「引きこもり」を考えました。同時に「社会が目指すべき方向」を考えました。
こんにちは。国分坂です。
今回は、重いテーマを取り上げてみます。
「引きこもり」とはなにか?
もしもお付き合いを頂ければ、とても幸いです。
「引きこもり」とは
「引きこもり」と一言にいっても、実はいろいろなケースがあるように思います。
経済的事情で、自活することが難しく、親や親族の家に同居するケース。
心理的事情で、社会との接点を断ちたいがため、親や親族の家に同居するケース。
たとえば、「宝くじで3億円当たったので働く必要がなく、家にこもって遊びたい放題している」という人がいたとしたら、その人を「引きこもり」というでしょうか?
なんとなく、ニュアンスが異なる気がしますね。
「引きこもり」という言葉には、「依存している」、「義務を履行しない」といった非難や否定的な見解が、見え隠れしているように思われます。
「働く必要のない人」が事実上引きこもっていたとしてもそれは対象外であり、「働く必要があるにも関わらず働かない人」こそが、「引きこもり」と呼ばれる対象になっているように思われます。
「働く必要があるのに働かない」、だから非難する。
このように感じて非難してしまうこと自体に、私はいろいろと考えた末、違和感を感じるに至りました。
なお、当事者である親や親族そしてご本人は、悩みや苦しみ、将来の不安など、様々な問題を抱えている場合が多いのだと思います。
よって、社会がその問題を受け止め、なんらかの対応をしていくことは、非常に重要だと思います。
しかし、今回私が焦点を当てたいのは、どうして「働く必要がある(と思われる)のに働かない人」を、我々は非難し、時には排除しようとしてしまうのだろうか、という点です。
どうして「依存している(ように思われる)人」を、我々は非難したくなり、また、排除したくなるのでしょうか?
「甘え」という言葉
インターネット上の言葉で、よく「それは甘え」といったメッセージを目にします。
「頑張りたくても頑張れない」といった内容に対して、読者から寄せられるメッセージに「それは甘えだ」といった記載があったりしますね。
「頑張れないなどと言っていないで、死に物狂いで頑張れ!」という意味で使われることもあるのかもしれませんが、そのような激励の言葉というよりも、切って捨てるような雰囲気で「それは甘え」、というメッセージが使われることがあるように見受けられます。
これは、何なのでしょうか?
「頑張りたくても頑張れない・・」
「それは甘え」
この「それは甘え」には、「自分は苦労して頑張っている。なのに頑張れないなんて、そんなの絶対許せない」といった心理が、裏に隠れているのではないでしょうか?
「自分も頑張っているのだから、あなたも頑張らなければならない、甘えることは許されない」、そんな気持ちが溢れているように思われるのです。
そして、このような心理状態と同じようなものが、「引きこもり」を「非難」したくなる土壌となっているのではないでしょうか?
もちろん、「親が可哀想だ。周りの親族たちも辛いであろう」という気持ちから、「引きこもり」を非難する、ということもあるでしょう。
しかし、もしもそうであるとしたら、「引きこもり」を「非難」していても仕方がないのであり、親や親族たちをどのように支援すべきなのか、具体的にどのような行動をとるべきなのか、そのようなことを我々は考えるべきでしょう。
でも、実際には「引きこもり」を、まずは「非難」したくなってしまう。
これは、「社会は決して甘くはない。自分もそんな社会でなんとか頑張っている。にも拘わらず、引きこもることで社会と対峙せず逃げるなんて、そんなのずるいし許せない」、そんな気持ちがどこかにあるのではないでしょうか?
どうなのでしょうね?
少なくとも、私にはそんな気持ちが、自分の中にあるような気がしたんです。
そして、思ったのです。
「・・いやむしろ、甘くない社会にこそ、問題があるのでは?」と。
いや、生きるって大変ですよ。
やるべきことをちゃんとやって、義務を履行し、権利を主張して。
甘くないですよねえ。
でも、どうなんでしょうね?
そもそものお話として、我々は「なぜ生きるのか」という根本的な最重要テーマに対し、明確な「回答」ができているのでしょうか?
