国分坂ブログ

「歩くこと」「考えること」が好きな、国分坂です!

「強者の理論」と「AI時代」から考える、この世界のゆくえ?(「弱者の時代」)

こんにちは。国分坂です。

 

「強者の理論」

「強者の理論」という言葉を、最近よく目にする気がします。

「強者の理論」、次のような使い方がされますね。

 

「たしかに、自己の主張を明確に発言すべきなのかもしれない。しかしそれは、強者の理論である。自らの主張を発言することができない者は、どうしたらよいのか」

 

「自らの環境を見据え工夫することで、様々な働き方が可能になるという。だがそれは、強者の理論であろう。環境を工夫する術がない、そもそも環境に適用できない、そのような者を置き去りにする発想ではないだろうか」

(上記はあくまでも「例示」であり、実際の記事等を切り抜いたものではありません)

 

私は当初、この「強者の理論」というものに、正直、違和感を感じていたものです。

そもそも強者と弱者とは、相対的な観念ではないのだろうか?

視点の違いにより、その立場は換置されうるのではないのだろうか?

仮に社会的評価の問題だとした場合、評価の高低による強者や弱者が発生すること自体は、仕方がないことであろう。しかし「価値観の多様化」により評価基準や評価場面が増えれば、強者と弱者とが日常的に入れ替わり得ることになるはずだ。

そうすることで社会的均衡がとれ、「固定化された身分としての強者、弱者」の発生を回避できるのではないだろうか。

 

私は、今まで、そんなふうに考えていたのです。

しかし、どうやらそれは、誤りでした。

 

そもそも我々が生きる世界には、「多様な価値観」が実在しているでしょうか?

仮に「多様な価値観」が実在しているとしても、それにより評価基準や評価場面が増え、「強者と弱者との入れ替わり」が日常的に発生している、といえるのでしょうか?

・・いえ。「多様な価値観」が実在しているとは言い難く、「強者と弱者との入れ替わり」が日常的に発生しているとは思われません。

よって「固定化された身分としての強者と弱者」が作り出されているのが現状です。


そのような社会構造のなかで「強者の理論」を用いることはとても危険である、と私は考えました。


 

二つの主幹的な価値観 「資本主義」と「法治主義」

さて、先進国の多くでは、「資本主義」と「法治主義」、この二つの価値観で社会が構成されているように思われます。

近代社会がつくり上げてきた「資本主義」と「法治主義」。この二つは修正されながらも大筋では受け入れられ、社会を構成する基本的価値観になっている、とみることができそうです。

仮にある種の「(多様な)価値観」が主張されても、それが「資本主義」と「法治主義」を排除するような価値観であったとしたら、社会がそれを受け入れることは難しいでしょう。

「資本主義」と「法治主義」は、社会の根幹として揺らぎなく存在しているのです。

 

さて、「資本主義」は、これはもう間違えなく「強者の理論」そのものですよね。

簡単にいえば、「資本をより有する者が勝つ」というルールです。

資本の獲得方法は問われず、資本の多寡以外の社会的身分や血筋などは考慮されないということで、封建社会を打ち破る原動力となった価値観でした。

そう、「資本主義」が歴史的に果たした意義は、とても大きなものでしょう。

 

ただ、注目すべきことは、封建制度を打ち破るために台頭してきたこの考えが、未だに社会の中枢にありつづけ、近世に君臨した「王様」の代わりに、現代の「資本家」という君臨者を造り守り続けている、という点だと思います。

「頑張る者が報われる」とは「資本主義」の標語のひとつですが、これが偽りの標語であることは、周知の事実になってしまいました。

「資本をより有する者が報われる」。

そう、これこそが「資本主義」の本来の姿です。

「資本を有する者」という「強者」が支配する世界、これが「資本主義」の世界です。

「強者の理論」、そのものですね。

もっとも、資本を有しない者同士での争いの中においては、「頑張る者が報われる」のかもしれません。

しかしこれも「頑張ることができる」環境を有する者が報われるという、「強者」の理論が採用される世界ですね。

 

「強者の理論」である「資本主義」。では「法治主義」は?

いろいろと問題のある「資本主義」ではありますが、私も含め多くの人々が、この「資本主義」を消極的ながらも受け入れている、というのが現状ではないでしょうか。

その理由は、「資本主義」に代わるルールを見出すことができていない、と我々が思っているからなのでしょうか。

「文句を言っても仕方がないよね」、「頑張るしかないよね」と、諦めつつ受け入れている、それが我々にとっての資本主義なのかもしれません。

 

もっとも、近代から現代にかけて、この問題ある「資本主義」を、いろいろと修正するための政策が繰り返されてきました。

資本家の力を一定程度抑え、労働者の権利を擁護する、そのように「資本主義」を修正するために用いられたのが「法律」です。

法により資本主義を修正しながら運用し社会を運営していく、それが現在のスタンダードなスタイルといえるでしょう。

理想には程遠い「資本主義」を是正し、なるべく適正なものに近づけていく、そのための道具として「法律」が期待されている、ということでしょうか。

 

すなわち、「資本主義」をベースとしつつ「法による支配」をあらゆる場面で徹底することこそ、現在社会における最も重要なルール、と考えられているわけです。

よって、「多様な価値観」といっても、「法に反する価値観」は絶対に是認されない、ということになるわけですね。

  

さて、「資本主義」は間違えなく「強者の理論」であると考察してきましたが、では「法治主義」はどうなのでしょうか?

