「腐海」と「王蟲」を考えます。生命とは、一体なんなのでしょうか?【ナウシカ学②】
みなさん、こんにちは。国分坂です。
さて、今回は【ナウシカ学②】として、「腐海」と「王蟲」を考えたいと思います。
「腐海」と「王蟲」、『風の谷のナウシカ』における最も重要な存在といえる両者ですよね。
この最重要テーマに、正面から切り込んでみよう、というわけなのです。
お付き合い頂ければ幸いです!
お約束
まずは、毎度ながらの「お約束」です。【ナウシカ学】を進めていく上での、私なりのルール(お約束)は下記3点です。宜しくお願い致します。
1.テキストは徳間書店『風の谷のナウシカ』(全7巻)を使用する。
2.先行研究文献は、基本的には目を通さない。上記1のみを使用し、独自の考え方を、まずは展開する。
3.皆様のご意見・ご感想を頂きながら、学問体系まで昇華させることを目指す。
腐海とは
最初に「腐海」について、考えていきたいと思います。
『風の谷のナウシカ』の主要な舞台にして、最大のテーマを内包する「腐海」。第1巻26頁には、次のような説明があります。
「腐海とは・・ 滅亡した過去の文明に汚染され不毛と化した大地に生まれた新しい生態系の世界をいう。 蟲たちのみが生きる有毒の瘴気を発する巨大な菌類の森に、いま地表は静かに覆われようとしていた。」
・新しい生態系の世界
・蟲たちのみが生き、有毒の瘴気を発する、巨大な菌類の森
端的に「腐海」を説明すると、このようになりますね。
さて、古い生物群が新しい生物群にとって代わられた例は、この星の歴史に幾度となくあったことです。しかし、その場合、新旧の生態系の交替は、ゆるやかな変化として行われたきました。
ところが「腐海」は違う、とユパはいいます。
腐海一の剣士といわれるユパは、半生をかけて、「腐海」の謎を探し求めてきました。
ユパは、「腐海」の植物と蟲たちで構成される「新しい生態系」が古い生物群にとって代わろうとする姿は、過去に行われてきた生態系の交替とは全く異なる、といいます。
「腐海」を旅したユパは、王蟲の群れが胞子をまき散らしつつ人間の村を襲うのを何度となく目撃してきました。その襲撃を見たユパは、「腐海の生物は、旧世界のすべての動植物を滅ぼそうとしているかのようだ」といいます。
つまり、新しい生態系である「腐海」の生物たちは、意図的に、旧世界の動植物を滅ぼそうと行動しているようにみえる、というのです。
結果的に新旧の生態系が交替するのではなく、明確な目的意識をもって新旧の生態系を交替させようとしている、というわけです。
トルメキアの神官たちは、この世を汚した「人間たちへの罰」として、神が与えた業苦が「腐海」である、と説きます。
しかし、ユパはその説明に懐疑的です。世界を汚した人間を罰するために、なぜ、人間よりもはるかに古い生命の歴史をもつ草木や鳥まで、滅ぼす必要があるのか?と。
ユパは、若い頃、一度だけ「腐海」の深部にさ迷いこんだことがあります。
そのとき彼は、「腐海」の深部に、清浄な地が広がっていることを知りました。
「腐海」の深部は、石化した菌類による空洞の世界が広がっていました。石化した菌類は、無毒な砂をつくりだしていたのです。
ユパは、それらの経験から、「腐海」は汚染されたこの星を浄化するために生まれてきた、という仮説を導き出しました。
そして、ナウシカも、ユパとは異なる論法で、この仮説に達していました。「腐海」をみてまわっていたナウシカは、観察と推論により、「腐海」の植物が毒(瘴気)を出すのは、土が汚れているためである、と見抜いたのです。
彼女は、きれいな水と空気のなかで「腐海」の植物を育ててみて、その仮説の裏付けに成功します。
きれいな水と空気のなかでは、「腐海」の植物たちは瘴気を出さず、花すら咲かせます。そう、「ごく普通の植物」に過ぎないことを明らかにしたのです。
汚れているのは土であり、腐海の植物は、土を浄化するために瘴気を出していたのです。
さて、ユパとナウシカが考えた仮説が真実であれば、人間たちは滅びるしかない、ということになってしまいそうですよ。
その営みのなかで大地を穢し続ける人間たちは、この星にとって「穢れそのもの」ということになるからです。
この星が、穢れを浄化するために「腐海」を創り出したとするならば、この星は、穢れの根源である人間を滅ぼそうとするでしょう。
しかし、ナウシカは疑問を持つのです。
「腐海」は、旧世界を滅ぼし、やがては自らも、石と化して滅びていきます。
「腐海」が滅びたのちには、清浄な世界が広がることになりますが、そこは旧世界の動植物はもちろん、新しい生態系の蟲たちも存在しえない世界です。
本当に「腐海」は、自分を含めた全ての生き物を滅ぼすために、誕生したというのでしょうか?
