学】を進めていく上での、私なりのルール(お約束)は下記3点です。

宜しくお願い致します!

 

1.テキストは徳間書店『風の谷のナウシカ』(全7巻)を使用する。

2.先行研究文献は、基本的には目を通さない。上記1のみを使用し、独自の考え方を、まずは展開する。

3.皆様のご意見・ご感想を頂きながら、学問体系まで昇華させることを目指す。

 

お寄せ頂きましたご意見!

前記「お約束」の中で述べさせて頂いておりますが、私の考察から「学問」まで昇華させるために、是非是非、皆様のご意見等々を頂きたいです~!なんて、不躾なお願いをしておるのですが・・なんと!

早速、ご意見を頂くことができました!!

もう、嬉しくて倒れそうです!!

「苔とメダカ」様!! 本当に、本当にありがとうございました!!

 

というわけで、今回は「苔とメダカ」様のご意見を基に、考察を進めていきたいと思います!

(「苔とメダカ」様のブログ、ご存じの方も多いかと思いますが、とっても素敵なんですよね!そう、まるで「ナウシカの秘密の地下室」みたいに、美しくて神秘的なのです。もしもまだ訪れたことがないという方、是非とも訪れてみることをお薦めしたいです!)

 

さて、「苔とメダカ」様より頂きましたご意見を私なりに要約させて頂きますと、下記のような感じでしょうか。(「苔とメダカ」様、もしも私の解釈が間違っていたらすみません!是非、ご指摘いただければ嬉しい限りです!)

 

【ご意見】

もしも「神」を作る、ということになった場合、「宗教的な発想」を有していることと、とてつもない「権力と資力」とを有していることが、必要になると思われる。しかし、「宗教的な発想」を有し「権力と資力」とを有する者は、はたして、「神」を作ろうとするのだろうか?

 

「苔とメダカ」様の鋭いご指摘は、二つの視点を私に与えてくれました。

その一。「神」を作ることができる者とは、どのような者か?

その二。権力者は、「神」を作ろうとするのか?

一つずつ、考えてみましょう。

 

「神」を作ることができる者とは、どのような者か?

「神」を作るには、精神的な問題と、実務的な問題とを、クリアーしなければならないのだと思います。

 

精神的な問題とは、倫理的・宗教的な問題、と言い換えることができます。

端的にいってしまうと、「宗教家は、神を作ることができるのか?」という問いです。

 

この点に関しましては、実のところ、私は「宗教」というものを、外形的にしか捉えられておりません。学問としての「宗教」は、歴史学や民俗学でほんの少し齧ったことがあるものの、「宗教」の本質は、おそらく理解できていないのだと思います。

よって、この「宗教家は、神を作ることができるのか?」という問いに対し、私は正しい答えを導くことが出来ないのかもしれません。

ただ、なんとなくですが、「宗教家は、神を求めても、神をつくりはしない」のではないのかなあ、と思ったりしています。

そしてむしろ「無神論者であれば、神を「道具」として作ってしまうのではないか」、と考えました。

自分が求め崇拝するモノを、自分で作ってしまう、というのは、どうでしょう?信仰の形としては、ちょっと違うような気がするのですが。

よって、「宗教家は、神をつくりはしない」であろうと、思ったわけです。

(もっとも私などは、「自分が求め崇拝するモノを、自分でつくってしまうというのも、ありなのでは?」と思ってしまいました。私は自分が無神論者なのか、無関神論者なのかも分かっていないのですが・・でも、私、神社仏閣は好きなんですね。)

 

ただ、実際のところキリスト教圏でも「AI」の研究や開発が進められていることを鑑みれば、抑制・抑圧はあったとしても、「神を信じているから神を作ることができない」とは、一概には言えないのかもしれませんね。

 

「精神的な問題」についてはこの程度にしておき、次に「実務的問題」を考えてみたいと思います。

「実務的問題」とは、実際問題として「神」を作ることができるか、という問題です。

「技術」や「資金」や「政治」の問題です。

天才的な科学者がいたとしても、資金がなければ大掛かりな研究はできません。また、社会に与える影響が大きい研究であれば、社会的な承認を必要とするでしょう。社会的な承認を得るためには、国家などの権力基盤のバックアップが必要です。

つまり、「神」を作ろうとした場合、実務的な問題として、技術力・資金力・政治力の三つが、三位一体的に揃っている必要があるわけです。

技術を有し、資力を有し、政治力を有する者たちが、揃って「神」を作ろうとしなければ、「神」を作ることは、実際のところ難しいであろうと思われるのです。

 

権力者は、「神」を作ろうとするのか?