「法治主義」は、「弱者の理論」もしくは「弱者を救済するための理論」といえるのでしょうか?

 

『権利の上に眠る者は保護せず』

 

これは「時効」の根拠を述べる際にいわれる言葉ですが、近代法の根底にある考え方の一つようにも思われます。

すなわち、「権利を求める者は、自らその権利のあることを主張しなければならない」というのが、近代法の基本的な考え方だと思われます。

これは、近代以前、「権利」は「支配者から与えられるもの」であったところ、近代になって、「権利」は「法により個人が自ら獲得できるもの」になったことに由来しているのだと思います。

「法を根拠として主張すれば誰であっても権利を獲得できる」、封建制度のなかでは考えられない発想でした。

この考え方が現在においても存続しており、「権利は法を根拠として主張すれば獲得できるのだから、逆に言えば、権利を求める者は、最低限、法を根拠に自ら主張しなければならない」という考え方になるのです。

 

つまり、法により支配された社会「法治主義」においては、「自ら主張すること」が最重要にして最低限の行為、といえるのです。

「自ら主張すること」、これを「誰でもできる行為」と考えるのであれば、「法治主義」は「弱者を救済するための理論」、つまり「弱者の理論」に立脚しているといえそうです。

逆に、「自ら主張すること」が「一定の限られた者にしかできない行為」と考えるのであれば、「法治主義」は「強者の理論」ということになります。

 

「自ら主張すること」。

自分が求めるものを明確に理解し、それを言葉にできる人にとっては、別段難しいことではないのかもしれません。

しかし、自らの状況を分析し、論理的に組み立て言語化する、という作業は、実はそう簡単なことではありません。

ある種の学習・訓練を積む必要がありそうです。

そうすると、「自ら主張すること」が出来る者は、一定の学習・訓練を積むことが出来る者、もしくは自らに代わる法律専門家を雇うことが出来る者に、限定されてしまう可能性があります。

すなわち、法により支配された社会「法治主義」においては、一定の学習・訓練を積むことが出来る者、もしくは法律専門家を雇うことが出来る者が、その権利を実現できる社会である、と定義できてしまうのです(もちろんそれが全てではなく、弱者救済的な政策も取られていますが、それはあくまでも例外的規定といえましょう)。

 

そのように考えるのであれば、「資本主義」のみならず、「法治主義」も、「強者の理論」といえそうです。

 現代社会を基礎づける二大理論である「資本主義」と「法治主義」、これらがともに「強者の理論」であるとした場合、我々はそれを採用すべきなのでしょうか?それとも、異を唱えるべきなのでしょうか?

さて、どうでしょう?

 

我々は「強者」か?それとも「弱者」か?

「強者の理論」を考えるとき、弱者の視点に立つことが重要である、と私は思います。

例えば何かのゲームをする際、そのゲームのルールが、どう考えても「一定の者」しか勝つことが出来ないルールであり、自分がその「一定の者」に含まれていないという場合に、「ずるい、おかしい」、と思ったりしませんか?

現実社会においても同じだと思うのです。

「強者の理論」が社会的ルールとして存在している際、弱者の視点に立つと、理不尽でずるい、おかしいルールである、とみえてきます。

 

しかし、現実社会は非常に巧妙につくり上げられているため、多くの人が「自分は強者ではないかもしれないが、弱者でもなかろう」と思っているのではないでしょうか。

 

本当に?

本当に我々は、「弱者」ではないのでしょうか?

 

全てが「弱者」になる?「AI時代」の到来

仮に今現在は「弱者」ではないとしても、近い将来に、我々殆んどの人間が「弱者」になるかもしれない時代が到来しそうです。

「AI時代」の到来です。

「AI(人工知能)」は、殆んどの人間の能力を凌駕するでしょう。

情報の集積、分析はもちろんとして、状況における最適解を最速で導くことも、AIの得意とするところです。

(コミュニケーション能力や芸術的能力も、その多くが情報の集積、分析、組替、模倣、応用により成立しているのだとすれば、やがてAIはこれらの分野でも人間を凌駕する可能性が大きいのではと、私は危惧しています。)

そう、バッハやミケランジェロ、アインシュタインや夏目漱石といった、ごく一部の人間を除き、殆んどの人間はAIに比べ、「弱者」になるのかもしれないのです。

(漱石先生は「・・わしだって叶わんよ。ふん、AI?」と苦虫を嚙み潰したような顔で、呟かれるかもしれませんね。)

 

そのような時代に、「弱者」である我々は、どのように生きていくのでしょうか?