我々は「なぜ生きるのか」という問いに対し、いつでも悩みながら、つまずきながら歩んでいるのではないでしょうか。少なくとも私はそうです。悩んでます。
だとしたら、どうでしょうね?
「なぜ生きるのか」という「目的」がちゃんと分かっていないのに、「方法論」としての生き方レベルで、なんでそんなにきちきちに、ぎゅうぎゅうに、「やるべきことを!ちゃんとやって!義務を!権利を!」と息巻いたりしなければならないのかなあ・・と思ったりしたんですね。
もちろん、我々は社会性の動物ですから、社会を作っていく為のルールは必要です。
なので「人様には迷惑を掛けない」という意識は、とても大切だと思います。
でも、人間ですからね。
失敗もしますし、迷惑もかけますよね。もう常々に。
私はいろいろ思い悩んだのですが、どうなんでしょうかね、より優れた社会というのは、「他人に迷惑を掛けないシステムが構築された社会」というより、「互いに迷惑を掛けてもなんとかなるように思える社会」なのではないかなあ、と。
「社会は、まあ、なんとかなるところだよ。厳しい面もあるけど、甘いところもあるしね。うん、逃げたって構わないと思うよ。でもね、面白い部分もあるからさ、気が向いたらね、是非きてみてよ。この社会にね」
そんな社会を目指していくべきなんじゃないのかなあ、と思ったのですね。
「引きこもり」ということを通じて、私はそんな風に思ったのです。
誰しもが、直面し得る問題
くり返しになるのですが、「引きこもり」問題に関して、「親御さんやご親族の問題」については、喫緊の課題として具体的対策が必要だと思います。
経済的問題や、心理的・精神的問題など、個人が抱えるには重すぎる問題です。
チームを組んで取り組むべき問題です。
私もこの問題には、今後積極的に考え、取り組んでいきたいと思っています。
しかし、「引きこもり」という状況や、その「ご本人」に対して、「社会」がどのように向き合うべきかといえば、「社会」の方が現状から変わっていくべきなのではないか、と思うのです。
なぜなら、「引きこもり」問題は、実は、誰にでも起こり得る問題だと思われるからなのです。
「引きこもり」問題は、決して特殊なケースではありません。
誰しもが、直面し得る可能性があります。
急変激しい昨今の社会情勢下においては、経済的破綻をする確率は、誰であっても、実はそれほど低くはないのかもしれません。
また、複雑な人間関係が構築され得る現代社会においては、誰しもが、ちょっとしたことで心理的・精神的なダメージを受け、深刻な状況に陥ってしまう可能性も、決して低くはないのかもしれません。
その結果、「引きこもり」になってしまうということが、誰であっても、いつでも、あり得るのかもしれません。
そしてそのことを、我々は直感的に、知っているのではないでしょうか?
だから「自分とは関係のない世界である」とみなしたくて、あえて「排除」しようとするのではないでしょうか?
見たくないものを見ない、だから排除する、そんな精神状況が、「引きこもり」を排除したくなる土壌となっているのではないでしょうか?