さて、ここで考える必要があるのは、次のお題である「権力者は神を作ろうとするのか?」です。

というのは、前述の「技術を有し、資力を有し、政治力を有する者」のうち、「資力を有する者」と「政治力を有する者」は、いわゆる「権力者」といわれる者たちだからです。

「権力者」は、果たして「神」を作ることを、望むのでしょうか?

 

一般論として、権力者は権力を失うことを恐れます。権力を弱められること、権力に制限を付されることを嫌がります。権力者は、その権力を保持し、その地位に留まることを望むのです。

ところが「神」は、人間よりも強く優れた存在です。権力者であっても人間である以上、「神」が現れたら、そのしもべにならざるを得ません。

だとすると権力者は、自分より力を持つ「神」が作り出されることを望むでしょうか?

「神」が作り出されることで、相対的に自分の力が弱まってしまうのです。下手をしたら、自分は無力になるかもしれません。

権力者は基本的に、力が弱まること、力を失うことを望みません。

そう考えると、権力者は「神」を作ることを求めず、それどころか「神」を作ることを阻止するのではないでしょうか?

(そしてむしろ、権力者は自らが「神」になることを、望むのではないでしょうか?)

 

そのように考えると、先程の「実務的問題」、技術を有し、資力を有し、政治力を有する者たちが、三位一体的に揃って「神」を作ろうとしなければならないという点が、クリアーできないことになってしまいます。

技術を有する者はともかくとして、資力を有する者、政治力を有する者は、「神」を作ることに反対し、むしろ阻止すると思われるからです。

だとしたら、実際問題として「神」を作ることは無理なのではないか、ということになってしまいます。

 

そのように考えてみた場合、二つの仮説が浮かんできました。

 

「技術者が権力者をだました説」

「後天性説」

 

一つ目の説は、志をもった技術者たちが権力者をだまして、神を作り出した、という仮説です。うまくだまして、技術力・資力・政治力を収斂し、神を作り出した、という説です。

二つ目の説は、作った時点では神ではなかったが、作られた後、後天的に神になった、という説です。

ひとつずつ考えてみましょう。

 

「技術者が権力者をだました説」

これは胸が熱くなる仮説ですよ~!

世界を救おうと志を持った技術者たちが集まり、権力者を出し抜いて、まんまと神をつくり上げた、という説です。

権力者によるオーダーは、単なる生物兵器だったのでしょうかね?しかし、技術者らは、まんまとその裏をかき、人工生物に優れた知能と人格を与えることに成功するのです。迫りくる大戦争を前に、科学者たちは世界を滅ぼす悪魔的人工兵器ではなく、世界を救う神をつくることに成功するのです。ところが世界は・・・という、「巨神兵誕生秘話」があったのでは?という仮説ですヨ。

物語としてはとても面白そうなのですが、しかし、1体であればまだしも、数十体、数百体という大がかりな製造であったことを思うと、ちょっと無理がありそうですよね。

権謀術策に長けた資本家や政治家、官僚達を、世に疎い科学者たちが出し抜くなんて、それ自体がかなりのファンタジーですからね。

個人的にはイチオシの説なのですが、実際にはちょっと無理かもしれません。

 

 「後天性説」

次に考えられるのが、神として作られたわけではないが、作られた後に、神としての属性を手に入れた、という説です。

当初は兵器もしくは調停者・裁定者として作られましたが、独自に進化し、製造者の思惑を越えて神になってしまった、というわけです。

 

と、記しながら、私は気づきました。「裁定者」?

権力者は「神」をつくることを厭うように、「裁定者」をつくることも拒絶するのではないのか?自分を超越する力を有し、自分すらを裁き得る「裁定者」を、権力者は求めるのだろうか?

