国分坂ブログ

「歩くこと」「考えること」が好きな、国分坂です!

三つのスタイルの「正義」を読み解く!あなたはどの「正義」がお好き?

みなさん、こんにちは~!国分坂です!

仕事がバタバタしていて、なかなかブログが更新できずにすみません~

 

ところでみなさん、仕事などが忙しい時、どのようにストレス解消をしていますか?

私は主に、次の二つのことをしております!

 

1.仕事とは全く関係ない学術書を読む

2.普段はあまり観ない、アクション系映画を観る

 

1はですね、仕事と全く関係ない濃いめの情報をがっがっと頭に入れるんですね。

そうすると、仕事の情報でいっぱいだった頭が強制的に更新され、リフレッシュするんですね。いわば、「毒を以て毒を制す」、です!

 

 

でも、1ばかりやっていると、心が折れてしまうんですよ・・

そんなときには、2ですね。

頭空っぽにして愉しめそうな、ハリウッド系の映画をアマゾンプライムで鑑賞しています!

 

 

・・いえ、今日のお題は「ストレス解消」ではありませんでしたね。

ごめんなさい。

 

今日のお題は、「三つのスタイルの「正義」を読み解く!」です。

お付き合いを頂ければ幸いです!

 

 

三人の賢人から教わる三つの「正義」

先日、本棚を整理していたら、懐かしい良書が出てきました。

マイケル・サンデル教授の『ハーバード白熱教室講義録』(上・下)です。

これ、面白いですよ。

ちなみに、この『ハーバード白熱教室講義録』を書き直したものが、『これからの「正義」の話をしよう』ですが、両方とも良書です。

もしも未読でしたら、是非どうぞ。おススメですよ~!

 

 

 

  

さて、マイケル・サンデル教授の授業にも出てきますが、本日は「三人の賢人」にお知恵を拝借したいと思います。

ご登壇いただきましょう!

 

まず最初は、ジェレミー・ベンサムさんです。

ベンサムさんは「功利主義」という哲学を展開しました。

ベンサムさんに一言、頂きましょう!ベンサムさん、一言お願い致します。

 

ベンサム「・・最大多数の、最大幸福」

 

・・ありがとうございました!ベンサムさんでした!

 

次にご登場いただくのは、ロバート・ノージックさんです。

ノージックさんは、リバタリアニズム、すなわち「自由原理主義」「市場原理主義」の哲学者として有名です。

ノージックさんに、一言頂いてみましょう。ノージックさん、如何でしょうか?

 

ノージック「国家による干渉的立法、道徳的立法は、個人の自由への侵害である。また、国家による課税は、人々に強制労働を課するに等しい。我々が正当に取得した権利は、我々のものだ。いかなる理由をもってしても、個人の権利を侵害することは、その個人を奴隷にすることに等しい。なぜなら・・」

 

あ、ありがとうございます!とりあえず、そのへんで!!

すみません、続きはその、控室の方で、また、後で。すみませんねえ~。

ノージックさんでした!

 

最後にご登場いただきますのは、イマヌエル・カントさんです。

カントさんは「定言的哲学理論」を展開した哲学者です。

カントさんのお話はかなり難解とお聴きしておりますが、要点を簡単にまとめて頂きましょう。

カントさん、ごく簡単なポイント解説を頂けますか?

 

カント「要点は三つです。一つ目、その行為の動機は義務に基づくものであること。二つ目、その行為が自身で与えた法則に従ったもの(自律的行動)であること。三つ目、その行為が、それ自体において良いものであり、理性と一致する意思のために必要な行為(定言的)であること。この三つを満たす行為は、道徳的原理に基づく行為です」

 

・・ありがとうございました・・ カントさんでした!

(みなさん!大丈夫ですよ!カントさんが退席されたら、ちゃんと説明しますから、ちょっとだけお待ちください!)

 

・・難しいですか?難しいですよね・・

でも、難しいからといって素晴らしい知識を借用しないのはもったいないものです。

どうでしょうか、多少間違っていても構わないと思うんです。この際、大胆に解釈して使ってしまいませんか?

誤りを怖れることなく、三人の賢人たちの考えを、バッサリと端折って、簡単に丸めてしまいましょう!

