国分坂ブログ

「歩くこと」「考えること」が好きな、国分坂です!

「尊重に留めるべき意見」と「議論すべき意見」。分けて考えてみるのは、どうでしょうか?

こんにちは。国分坂です。

「歩くこと」と「考えること」が好きな国分坂ではありますが、「考えすぎてしまう」悪癖がございまして、たまに「どんより」してたりします。

 

インターネットの世界では、日々、様々な意見が飛び交っていますね。

いやあ、本当に考えさせられます。

皆さん、凄いですね。いろいろなことを、色々な角度から、いろいろに、様々深く考えていらっしゃる。

お陰で私も考えっぱなし、です。

 

 

「価値観や 感情論」は議論の対象外?

さて、これはあくまでも私見ですが、「価値観」や「感情論」といったものは、議論の対象にそぐわないように思います。

つまり「好き・嫌い」の問題は議論しても意味がない、というのと同様かな?と思うのですね。

 

たとえば「私は猫が好き!」という人に、どれだけ犬の素晴らしさを説明し、歴史的背景だのを論じても、「犬もいいかもしれないけど、私はやっぱり猫が好き!」ということになるのではないかと。

 

私は、あの黒くて素早い、梅雨時になるとそろそろ警戒しなくてはならない、そう「あの虫」が、もう大っ嫌いというか恐怖の対象でしかないのですが、どうして嫌いなのか、怖いのか、論理的に説明することができません。(いや、あの虫の驚異的な能力、もしも人間並みの大きさならF1くらいの速度が出せるだろうとか、もちろん気門による呼吸だから現在の酸素濃度が維持されれば巨大化は無理だろうとか、所詮はタンパク質で構成されている以上、熱湯を掛ければすぐに凝固するだとか、地表温度が35度を超え湿度が60%くらいになると飛翔しやすいとか、でも飛ぶと天敵の鳥に狙われるため明るいうちはあまり飛ばないとか、そういう「情報」は持っているのですが、「嫌い」「恐怖」といった感情を、論理的に説明することはできないのです。)

 

そして、論理的に「危険性はないから嫌う必要も怖がる必要もない」と説明されたって、まったく無理なわけですよ。無意味です。絶対に、怖いし嫌い。

 

そう、「感情」や「価値観」の問題は、議論して正誤を求めるものではないのだと思うのですね。

むしろ、互いに「尊重」し合って、折り合いをつけるべき問題、だと思うのです。

 

これに対して、純粋な「手段」や「方法論」、「技術論」に関しては、議論が可能であると思います。

ある目標に対して「どのようにやれば」最も効率的か、効果的か、といったこと考えるのであれば、議論をして最適解を求めることができるはずです。

 

つまり、「感情論・価値観」は議論をするのではなく尊重し合うべきであり、「手段・方法・技術論」は議論して最適解を求め得る、と思うわけです。

 

 

尊重し合うべき意見と議論できる意見

昨今話題になっている「ヴィーガニズム」という考え方がありますね。一言に「ヴィーガニズム」といっても様々あるようですが、「肉食をしない」という生活スタイルを採ることは、どうやら一致しているように思われます。

「ヴィーガニズム」には、様々な主義主張があるようですが、たとえば「動物に苦痛を与えるべきではない」という「ヴィーガニズム」や、「畜産業は環境破壊を促進するため、持続可能な社会を目指すにはこれを廃止すべきだ」という「ヴィーガニズム」もあるようですね。

 

さて、「動物に苦痛を与えるべきではない」から肉食しない、という主張と、「持続可能な社会を目指すため」に肉食しない、という主張とは、分けて対応する必要があるのだと思うんです。

なぜなら、「動物に苦痛を与えるべきではない」という主張は、「価値観」に起因する主張だと思うのです。「動物が可哀そうだ」という「感情」に起因する主張だと思うのです。

これについて、論理的な議論をすることは如何なものか、と思うのですね。

「いや、人間以外の肉食動物もやっているし」

「動物以外の植物は、微生物は、可哀そうではないのか?」

といった形で反論し、「よって、動物を食べることを可哀そうだと思うことは理論的ではない」と説明されても、可哀そうだと思う人を納得させることは無理だと思うのですね。

「理論的に可哀そう」なのではなく、「感情的に可哀そう」なのですから。

 

価値観や感情に対しては、それを尊重するに留めるべきだと思うのですね。その是非を議論することは不毛だと思うのです。

もっとも、尊重は「相互」になされる必要がありますので、「肉食をしたい」という価値観に対しても、もちろん尊重が必要です。

「動物が可哀そうだから肉食しない」という人々と、「動物は美味しいから肉食したい」という人々とが、相互に尊重し合い、その上でどうしたら互いに納得できるか、その「方法論」こそを議論すべきなのですね。

 

一方で、「持続可能な社会を目指すため」に肉食をしない、という主張は、「人間が暮らしやすい環境」を存続させるという目的ための「方法論」としての主張だと思います。

よって、この主張に関しては、真っ向から大いに議論が可能だと思うのです。

畜産業がどのくらい「人間が暮らしやすい環境」に悪影響を及ぼすのか、仮に畜産業を廃止して代替食産業を選択した場合、「人間が暮らしやすい環境」への影響はどのように変化しうるのか、これらは科学的データに基づき推論することが可能でしょう。

仮に畜産業を廃止した方が「人間のための持続可能な社会」を実現できるというデータが得られたとしたら、「肉食をしたい」という価値観を有する人たちに、ある一つの科学的根拠に基づく選択肢を提案し得る、ということになるのだと思います。

 