そうかあ、「神」を求めないことと同様に、「裁定者」も求めませんよね、権力者は。

 

なら「調停者」は?というと、前回の【ナウシカ学1】で考察したように、「兵器」でもなく「裁定者」でもなく、「調停者」として巨神兵を作ったのであれば、巨神兵に「武装」は不要なはずなのです。

「武装」がある以上は「調停」のためのみに巨神兵がつくられたとは考えにくい、ということになるのです。

つまり、「裁定者」は権力者が求めない、「調停者」であれば形状に矛盾がある、ということになってしまいます。そうすると消去法的にいって、巨神兵は「武器」としてつくられたはずだ、ということになってしまいます。

でも、「武器」としてつくられたのであれば、作中でナウシカが考えているように、知能や人格は却って不要なはずです。

与えられた命令を理解し、状況を分析し、最速、かつ最も効率的、効果的に行動ができれば、それでいいのですから。

 

だとしたら、もともと巨神兵には情報収集能力と、情報分析能力、情報集積能力のみが与えられていたに過ぎなかった、ということになるのかもしれません。

生物「兵器」として、最低限必要となる能力です。

しかし、巨神兵の人工知能はそこから独自に進化し、知能と人格を自ら獲得してしまった、ということになるのでしょうか。

 

人間は巨神兵をあくまでも「兵器」として造った。

しかし、巨神兵は自ら独自に進化し、知能と人格を有するに至った。

人間を超越する知能を得た巨神兵は、人間の命令を分析し、兵器としての行動ではなく、人間同士を調停することこそが最適解である、と分析した。

しかし、人間同士を調停することは叶わなかった。

そのため巨神兵は調停ではなく裁定を行うことが必要である、という理解に達した。

そして、結局のところ、火の7日間を巻き起こしてしまった。

巨神兵を造った者達以外の人間は、巨神兵の姿や振る舞いをみて、当初から「兵器」というより「調停者」もしくは「神」として畏怖していた。

その畏怖が後世に伝わり、「巨神兵という調停を行う神がつくられた」といわれるようになった。

そういうことなのでしょうか?

 

もしもそうであるとしたら、「巨神兵は兵器としてつくられたが、やがて神になった」ということになりますね。

前回、「暴走する人々の自我と多様化しすぎた価値観のなか、人々は自ら他者との関係調整することを諦めて、人工知能を有する調停者をつくりだしたのでは?」と考えましたが、今回出てきた仮説は、この考えを否定することになります。

 つまり、悪化する環境、多様化しすぎた価値観、暴走する自我のなかでも、人々は自分と相違する者を死滅させるための「兵器」しか造れなかったのだ、ということになってしまいそうです。

・・ますます暗い未来観になってしまいました。

どうしましょうか。困りましたね。

 

もしくは「権力者が神をつくった説」

しかし、このような仮説が出てきてしまった根幹には、私の「権力者」に対する偏見があったのかもしれません。

「権力者」は、「神」や「裁定者」を求めないであろう、という偏見が。

ちょっと反省してみますね。

本当のことをいえば、私は「権力者」に期待したいのです。

「富」も「名声」も「日々の安定」も得たならば、最後に最も得たいのは「人生の意味」ではないでしょうか?

「人々を救う」、「人々のために生きる」、といったことに勝る「人生の意味」って、なかなかないと思うのですが、どうなのでしょうか?

 

 ますます悪化する環境、絶望と憎悪が渦巻く世界、ひとびとは自我に振り回されてどうすることもできない、そんな状況。もしも政治力を有し財力と技術力を有していたら、「神」を創って世界を救いたい、と純粋に思うのではないでしょうか・・?

 

宗教を持たない私が「宗教家は神をつくれるか?」という問いに答えることができないのと同じく、権力というものにまるで縁のない私には、「権力者は神をつくろうとするのか?」という問いに、答えをみつけることができないでいます。

果たして、どうなのでしょうか?

 

ただ、ひとついえることは、「兵器が想定外に神になった」としても、「権力者達が神をつくった」のだとしても、「その神は火の7日間を引き起こした」ということです。

結局のところ、「神」であっても人間から「欲望と憎悪」を拭い去ることは出来ず、世界を燃やし尽くすしかなかった、ということでしょうか。

 

 

「神」とはなにか?

ここまで書いてみて、私は新たな疑問を見つけました。

そもそも、「神」とは、なんであろう?