(・・さて、大丈夫ですね、三賢人は退席されましたよね・・・お三人がいる前で解説するなんて勇気は、国分坂にはありませんよ~)

 

超!簡単解析、「功利主義」「自由原理主義」「定言的哲学理論」

まず、ごく掻い摘んで言ってしまいますと、この世界で主張される「正義」は、「功利主義」「自由原理主義」「定言的哲学理論」、この三つの考え方に集約されるといっても過言ではないようです。

この三つのどれかを根拠にしている、もしくはこの三つのうちの二つ、もしくは三つが混ざっている、そのように分析することができるようなのです。

 

なので、この三つの考え方を知っておくと、誰かが言っている「正義」が、「功利主義」的なのか、「自由原理主義」的なのか、それとも「定言的哲学理論」的なのか、見えてくるわけですね。

 

順に、確認してみましょう。

まず、「功利主義」ですね。

これは、ベンサムさんが言っていた「最大多数の、最大幸福」という言葉が、その主張を端的に表現しています。

つまり、何かを行うときには、なるべく多くの人が、なるべく最大の幸福を享受できるように行動すべきだ、という考え方ですね。

ベンサムさんは、苦痛よりも喜びを、受難よりも幸福を、なるべく多くの人が、なるべく最大限に感じられるような生き方をすべきだ、とも言っています。

誤謬を恐れずに言えば、ベンサムさんがいう正義は、「なるべく多くの人が、なるべく最大限の幸福を感じられる行為にある」、ということになるでしょう。

 

次に「自由原理主義」についてです。

この考えは、個人の権利を非常に重要視する考え方です。

不適切に取得した権利は守られる必要はないが、適正に取得した権利は、たとえ国家であっても侵害してはならない、という考えです。

「自由原理主義」からすると、富の再分配のために行う課税も、個人の権利を侵害し、個人を国家の奴隷にしてしまう不当な行為、とみなされます。

結構過激な考え方にもみえそうですが、アメリカでは近年かなり支持されつつある考え方のようですね。

 

ノージックさんの「自由原理主義」によれば、「自分は自分のためにあり、自分を所有するのは自分である。誰にも侵害・阻害されることなく、自分の権利が尊重され、自分の権利を自由に処分できる状態こそが、正義である」ということになるでしょうか。

 

最後が「定言的哲学理論」ですね。

これ、なかなか難しいのですが、物凄く端折ってしまいますと、理性に基づき普遍的な価値観で導き出された「絶対的な道徳的行為」というものがあるはずであり、それに基づいて行動することこそが、正しい行いである、ということのようです。

 

たとえば、「功利主義」は「最大多数の、最大幸福」ということで、「ある行為」が大多数の人のためにはなるけど少数の人のためにはならないという場合、原理的に考えれば、少数の人を切り捨ててでも大多数の人のためにその行為を行う、という結論を生み出します。少数の人は犠牲として、言葉を換えれば「道具」として、大多数の人のために利用されるわけです。

「定言的哲学理論」は、このことを強く批判します。

カントさんは、「その行為が別の何かのための「手段」としてのみ有効であるのなら、(それは仮言的であり、)道徳的な行為とはいえない。道徳的行為とは、その行為がそれ自体に普遍的価値があり、理性に合致した行為でなければならない」というのです。

 

難しいので、たとえ話をあげてみますね。

たとえば、私が横断歩道の前で立ち往生しているご老人を見つけたとしましょう。

その時私が、「困った人がいれば手を貸すのは当然だ」と思い、そのご老人に声をかけて、手を取って横断歩道を渡ったとしたら、その行為は「定言的哲学理論」的にいうと道徳的行為であり、正義の行い、ということになります。

その「ご老人の手を取って横断歩道を渡る」という行為は、「困った方がいれば手を貸す」というままの行為であり、普遍的な価値があり理性に合致した行為、といえるからです。

一方で、そのとき私が、「このご老人はお金持ちのようだから、ここでお近づきになれば、ひょっとして良いお客さんになってくれるかも!」などと考えて、そのご老人の手を引いて横断歩道を渡ったとしたら、どうでしょうか?

「ご老人の手を引いて横断歩道を渡る」という行為が、「ご老人にお近づきになるため」という目的のための「手段」となってしまい、結果、その行為は「定言的哲学理論」的にいうと道徳的な行為ではない、ということになります。

 

そして、カントさんからすれば、「功利主義」は、人の行為を社会全体の「道具」や「手段」とみなし得る考え方であるため、「功利主義」から生じた行為は道徳的な行為とはいえない、ということになるわけです。

 

カントさんがいう「定言的哲学理論」からすれば、「理性と普遍的な価値観から生じた絶対的な道徳的行為を、自分自身の良心に従い、義務感を持って行うことこそが正義である」ということになりそうです。

 

ちょっと「まとめ」

「功利主義」における正義

「なるべく多くの人が、なるべく最大限の幸福を感じられる行為」

 

「自由原理主義」における正義

「誰にも侵害・阻害されることなく、自分の権利が尊重され、自分の権利を自由に処分できる状態」

 

「定言的哲学理論」における正義

「理性と普遍的な価値観から生じた絶対的な道徳的行為を、自分自身の良心に従い、義務感を持って行うこと」

 

