国分坂ブログ

「歩くこと」「考えること」が好きな、国分坂です!

現代社会、本当のことをいっちゃうと、実は「働く必要」なんて、ないのでは?

こんにちは、国分坂です。

今日は、仕事がひま~なので、ちょっと「妄想」してみたいと思います~!

題して、「現代社会、本当のことをいっちゃうと、働く必要なんて、ないんじゃない??」です!

うわあ、なんとも「挑戦的な言葉」を発してしまいました~

 いえいえ、暇な午後のつれづれに、少しあれこれと考えてみたい、ただそれだけなんです~!お付き合いください!

 

 

第一次産業と第二次産業の低収入化

第一次産業、すなわち、農業・林業・漁業(水産業)は、仕事がきつい割に収入が低く、その担い手が年々激減しているというのは、なにも今に始まったことではないでしょう。

そもそも、外国からの輸入品が安く手に入るため、特に日本では、よほどの付加価値を付けなければ第一次産業では勝負できないという状況が、戦後からずっと続いているのではないでしょうか。

また、近年は、第二次産業、すなわち、鉱業や製造業・建設業などですが、これらも第一次産業と同様、外国から非常に安い輸入品が入るため、付加価値のある商品でないと国内産は価格の面で太刀打ちできない、という状況になっています。

 

つまり、現代の日本社会においては、第一次産業や第二次産業での労働では、なかなか食べていくことが厳しい状況にあるわけです。

第一次産業や第二次産業も、第三次産業と同様に、単なる物の提供ではなく「サービスの提供」という側面が重要視されているのです。

「サービスの提供」、すなわち「人々の求める付加価値を見出し創意工夫して実行していく」ということをしなければ、仕事として成立しえず、それがうまくいかないと生活することが困難になる、現代社会はそんな状況にあると分析できそうです。

私のような才能なき凡人には、とても厳しい状況なのです。

 

※ここでは「古典的」分類法として、「第一次産業」を農業・林業・漁業(水産業)、「第二次産業」を鉱業・製造業・建設業、「第三次産業」をそれ以外の産業、という考え方を採用しています。

 

AIに奪われる職種

 そしてまた、最近では「将来AIに奪われる職業〇選」などという恐ろしい記事を目にすることがあります。

「AI」、すなわち「人工知能を有するロボット」ですが、彼らにより我々の仕事が奪われ、我々が失業の淵に追い込まれることになる、そんな警鐘が鳴らされています。私の仕事なんかも、真っ先に奪われそうですよ・・!

いったい「ロボット三原則」は、どこにいってしまったのでしょうか!!

 

【ロボット三原則】

アメリカの作家アイザック・アシモフの小説で、ロボットが従うべき原則として定められたもの。

1.

ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、危険を看過することで、人間に危害を及ぼしてはならない。

2.

ロボットは人間の命令に従わなければならない。ただし、1の原則に反する命令は、この限りでない。

3.

ロボットは、1または2に反しない限り、自らを守らなければならない。

 

 

「AIにより職業を奪われる」とは、まさに「ロボット三原則」の第1条に違反すると思うんですが、どうなんでしょうかね?

もしもAIに、しっかりと「ロボット三原則」をプログラミングしたら、ロボットは、

「・・ご命令に従うことができません。私がこの仕事を行うことで、人間の失業者が推定〇〇名、発生する恐れがあります。このことは、ロボット三原則第1条に抵触し、同原則第2条に従い、私はあなた様のご命令に、従うことができません・・」

と言ってくれますかね?