 

私は自分の中の「神」の定義が、非常に曖昧であることに気づきました。

「神」を形容詞的にすら使っていることに、気がついたのです。

今一度、「神」とはなにか?と自ら問いてみたところ、たとえば生命の起源や宇宙の成り立ち、時間や空間など、自分には「到底理解が及びそうにないもの」を、適宜「神」と言い換えている、ということに気が付きました。井上円了のいうところの「真怪」と同義でしょうかね。

ですから、私の定義でいえば、巨神兵そのものは「神」ではない、という理解になります。(むしろ、人間を超越する存在としての「神的な」存在であり、「神」を形容詞的に使っているに過ぎません。)

 

私の定義と理解では、巨神兵は「神」ではなく「神的存在」ということになってしまいましたが、では『風の谷のナウシカ』では、「神」をどのように定義しているのでしょう。確認してみます。

 

まず1巻目の92ページ目と6巻目の103ページ目で、トルメキア王国の神官が説く「神」が描かれます。腐海や大地が毒にまみれるのは、神が与えた業苦である、と、トルメキアの神官は説きます。

続いて4巻目の90ページ目と5巻目の74ページ目に、土鬼の地に伝わる古き「神」が僧侶や長老により語られます。大海嘯や粘菌は神が使わしたものであり、永い浄化の時がはじまるのだ、と土鬼の僧侶は語るのです。

三つ目が7巻目の200ページ目、ナウシカが「墓所」の主を「神」といいます。ナウシカは「墓所」の主を、「お前は千年の昔、沢山つくられた神の中のひとつなんだ」と断じます。

最後にやはり7巻目の208ページ目、ナウシカが自身の「神」を述べる部分です。ナウシカは「私達の神は、一枚の葉や一匹の蟲にすら宿っている」と述べます。

 

このように『風の谷のナウシカ』では、「神」という語を、多義的に用いていることがわかります。

トルメキアの神官が説く神や、土鬼の僧侶たちが語る神は、「宗教や教義における神」です。

ナウシカが「墓所」の主に向けて言った神は、「人間を超越する能力を有する者」という意味での神でしょう。

そしてナウシカが自分達の神として認める神は、「生命の神秘そのもの」という意味での神ではないでしょうか。

 

さて、巨神兵に冠された「神」は、上記のうちのどれかに該当するのでしょうか?

おそらく「墓所」の主に向けられた「神」、すなわち「人間を超越する能力を有する者」という意味での神に該当するでしょう。

そして、ナウシカが言う「千年の昔、沢山つくられた神」のなかに、巨神兵が含まれているのだと思われます。

 

ここで、面白いことに気がつきました。

トルメキアの神官が説く神と、土鬼の僧侶が語る神は、「似て非なるものとしての対比構造」になっているのです。

トルメキアの神官の神も土鬼の僧侶の神も、腐海を用いて世界を滅ぼそうとするのですが、トルメキアの神官が説く神は人間に罪を与え懺悔を求めるのに対し、土鬼の僧侶が語る神は世界を浄化し人間に畏れと憧憬を与えるのです。

この相違は、宗教・教義の違いからくるのでしょうね。

 

また、「墓所」の主に向けて使われた「神」は、「人間を超越する能力を有する者」という意味の神ですが、ナウシカが説く自分達の「神」も、これに「似て非なる対比構造」になっているのです。

ナウシカが自分達の神として認める神は、「生命の神秘そのもの」といった意味での神だと思われますが、これは「あらゆる可能性を秘めるもの」という意味でもあります。

ナウシカは「生きることは変わることだ」と述べています。

つまり「変わること」とは「今の自分を超越していくこと」という意味でもあると理解することができるのです。

 

「墓所」の主もナウシカが認める神も、「人間を超越する能力を有するもの」ですが、「墓所」の主が「変革し得ない一義的な人間の超越者」であるのに対し、ナウシカが認める神は「あらゆる変化の可能性を有する現生命体の超越者」ということになるのだと思います。

 

では巨神兵はどうなのでしょう?

「変革し得ない一義的な人間の超越者」なのか、それとも「あらゆる変化の可能性を有する現生命の超越者」なのか?

 

・・・!!なんと!

私、いま、閃いてしまいましたよ!

前回の【ナウシカ学①】で、巨神兵最大の謎は「どうして巨神兵たちは死んだのか?」ということであると書きました。

実は、ここにヒントがあるのではないでしょうか?