「強者の理論」、すなわち「強者」であることで価値が認められ、権利が認められる社会がこのまま存続していくと、我々「弱者」は、皆「価値がなく権利もない」、そんな社会になってしまうのでしょうか?

ごく一部の人間とAIにのみ価値・権利が認められ、大多数の人間たちの価値・権利が認められない世界・・

ぞっとしますよね。

(まるで映画「マトリックス」のようですね・・)

 

でも、でもですよ。

実は、現実社会もすでに「ごく一部の人間の価値・権利が認められ、大多数の人間たちの価値・権利が殆んど認めれない世界」になっているのだとしたら?

そして今現在、我々は実際のところ「弱者」であるとしたら?

・・どうなのでしょう?

 

仮に、もしも仮に皆さんが「弱者」ではないと判断できる場合、ちょっと想像してみて欲しいのです。

「強者の理論」が跋扈する社会において、どうにもならないルールで戦わなければならない「弱者」の立場を。

自らを「弱者」に置き換えて、ちょっと想像してみて欲しいのです。

 

私は、ぞっとしました。

もしも私が「弱者」であったら・・と。

そして、更に考えました。

・・いや、「もしも」ではない。

私は、本当のところ、実は「弱者」なのではないのだろうか?と。

 

私は、先行き不透明な貧乏事務所を、なんとかやり繰りしているだけの、しがない司法書士に過ぎません。

そう、「資本主義」的にいえば、私は間違えなく「弱者」でしょう。

ちょっとでも失敗したら全てを失いかねない、非常に脆弱な経済基盤しか持たない「弱者」なのです。

 

では、「法治主義」的にいったら?

私は司法書士という職業柄、自分の意見を主張することには慣れています。

では、私は「法治主義」的には、弱者ではないのか?

・・いやいや。私は、この世界における自分の立ち位置をしっかりと分析し、自らが得るべき権利を、しっかりと主張し獲得しているといえるのでしょうか?

自らの権利を自ら考案し、自ら主張し獲得しているでしょうか?

いえ。残念ながら、違います。省みると恥ずかしながら、全く違います。


与えられた環境を、当たり前のように享受しているだけに過ぎませんでした。


妙だな、おかしいな?と思うことがあったとしても、そこで思考も行動も停止していたのです。

そう、実のところ、私は「自ら主張すること」が全くできていない人間だったのです。

自分が求めるものを明確に理解することが出来ておらず、それを言葉にすることが出来ていない人間だったのです。

どうやら私は、「法治主義」的にいっても、実は「弱者」だったようです。

 

実は既に「弱者」であった? 

AI時代が到来すれば、これらのことが更に明確になるのだと予想されますが、よくよく考えてみることで、実は現時点においても、私はこの社会構造における「弱者」であるのだと理解できました。

 

そして、とっても恥ずかしいことなのですが、自らが「弱者」であると気づいてからやっと、「強者の理論」の理不尽性にも、私は思い至ったのです。

 

「強者」にのみ、価値と権利を認める社会。

そして、「強者」と「弱者」とを置き換える装置は「ガス抜き程度」しか存在せず、「固定化された身分としての強者、弱者」に色分けされた世界。

どう考えても「一定の者」しか勝つことが出来ないルールであり、自分はその「一定の者」ではない世界。

やはり、ずるいなあ、おかしいんじゃないのかなあ、と思ってしまいますね。

情けない話ですが、そのように感じて初めて、「強者の理論」には問題があり過ぎる、これは終わらせるべきなのではないか?と思い至ったわけなのです。

 

なんとかして、ひとの価値、ひとの権利を「強者の理論」で定めるということを、やめることはできないのだろうか?

そのひとの価値、そのひとの権利を「強者の理論」ではなく「弱者の理論」で定めていくということは、実現できないのだろうか?

私はそのように思ったのです。

 

「弱者の理論」

「弱者の理論」とは、「有しない者の理論」です。

なにも有しない、ただ居るだけ。

そのような者に価値を与え、そのような者に権利を与える社会を、作り出すことはできないのか?ということです。

 

私は、可能ではないか?と思い至りました。

甘いでしょうか?甘いですよね。

ただ、そのきっかけになるのが、「AI時代」の到来なのでは、と思ったのです。

 

「AI時代」が到来する際、もしも「AI」を「全ての人間のため」に用いるのであれば、「弱者の理論」により、ひとの価値や権利を定めることができるようになるであろう、と私は考えました。

「AI」が「全ての人間のため」に用いられるようになったときに初めて、全てのひとが、「なにも有しない、ただ居るだけ」、の存在となり得るのではないか、と。

そしてそのとき初めて、「なにも有しない、ただ居るだけ」であることの価値と権利を、ひとびとは模索するようになるであろう、と。

そのように私は考えたのです。

 

もっとも、「AI」が「一部の人間のため」だけに用いられるようになってしまったら、殆んどの人間が価値も権利も認められない世界になってしまう可能性があります。

おそるべき「マトリックス」の世界です。

・・どうでしょうか?