・・いや、プログラムを変更されてしまうでしょうね。

 

星新一の小説を思い出す

昔読んだ星新一のショートショートに、

すべての産業がロボット化し、人間は会社に行って椅子に座っているだけ、座るとクッション下のスイッチが入り、ロボットたちが仕事をする。人々はそれを見ているだけ。定時になると人々は椅子から立ち上がり帰宅する・・

そんな作品があったのを、うすぼんやりと憶えています。

この作品では、事実上、労働は全てロボットにより行われ、人々は労働のスタイルだけを保持している、そんな感じだったと思います。

もしもそうだとすると、この作品から読み取ることができるのは2点です。

 

①全ての労働は、ロボットにより行うことが可能

②すべてをロボットがやってくれるにもかかわらず、人々は「労働をしている」という感触を必要とするためか、労働している「ふり」をする

 

さて、これらの点を考える前に、前述の「第一次産業と第二次産業の低収入化」、及び「AIに奪われる職種」について、改めて考察したいと思います。

 

第一次産業や第二次産業では、なかなか食べていくことが難しい。

それは、外国からとても安い商品が入ってくるので、よほどの「付加価値ある商品」を開発しなければ、まるで太刀打ちできないから、ということですね。

これに加え、AI、すなわち人工知能を有するロボットが、更に安くて優れた商品をつくるようになると、非常にレベルの高い「付加価値商品」を開発しなければ、もう、全く太刀打ちできなくなる、ということですね。

 

しかしですよ、ちょっと視点を変えてみたいと思うのです。

 

商品を「売る側」からしたら、外国からの安い商品や、ロボットが作る安くて優れた商品は、脅威以外のなにものでもないのですが、商品を「買う側」からしたら、どうでしょうか?

とても安くて優れた商品が、じゃんじゃん市場にあふれるわけですよね。

 

更に、「価値」と「労働」とを結び付けて考えてみたいと思います。

「高価な商品」は、一生懸命に働かないと手に入らない物ですが、「安い商品」は、それほど働かなくても簡単に手に入る物、と捉えることができますね。

つまり、現代社会、少なくとも日本においては、「第一次産業と第二次産業由来の商品」は、「それほど働かなくても手に入る物」になっているといえそうです。

 

ここで「生活必需品」という観点から考えてみます。

「生活必需品」、すなわち「衣・食・住」における必要物ですが、これらはまさに「第一次産業と第二次産業由来の商品」なのですね。

ようするに、「生活するために必ず必要となる最低限のもの」は、「それほど働かなくても手に入るもの」になっているのだ、ということが導かれます。

 

生きにくい社会からの脱却(ベーシックインカム)

以上のとおり、産業や社会の流れから考えると、「生活するために必要となる最低限のもの」は、「それほど働かなくても手に入るもの」になっているはずです。

しかし、どうでしょうか? 現実の社会は、とてもそんな状況ではないですよね?

私は、もう食うや食わずでして、ホント大変ですよ。

・・・妙ですよね?

 

インフラが整備され、科学技術の向上などにより、とりあえず生存するためだけの必需品なら、とても安価に手に入る社会。

ならば、高額の収益をあげる企業等からの税金を国民に分配すれば、働かなくても最低限の生活はできるのではないか?という考え方が出てきてもおかしくないわけです。

いわゆる「ベーシックインカム」の考え方ですね。

 

ベーシックインカムとは?

ベーシックインカムとは、全国民に対し、無条件で、生活に必要な最小限度の金銭を支給する政策のこと。世帯ではなく「個人」に支給することと、所得制限などを設けることなく「無条件」に支給することなどが特徴。現在、試験的に実施している国・地域も存在する。

 

ところが「ベーシックインカム」には、反対意見も根強いです。

反対意見の根拠としては、次の二つが大きいのではないでしょうか?

 

・財源の問題

・産業や技術力の低下

 

まずは財源の問題から。

日本においては、現状でも社会保険費の問題がいわれているのに、ベーシックインカムなどを導入したら、医療や介護等は全く成立しなくなる、という意見です。

・・説得力、ありますね。たしかに。

今ですら財源が足りないから消費税を上げる!などといっているのに、ベーシックインカムを導入して国民が働かなくなってしまったら、税収は激減し、医療費や介護費などは全く足りなくなりますよね。

うーん、どうしましょう。

 

次に言われるのが、産業や技術力の低下の問題。

ベーシックインカムを導入すると、ほとんどの国民が働かなくなるので、労働力が低下して産業が失われ、技術者や研究者も育たずに技術力が低下する、もしくは消滅する、という危惧です。

・・なるほど。これはこわい話ですね。特に日本は技術立国ですから、一度失ったらもう、どうにもできなくなってしまう、そんな危機感は強いですよね。

うーん、困りましたねえ。

 

哲学の問題

現代の日本社会においては、生活必需品を安価に入手できる、すなわち、ベーシックインカム導入の素地が整っていると思われますが、財源問題、産業・技術力の低下喪失といった問題があるため、やはりベーシックインカムの導入は無理ではないか?という結論が導かれてしまいそうです・・

しかしながら、ちょっとだけ、ここで私なりの考え方を披露させて頂きたいのですが、宜しいでしょうか?