 

つまりですね、ナウシカは「墓所」の主を、「お前は変われない。組み込まれた予定があるだけだ。死を否定しているから」と喝破します。

だから「墓所」の主は、「変革し得ない一義的な人間の超越者」でしかないのです。

 

生命は、たくさんの生と死とを繰り返し、「世界と共に変革する可能性」を有するものなのですね。しかし、死を否定してしまったら、変化、変革はうまれない、とナウシカは説いているのです。

どれ程優れた知能を有しても、「死」という「断絶」がなければ、「自分自身を超越し得ない」、ということなのでしょうか。

 

・・そして、そのことを、巨神兵たちも悟った、のではないでしょうか?

 

巨神兵たちも、「墓所」の主のように、死を拒否することは、能力的にできたのかもしれません。

しかし、それをすることで、生命の神秘力、変化の可能性を失うことに、彼らは気がついたのかもしれません。

巨神兵は「墓所」の主とは異なり、人造物ではあっても、自分が「いきもの」であることを認識し、「生きるとはなにか」を悩み考えて、答えを出したのかもしれません。

その答えが「生命としての死」を受け入れることだったわけです。

だから、巨神兵たちは死んだ、ということなのです。

 

だとすれば、巨神兵に冠される「神」という意味は、「墓所」の主とは「似て非なるもの」だといえそうです。

ともに「人間を超越する能力を有するもの」でありながら、「墓所」の主が「変革し得ない一義的な人間の超越者」であるのに対し、巨神兵は「あらゆる変化の可能性を有する現生命の超越者」になり得たのかもしれません。

そして、巨神兵という種族は死滅しても、「大いなるひとつの生命体」に組み込まれ、新たな生命の息吹の種に成り得たのかもしれません。

(※この「大いなるひとつの生命体」については、次回「腐海と王蟲」の論考で展開していきたいと思います!)

 

まとめ

「苔とメダカ」様から頂きましたご意見のお陰で、前回の【ナウシカ学①】を、より一歩推し進めることができました。

もっとも、解けていない謎も山盛りですが、ここでちょっと、今回の論考をまとめておきたいと思います。

 

私には解けそうにない?謎が、以下の二つ。

「宗教家」は、神を作ることができるのか?

「権力者」は、神や裁定者をつくることを求めるのか?

 

仮に権力者が神を作ることを拒んだ場合、次の二説が考えられる。

「技術者が権力者をだまして神をつくった」という説。

「兵器として作られたが、後天的に神としての属性を得た」という説。

(後天性説によると、人間は絶望的状況に置かれながらも、他者を滅する「兵器」しか作れなかった、ということになる。)

 

もしくは、「権力者が純粋に世界を救おうとして神をつくった」という説。

ただし、どちらにしても、結局は「火の7日間」を迎えてしまったという結末。

(これは、何を意味するのか?)

 

次に、神とはなにか、という問題。

『風の谷のナウシカ』では、多義的に「神」という語を用いている。

宗教・教義上の神(「断罪する神」と「浄化する神」)。

「人間を超越する者」という意味での神。

「生命の神秘そのもの」という意味での神。

 

「生命の神秘そのもの」という意味には、「あらゆる変化の可能性を有する現生命体の超越者」という意味も含まれていると考えられる。

 つまり、全ての生命はその内面に「あらゆる変化の可能性を有する現生命体の超越者」としての神を有している、とナウシカは説いているものと考えらえる。

そして、「墓所」の主は「死を否定」しているために「変革し得ない一義的な人間の超越者」に成り下がっている、と考えられる。

巨神兵は、AIとして「死を否定」することもできたが、「死を得る」ことで「生命としての神秘力」、すなわち「あらゆる変化の可能性を有する現生命体の超越者」としての神性を、獲得したと推測する。

 

といった感じでしょうか?

少しあちらこちらへと取り散らかった感がありますが、更に【ナウシカ学】の論考を進めていき、閃いた際にはまた戻ってきたい、と思っております。

その点、ご容赦頂けますでしょうか?

 

 

というわけで、以上、「神」とは、なにか?「巨神兵」を問う、でした!

ここまで雑文にお付き合いを頂きまして、誠にありがとうございました!