でも、誰しもが「引きこもり」になり得るのだとしたら、やはりこの問題は、しっかりと直視しなければなりませんよね。
我々は、「引きこもり」を「自分に関係のない世界」として排除するのではなく、「もしかしたら将来自分が直面するかもしれない世界」として認識し、受け止めなければならないのかもしれません。
そのように考えた場合、どうですかね、自分が引きこもってしまったとき、「社会は、まあなんとかなるところだよ。厳しい面もあるけど、甘いところもあるしね。逃げたって構わないと思うよ。でもね、面白い部分もあるからさ、気が向いたらさ、是非おいでよ。この社会にね」と、ゆっくり待っていてくれるところだとしたら、どうでしょうか。
私であれば、随分ホッとすると思うのですね。
もちろん、これらは自分なりの推測に過ぎません。
まだまだ想像が達していない部分も、大いにあるのだと思います。
でも、ひとつ言えることは、この問題は決して「他人事」ではない、という点です。
もしかしたら、自分がなるかもしれない。
もしかしたら、自分の親族がなるかもしれない。
もしかしたら、自分の周りにいるひとがなるかもしれない。
可能性は、決して低くない。
そのとき、自分はどうすべきであろう。
どうしたらいいのだろう。
そう、自分の「直面する問題」として、切実に考えていきたいと思うのですね。
まとめ
「引きこもり」について、いろいろ述べてしまいましたが、最後にちょっと整理してみたいと思います。
「引きこもり」といっても、様々なケースがあり、様々な問題がある。
そのなかで、ご両親や親族など、この問題を支え経済的・心理的負担を抱えている方には、チームを組んで対応するなど、具体的方策を早急に考える必要がある。
一方、「引きこもり」という状況やそのご本人に対しては、「社会」の方が現状を変えていき、対応すべきである。
我々が「引きこもり」を非難したくなるのは、我々が「厳しい社会」をなんとかして生きており、その「厳しい社会」を我々同様に生きようとしないことに、怒りを感じてしまうからではないのか。しかし、そもそも「社会」は、厳しい必要があるのか。
もっと甘くて緩やかな「社会」を、我々は目指すべきではないのか。
我々が「引きこもり」を排除したくなるのは、我々は直感的に「引きこもり」の問題が自分たちにも発生し得ることを知っているからではないのか。だから、見て見ぬ振りをするために、「引きこもり」を排除したくなるのではないのか。
しかし、誰でも発生し得る以上、我々はこの問題を正面から見据え、対策を考える必要があるはずだ。
そのように考え、自分のこととして捉えてみると、やはり我々は、もっと甘くて緩やかな「社会」を、求めたいと思うのではないだろうか。
以上、ちょっとまとめてみましたが、正直「書くのは易し、行うは難し」だろうなあ、とも思いました。
「甘くて緩やかな社会」、実際にはこれを構築するのは、途轍もなく大変ですよね。
教育でも、厳しくすることは難しくありませんが、甘くするのはとても難しいですね。
いや、「際限なく甘くして放置」だったら簡単かもしれませんが、甘くしつつも教えるべきことは教え、理解させるべきものは理解させる教育、というのは難しいですよね。
同じく、「社会としてのルールを保ちながら、それでいて甘くて緩やかな社会」、これを構築するのは相当に難しいと思います。
ここでいう「甘さ」「緩やかさ」には、色々な意味合いがあると思いますが、セーフティーネットの充実、何度でも再チャレンジ可能な機構、多種多様な生活スタイルの受容など、いろいろなものを包括できる社会なのでしょうね。
いろいろなものが包括されれば、また様々な衝突も発生してきます。
矛盾も生じます。
難しい。とっても難しいです。
でも、私は思ったのですね。
ここ1週間程、ずーぅっと「引きこもり」について考えていたのですが、この「引きこもり」についての問題を契機に、今後の社会の在り方を模索すべきではないだろうかと、そう思ったのですね。
今後、AIが発達し、いろいろなことがシステマチックになっていくでしょう。
しかし、社会が目指すべき方向は「機能的で無駄のない社会」ではなく、「様々なものを包括して矛盾を抱えながらも、人間同士が甘く緩やかに接合できる社会」なのではなかろうか、と。
私は、そんなことを思ったのですね。
実際に、どうしたらそのような社会をつくっていけるのか、これはすみません、まだ分からないのです。でも、考えたいです。
どうも、ここに鍵があるような気がするんですよね、「目指すべき社会の方向性の鍵」が、ですね。
勘違いだったら申し訳ないのですが、取り敢えず私はそんな風に思ったのです。
「甘くて緩やかな社会」づくり。それでいいのか?できるのか?
如何でしょうか?
相変わらず脇の甘い文章で恐縮ですが、どうぞ、皆さまからのご教授を頂ければ、本当に嬉しい限りです。何卒宜しくお願い致します!
というわけで、「引きこもり」を考え、「社会が目指すべき方向」を考えた次第でした!お付き合いを頂きまして、誠にありがとうございました!