 

まずは、財源の問題について。

これはですね、つまるところ「哲学の問題」だと思うのです。

財源をどうやって確保するのか、という問題よりも、「どのように生きるのか」という問題の方が重要だと思うのです。

 

「国民の平均寿命を延ばし、更には健康寿命も伸ばし、誰もが末永く生きていける社会」を選ぶのか、「自分なりのスタイルで、その日その日を充実させて生きることができる社会」を目指すのか?

自分が「どのように生きるのか」、という哲学の問題です。

 

私の考えとしては、

「こんだけお金があるから、このように生きよう」

ではなく、

「このように生きたい。だから、こんだけのお金があればよい」

であるべきなのではないのかな、と。

 

たしかに、短命よりも長生きの方が良いと思います。

楽しめるチャンスが増えるので。

そして、長生きなら、健康なまま生きていきたい。

やはり、楽しめるチャンスが増えますから。

 

でも、でもですよ、

「平均寿命をのばし、健康寿命をのばすために、毎日を犠牲にして生きていく」のであれば、それは本末転倒ではないか?と思うのです。

 

今日という日が充実していて、その「今日の連続」が「充実した人生」という結果を生み出す、そういうことなのではないでしょうか?

今日を犠牲にしていたら、その人生は「犠牲の日々の人生」でしかありません。

それでは、長寿や健康寿命が与えられても、何の意味もありません。

 

もしも「今日を充実させるため」に必要であるのだとしたら、「将来の(不確定なものでしかない)寿命」というものを差し出しても、おつりがくるくらいに有意義なんじゃないか、と私は思ったりするんです。

 

政府がはじめから「このような生き方をすべきだ」「よってこのような制度が必要だ」「だから財源が足りない」と定めてしまうのではなく、まずは我々ひとりひとりが、「どのようにいきたいのか?」ということを考えるところから出発してみては?と思うわけです。

そう、自分が「どのように生きるのか」、という哲学の問題です。

そのうえで、その生き方に適合する選択肢を考え、そこではじめて「財源の問題」になるはずだと思うのです。

 

次に二つ目の問題。

産業や技術力の低下、喪失の問題ですよね。

これについてはですね、私、むしろ「ベーシックインカム」が導入されたら、新しい産業や技術革新は進むのでは?と思っているくらいなんです。

ひょっとしたら人によるかもしれませんが、少なくとも私は、「一日中なんにもしない」「ただぼーっとしている」なんてことは、とてもできないんです!

 

時間があれば楽しいことをしたいし、考えたりもしたい。出かけたいし、作りたい。

そして、なによりも楽しいことの最上級は、「人が喜ぶことを造り出す」ことだと思うのですが、どうでしょう?

「自分がしたことで誰かが喜んでくれる」、これ、おそらくかなり普遍的な価値観だと思うんですよね。

 

つまり、「ベーシックインカム」が導入され、「自己否定をしいられるような労働形態」や「先の見えない不安」から解放されたら、多くの人は、充実した人生を得ようとするために、能動的な「真の仕事」をするようになるんじゃないか、と思ったりしているんです。

ここでいう「真の仕事」とは、強制されるものではない、自らの欲求に駆り立てられて行う能動的な仕事のことです。

 

もしもそうだとすると、実は産業は失われるどころが新しいものが生まれる可能性が高く、技術革新が進むこともありえるのではないでしょうか?