なお、念のために言いますと、仮に畜産業をやめた方が持続可能な社会を実現できるというデータが得られたとしても、「肉食をしたい」という「価値観」を有する人々に対し、「だから肉食はやめるべきだ」と理論的に説明してもダメなのですね。

あくまでも「肉食をしたい」という価値観を有する人々を尊重しつつ、持続可能な社会実現のためにはどうしたらよいのか、という方法論を考える必要があるわけです。

 

たとえば、大豆を加工して味・食感がほぼ牛肉、というものが作れたとして、「牛の家畜業を廃止すると環境保全にこれだけの好影響が与えれます。そして我々は大豆で牛肉の代用食を作ることに成功しました。味・食感はほぼ同じ。たんぱく源としての栄養価は、より優れているくらいです。価格は牛肉の半額です。どうでしょうか?」とデータを示されながら問われたら、私だったら味見をしたうえで、代用食でOKしちゃうかもしれません。

(そもそも私は高価な牛肉に疎遠なので、「安く牛肉的味を堪能できる」ということに、まず「価値」を見出すのかもしれません。その上で「環境保全にもなるのかあ、だったらいいねえ」と思うのかも。もっとも、海原雄山のような美食家の人なら「こんなものは牛肉ではない!」と却下するかもしれず、この場合はより美味しい代用食の研究に頑張ってもらうしかないですね。)

 

受忍限度

ここまで書いてみて、ふと気が付きました。

「価値観」は、互いにどこまで尊重すべきなのか、と。

 

千差万別、様々な「価値観」があると思います。どうしても互いに相いれない「価値観」だってあり得るでしょう。

 

これはやはり、憲法が定める人権と同様、「公共の利益に反しない限り」、平たくいうと「他人に迷惑を掛けない範囲で」、互いの価値観は互いに尊重すべき、ということになるのではないでしょうか。

もっとも、では「迷惑」とはどの程度をいうのか?という議論が次に待っていますが、これは、「互いに尊重」することが前提である以上、「自分が我慢できる範囲で、他者も自分を我慢してくれる」ということになるのだと思います。

 

沢山我慢できるひとは沢山受け入れてもらえるし、ちょっとしか我慢できない人はちょっとしか受け入れてもらえないよ、ということになるのですかね。

 

現代社会が目指していくべきもの、それはやはり「多様な価値観」だと思うのですね。

いろいろな価値観があってよい、いろいろな価値観を持ってよい、そういう社会を目指そう、という方向であるべきだと、私は思うのですね。

 

だとするのであれば、我々は、互いに尊重し合わなければならないのです。

平たくいうと、我々は我慢し合う必要があるんですね。

自分が社会に受け入れてもらうためには、自分も社会を受け入れなければいけない。そのためには、自分も社会も、双方我慢しなければならない。

それが、「多様な価値観」を持つ社会を作っていく上での、最も根本的なルールになるのでしょうね。

 

もっとも、昨今は色々なことがどんどん「便利」になっていますからね、私なんかも、どうも我慢が苦手になっている気がします。

インターネットなんかも、昔は「使いたい放題」ではなくて、一日3時間まで!とかでしたねえ。いま思えば、ちょっとあり得ない世界でしたね。便利になりました。

 

そう、便利な社会で我慢が苦手になっていることを自覚しつつ、しかし、「多様な価値観」を認める社会では我慢が重要、ということを、しっかりと認識したいと思います。

 

 

 【過去記事紹介:対話の重要性と我慢のススメ、についてです~】

www.kokubunzaka.com

 

 

まとめ

今回考えてみたことは、「価値観や感情に対しては、尊重するに留める」こととし、「手段・方法・技術論」は議論して最適解を求め得る、ということでした。

 

インターネット上にも様々な意見があると思うのですが、これらを私は「価値観・感情」に基づくご意見と、「手段・方法・技術論」に関するご意見とに分類してみたのですね。

そうしてから改めて記事を読んでみると、「価値観・感情」に分類したご意見に対しては、「なるほど、そういう考え方もあり得るのだなあ」と、ときに共感できたり、ときには共感できないけど考えさせられたり、といった気付きを得ることができました。

一方、「手段・方法・技術論」に分類したご意見に対しては、「この方法論はこのように改善できないだろうか・・なるほど、自分の考えていたものはこの点が弱かったのか、そこにこの見解を合わせてみると補強できる、お、昇華した?」といった具合に、自分の中で議論を展開し、深く考察し得ることに気が付いたのですね。

 

「価値観・感情」に基づくご意見と、「手段・方法・技術論」に関するご意見とを分けてみることで、更に愉しむことができるようになったのです。

 

もっとも、なかには「価値観・感情」と「手段・方法・技術論」に、分類できないものもありますね。

たとえば「天皇の男系女系問題」などがそうですかね。

私などは「天皇は機関であろうから、より有効に、かつ、より弾力的運用ができる方法を考えてみたらどうだろう」と思っていましたが、「天皇の存在そのものに価値を見出す」考え方もあるようで、その考え方からすると、「女系」は天皇の価値を侵害してしまう、ということになるのかもしれません。

たまに識者同士が議論しているのを見て、なんだかかみ合っていないなあ、と思われたりするのは、「価値観」としての意見と、「方法論」としての意見とが、無自覚にぶつかっているからかもしれませんね。

このあたりは、価値観を尊重しつつ、しかし「(社会として)受忍可能か?」というあたりを考慮して、双方が慎重な意見交換をしていくべきなのかもしれませんね。

 

みなさんは、如何お考えでしょうか?

もしよろしければ、ご意見頂ければ幸いです。

 

というわけで、「尊重に留めるべき意見」と「議論すべき意見」、分けて考えてみてはどうでしょうか?でした!

お付き合いを頂きまして、誠にありがとうございました!