「腐海」の活動は、ただ滅びゆくだけの道であり、「腐海」の未来には、ただ滅亡があるのみ、というのでしょうか?
「腐海」も生き物です。にも関わらず、「生きること」そのことが滅びとなり、その営みにより生き物が存在しない「虚無の世界」を作り続けていく、果たしてそんなことがあり得るのでしょうか?それは「生命の本来」に、そぐわないのではないでしょうか?
ナウシカは、疑問を持ちます。
第7巻目、墓所の貯蔵庫の主の話を聞くなかで、ナウシカの疑問は氷解していきます。
「世界と自らとを滅ぼす」という「一定の目的」をもって生まれてきた生態系など、やはり「生命の本来」にそぐわないのです。
そう、「腐海」はこの星が生み出した生態系ではなかったのです。
「腐海」は、人間が作り出した人工生命体だったのです。
人間は、自らが汚染したこの世界を清浄にするために、「腐海」を作り出したのでした。有毒物質を結晶化させ安定させる装置として、「腐海」は作られたのです。
王蟲とは
「腐海」とともに考える必要があるのが「王蟲」です。「腐海」には沢山の蟲たちが生息していますが、その蟲たちに君臨するのが「王蟲」です。
「王蟲」は、体が大きいというばかりではなく、高い知能と深い精神とを有する生き物であり、その意味でも他の蟲たちとは格別の存在として描かれます。
「王蟲」は蟲たちの指導者であり、腐海を世界に広げていく実践者でもあります。
人間を襲う際には他の蟲たちを従え先頭に立ち、「腐海」を突出して死んだ「王蟲」の亡骸は、「腐海」の植物の苗床となります。
第5巻149頁では、ナウシカが「王蟲の血の中に(腐海の植物の)成長を促す何かがあるのかしら」と推測しています。
おそらく、このナウシカの推測は正しいのでしょう。既にみてきたとおり、「腐海」は人間の手で作られた装置ですが、「王蟲」もまた、人間によって作られた人工生命体なのです。
おそらく、「腐海」の頭脳と手足の役割を担っているのが、「王蟲」なのでしょう。そして、「王蟲」の身体には「腐海」の苗床としての機能が、与えられているのでしょう。
「腐海」を作った人間たちは、「腐海」を守り、かつ「腐海」を世界に広げていく実行者として蟲たちを作り、その蟲たちを束ね行動するものとして「王蟲」を作ったのでしょう。
「王蟲」を筆頭とする蟲たちも、「腐海」同様、この世界を浄化するための装置として、人間の手により作られたのです。
「王蟲」に関して特筆すべき点は、その高い知能と深い精神でしょう。
その高い知能と深い精神の根源は、「王蟲」に備わる「時空ヲ超エテ心ヲ伝エユク」能力(第1巻127頁)にあるのでしょうか。人間の知能と精神とを、はるかに凌駕した存在といえます。
そしてまた「王蟲」には、「個にして全、全にして個」という意識があります。
そのため、「全」を守るために、やすやすと「個」である自らを犠牲にするのです。
ただ、どうやらこの「個にして全、全にして個」の意識は、「王蟲」特有のものではなく、蟲たち全体が共有する意識のようです。
仮説:「全にして個、個にして全」は人為的操作による意識か?
さて、ここでちょっと私の仮説を述べさせて頂きます。
「蟲たちの、全にして個、個にして全という意識の「おおもと」は、人間が蟲たちを作った際に根付かせた、人為的なものなのではないだろうか」、という仮説です。
旧世界を滅ぼし、やがては自ら滅んでいく「腐海」とともに、蟲たちにも「滅びゆく定め」が与えれました。
その定めを全うするため、「全体のために個を犠牲にする」という意識が、人為的に、本能として蟲たちに植え付けられたのではなかろうか、という仮説です。
もしも高い知能を持つ「王蟲」に「自我」が芽生え、利己的な行動をし始めてしまったら、世界の浄化は望めません。
その心配を払拭するために、人為的に、「利他的な行動」を採るよう蟲たちは作られたのでは、という推測です。
仮にそう考えてみると、ここで疑問が湧いてきます。
「腐海」や「王蟲」をはじめとする蟲たちは人工生命体ですが、実は、ナウシカたち人間も、人間の手で作り変えられた「人工生命体」だったのですよね。
このことは、第7巻の129頁から131頁、ナウシカと墓所の貯蔵庫の主との会話で明らかになります。
人間も、人為的に作り変えられた存在だったのです。
ところが、作り変えられた人間たちには、「全体のために個を犠牲にする」という意識が植え付けられているとは、まるで見受けられません。
第7巻の132頁で、ナウシカは「計画では今は再生への道程のはずでした。けれど、現実には愚行はやまず、虚無と絶望は更に拡がっています」と述べます。
ここでいう「愚行」とは、自分の欲望を優先するあまり、世界を破壊してしまうことをいうのでしょう。
もしも「作り変えられた人間」たちに、「全体のために個を犠牲にする」という意識が本能として植え付けられていたら、このような愚行を繰り返すことにはならなかったのではないでしょうか?