 

我々は、理性と勇気をもって「強者の理論」を廃し「弱者の理論」を打ち立てることができるのでしょうか?

映画「マトリックス」のような世界を、退けることができるのでしょうか?

 

本当の問題は「弱者の理論」の先にある?

さて、もしも我々が、理性と勇気をもって「弱者の理論」を打ち立て、「なにも有しない、ただ居るだけ」のひとの価値と権利を模索しようと踏み出した場合、実は本当の問題はそこから始まるのだと、私は思っています。

そう、本当の問題は、「弱者の理論」の先にこそあるのです。

 

今までは、「AI時代」到来までは、我々は「労働力」としての価値と権利を、社会的に与えられていました。

いわば、今までは「労働をしてさえいれば社会的価値が認められた」、というわけです。

ところが、「AI時代」が到来し、我々が労働からの解放、すなわち労働力としての価値を奪われてしまったとき、社会的に「なにも有しない、ただ居るだけ」の存在となったときに、我々は、自らの価値と権利を、どのように創造し、認識していけばよいか、という問題に直面するのです。

 

このことは、実は古来から哲学者や思想家たちが苦悶してきた難問を、我々全ての人間が、真っ向から対峙して乗り越えていかなければならないことを、意味するのかもしれません。

 

生きるために食べよ、食べるために生きるな。

 

ソクラテスの言葉ですね。

もし「食べるために生きる」必要がなくなったとき、我々はどのように生きるのか。

そう、「食べるために生きる」という逃げ道を失ったとき、我々は「生きるために生きる」という課題を、正面から突き付けられることになるわけです。

「弱者の理論」は、非常に深淵な問いを、我々に発します。

 

近代、神から解放され自我を得たとき、人間は苦悶しました。(ニーチェですねぇ)

近未来、労働から解放され自由を得たとき、人間はまた苦悶するでしょう。

 

しかし、その苦悶は、我々を新たな世界に導くための苦しみであるはずです。

自我を得た人間が苦悶し迷走しながらも、権利や義務という課題に取り組もうと行動し始めたように、我々は新たな価値や権利の追及を始めるのではないでしょうか?

我々は、「弱者の理論」に立脚し、価値や権利というものの本質を、追求していくことになるのではないでしょうか?

「なにも有しない、ただ居るだけ」の価値と意味を、我々は追求していくのではないでしょうか?

 

いやいや、「AI時代」といったって、すべての労働がなくなるわけじゃないよ。

「弱者の理論」が採用されることなど、ないよ。

 

もちろん、そのような可能性も充分あり得ますよね。

またむしろ、AI全盛期においても、あえて人間の労働を残す、という選択をするのかもしれません。

 

AI技術が発達しても人々の労働は残り、強者の理論がそのまま存続する世界。

AI技術により人々は労働から解放され、弱者の理論が模索される世界。

AI技術が発達しても人々の労働は残るが、弱者の理論が模索される世界。

AI技術により人々の労働は奪われ、かつ、強者の理論で動いていく世界。

 

我々が向かう世界は、果たしてどのような世界なのでしょうか?

 

少なくとも「マトリックス」のような世界、すなわち大多数の人々の価値が失われ権利もない、一部の人間とAIのためだけの世界は、御免こうむりたいところです。

 

(映画「マトリックス」では、「AI」対「人間」という、ややファンタスティックな構造になってます。 しかし、この記事で述べた内容の恐ろしさは、ご理解いただけることかと思います。もしも「マトリックス」をまだ観ていないという方、是非観てみて下さい!おススメです!)

 

では、「マトリックス」の世界の到来をご免こうむるためには、我々はどのような行動を採っていくべきなのでしょうか?

与えられた環境から脱却し、「生きる」ことの現実を受け止め、乗り越えていくべきなのでしょうか。

「生きる」ということの意味を、我々ひとりひとりが模索しながら、自らの価値を見出し、権利を追求していく必要があるのでしょうか。

 

・・そんなことを、私はつらつらと考えてしまった次第なのですが、さてさてみなさんは、如何お考えになりますでしょうか?

よろしければ、是非ご意見を頂きたいです!

 

というわけで、以上、「強者の理論」と「AI時代」から考える、この世界のゆくえは?でした!

拙い雑文にここまでお付き合いを頂きまして、本当にありがとうございました!