(ただ、ひとびとの「趣向」に左右される可能性が高いので、失われる産業や技術もあるとは思います。ちょっと片寄った方向にいってしまったり、とか。)

 

そして、ベーシックインカムを導入し、最低限度の生活必需品を確保したうえで、日々を充実させるために活動することが、実は第一の問題点であった「社会保障費等の財源確保」にも、結果的につながっていく可能性があると思います。

日々を充実させるための活動は、充分「仕事」として成立し得るからです。

そしてまた、ひとびとは獲得できた楽しく充実した日々を、少しでも継続したいと思うでしょう。

そのために必要な社会貢献や納税を、ひとびとは積極的に、受け入れるのではないでしょうか?

 

ベーシックインカムが導入されるからといって、人々が働かなくなる、納税しなくなる、と考えるのは早計です。

むしろ人々は、自らのために働き、自らのために納税するようになる可能性が高いのでは?という結論も導けそうですよ。

 

もちろん、そうはならないかもしれません。

のんびりごろごろと寝ていたい。

医療も介護もいらない。

人生五十年でいい。

そんな考えが広まる可能性もあります。

 

つまり、「哲学」の問題だと思うのです。

なにを人生の課題にするのか。なにを人生の最優先事項とするのか。

計画された安定を求めるのか。

日々の充実を求めるのか。

充実した日々とその継続を求めるのか。

安穏とした日々を求めるのか。

どう、生きるのか。

 

 

なお、前述の星新一の作品では「ひとびとが労働しているふりをして、日々をやりすごそうとしている」といったことが示されている、と書きました。

これは、「哲学」がないままに労働を奪われてしまうと、「日々、何をしていいのか分からないため、働いているふりをして、毎日をやり過ごすしかない」ということに陥ってしまうであろう、という、星新一の警鐘なのでは?と思ったりしたわけなんです。

  

さて、「哲学の問題が重要」という主張に加えてですね、もうひとつ私が是非言いたいのは、社会インフラや技術などを「公共のもの」と捉えることができるかどうか、という点なんです。

 

「AI」を社会のすべての人に還元しよう、という考え方がないと、「AIを持つ者」と「持たざる者」との二層社会になってしまいます。

そうなれば、ベーシックインカムという発想は成立しないだろうし、「真の仕事」など、どだい無理な話になってしまうでしょう。

「AIの独占」つまり「富の独占」という考え方は、「自分がしたことで誰かが喜んでくれる」という「真の仕事」の対極に位置するものですからね。

 

そしてこれは、日本国内だけの問題ではなく、世界各国との問題でもあるわけです。

「AI」というインフラを、やがて世界中に広めよう、という発想があってこそ、はじめてベーシックインカムによる「偽りの労働からの解放と、真の労働の獲得」が実現できるのだと思います。

もしも実現したら・・ワクワクしますね!

 

そのような理性をもって「AI」を運用すれば、「差別のないワクワクする世界」に一歩近づくかもしれませんが、もしもそうでない場合は、第二次世界大戦前の「持つ国と持たざる国との闘争」が再現されてしまうかもしれない、という危険すら孕んでいる・・

そんなふうに思ったりもします。

どうなのでしょう?

 

 

 

というわけで、私としての結論は、

成熟した現代社会においては、ベーシックインカム導入を検討する余地がある。

しかし、そのまえに、社会構成員の「哲学」を掘り起こし、「どのような生き方を志向するのか」を、真剣に議論する必要がある。

また、成熟した社会は、その成熟した社会を守るためにも、途上社会を支援し、「世界全体」で技術やインフラを共有し、やがては「全世界的な新たな社会構造」の構築を目指していくべきである。

というところにたどり着いてしまったんですが、如何でしょうか?

 

暇に飽かしてちょっと思いついただけなので、自分でももう少しあれこれと考えてみたいとも思いますが、皆さんのご意見はどうでしょう?

宜しければ、是非ご教授ください!

 

というわけで、すみません、なにやらすっとんだ記事になってしまいましたが、お許しくださいね!!

 

以上、現代社会、本当のことをいっちゃうと、実は働く必要はないのかな?でした!!

(「働く必要がない」、というより、「働くことを強制される必要はない」、というべきですよね?)

ここまでお読みいただきまして、誠にありがとうございました!!