三つの正義から、たとえば「ヴィーガニズム」を考える

適切な例えかどうか分からないのですが、以前、ちょっと話題になった「ヴィーガニズム」を題材に上げてみたいと思います。

「ヴィーガニズム」とは、ごく簡単にいうと「絶対菜食主義」といった感じでしょうか。基本的に「肉食をしない」という主義のようです。

「ヴィーガニズム」にも様々な主義・主張があるようで、たとえば、肉食をしない理由が「家畜といえど尊い生命体である以上、残虐に殺されるべきではない」といったものから、「動物を食べるための畜産業は環境に対する悪影響が大きく、持続可能な社会創生のためにはマイナスである」といった考え方まであるようです。

 

この「ヴィーガニズム」に関して、様々な議論が展開されているようですが、ちょっとここで、前述した「三つの正義」を当てはめて考えてみよう、というわけです。

 

「ヴィーガニズム」に関連する意見として、三つのものをあげてみます。

 

【その1】

「動物だって生き物だ。殺すのは可哀そう。肉食はやめるべき!」

 

【その2】

「畜産業は持続可能性が低い。よって、肉食はやめるべき」

 

【その3】

「お肉は、美味しい。だから、是非食べたい!」

 

さて、以上3つの意見があるとして、仮にこれらが全て「正義」であるとした場合、以上3つの意見は、それぞれ次のどの哲学的主義・理論に基づくものといえるのでしょうか?

 

【A】功利主義

【B】自由原理主義

【C】定言的哲学理論

 

正解は、おそらく次の通り。

【その1(動物可哀そう)】は【C(定言的哲学理論)】

【その2(畜産業は持続せず)】は【A(功利主義)】

【その3(お肉食べたい!)】は【B(自由原理主義)】

 

もっとも、「動物が可哀そうだから食べるべきではない」という主張が、「理性と普遍的な価値観から生まれた絶対的な道徳的行為」によるものか、というと、個人的には違うようにも思えるのですが、少なくとも、そのように主張される方は、絶対的な道徳的行為と捉えている可能性が高い、ということなのです。

 

なぜこのようなお話をしてみたかといいますと、つまり、様々な主張、自分とはまるで異なる主張であっても、それぞれにある種の「正義」があり得るのだ、ということを考えてみたかったわけです。

 

正直、私には「肉食禁止」はキツイです。

そろそろ夏ですからね、「焼き肉とビール」などと言われますと、もう困ってしまいますよ。

 

しかし、「肉食禁止!」とおっしゃる方々にも、やはり「正義」がおそらくあるんだと思うのですね。

なにも、私の「焼肉とビール」の楽しみを奪って笑ってやろう、なとどいう意地悪な気持ちで、「肉食禁止」を訴えているのではないはずなのです。

ヴィーガンの皆さんにも、主張したい「正義」があるはずなんです。

もしかしたらその「正義」は、カントさんの「定言的哲学理論」に基づくものなのかもしれないのです。

もっとも、私の「焼肉とビール万歳!」にも、ノージックさんを味方とする「自由原理主義」が根底にある、といえるのかもしれません。

 

「正義」と「正義」とは、ぶつかっても解決はしません。

「正義」と「正義」は、ともに尊重しあうものなんだと思うのですね。

ともに手を取り合うものなのです。

 

そして「3つの正義」には、それぞれ特徴があるんです。長所もあれば、弱点もある。

今回はそこまで言及できませんが、功利主義、自由原理主義、定言的哲学理論の長所と弱点とを理解すると、自分や相手の主張する「正義」の、どこが良いのか、どの点に問題があるのか、ということが見えてくるのだと思います。

 

双方の「正義」を尊重しながら、長所は互いに伸ばし、弱点は双方で補いあいながら、双方の「正義」を共存させ、相互補完させることこそを、我々は目指すべきなのでしょう。

 

そんなことを、考えてみました。

 

あと、自分の「正義」のスタイルが、功利主義、自由原理主義、定言的哲学理論の、どの傾向にあるのか、ということも、ちょっと意識してみると面白いかもしれません。

どれか一つ、というわけではないはずですが、どれかが強く、どれかが薄い、という傾向はあるかもしれませんよ。

そして、家族や恋人、友人の「正義」の傾向も知っておくと、争い回避につながるかもしれませんね。

 

「まあ、定言的哲学論のひとだからなあ、仕方ないよねえ」とか、

「出た!功利主義!最大多数の最大幸福ってか!」と、内心でガッテンできれば受け入れやすいかもしれませんよね。

どうでしょうか?

 

以上、「三つのスタイルの「正義」を読み解く!あなたはどの「正義」がお好き?でした!

ここまでお付き合いを頂きまして、誠にありがとうございました!