世界を浄化させるつもりがあるなら、作り変えた人間にこそ、「全体のために個を犠牲にする」という意識が、必要だったと思うのですが。
世界を再生させるために人間を作り替えた人々は、作り変えた人間に「全体のために個を犠牲にする」という意識を、植え付けなかったのでしょうか?
それとも、植え付けはしたが、作り変えらえた人間たちにはその意識が発芽せず、従来通り「自我」の方がより強く発芽し続けた、ということなのでしょうか?
第7巻目の131頁には、「火の七日間の前後、世界の汚染がとり返しのつかぬ状態になった時、人間や他の生物をつくり変えた者達がいた。同じ方法で、世界そのものも再生しようとした・・有毒物質を結晶化して、安定させる方法。千年前に、突然攻撃的な生態系が出現した原因・・」とナウシカが語るシーンがあります。
これを見ると、先に人間が改造され、その後、「腐海」や「王蟲」たちが作られた、という時系列になっていることがわかります。
瘴気に肌をさらしながら、わずかなマスクだけでも平気な体に人間を改造したうえで、「腐海」を作った、ということですね。
なので、人間を改造した時には「全体のために個を犠牲にする」という意識の植え付け技術は未だなく、蟲を作る時にその技術が開発された、という推論も、一応立つのかもしれません。
しかし、「墓所」の存在を考えると、この推論は弱いように思えます。
仮に意識の植付技術が人間改造時に無かったとしても、用意周到な「墓所」の主であれば、蟲を作った後に、あらためて人間を作り変えることが出来たのではないでしょうか?
蟲で成功した「全体のために個を犠牲にする」という意識付けを、再度人間を改造することで、行えたのではないでしょうか?
そう考えると、単なる技術的な問題で意識の植え付けができなかった、という推論は弱いと思わざるをえません。
繰り返しになりますが、世界の浄化を願うなら、人間にこそ「全体のために個を犠牲にする」という意識が必要であったはずだからです。
そうすると、作り変えられた人間にも蟲たち同様に、「全体のために個を犠牲にする」という意識付けがなされたが、しかし、人間ではその意識が発芽しなかった、と考えるのが順当なのではないでしょうか?
ところで、そもそも生命には、「全体のために個を犠牲にする」という機能が備わっています。「アポトーシス」などが、その代表例となりますでしょうか。
「アポトーシス」とは、多細胞生物において、個体の維持保全を目的とし、細胞が自ら死ぬ機能をいうそうです。まさに「全体のために個を犠牲にする」機能ですね。
つまり、自らを守ろうとする「利己的意識」も、全体を守るために自らを犠牲にする「利他的意識」も、もともと生命が持っている機能です。
(より正確にいえば、生命が進化の中で獲得した機能、でしょうか。)
「王蟲」ら蟲たちは、「利他的意識」という生命がもともと有する機能をより尊重し、人間たちは、「利己的意識」という生命がもともと有する機能をより尊重した、ということなのかもしれません。
すなわち、蟲を作り出した人間たちは、装置として機能させるために、「利他的行動」を採るよう誘導しました。その誘導が功を奏したのかどうかは分かりませんが、蟲たちは「利他的意識」を強く持ち、「利己的行動」を採るようになりました。一方、作り変えられた人間たちにはその誘導が効かず、人間たちは「利己的意識」を強く持ち、「利己的行動」を採り続けた、ということなのではないでしょうか。
このように考えてみると、結局のところ、蟲や人間を作った者達の「作為(誘導)」はたいして成功しておらず、実際には、蟲は蟲の生命の本質として「利他的意識」を自ら採用し、人間は人間の生命の本質として「利己的意識」を自ら採用した、ということなのかもしれません。
このことは、第7巻目の198頁、ナウシカが「墓所」の主に対していう、「私達の身体が人工で作り変えられていても、私達の生命は私達のものだ。生命は生命の力で生きている」というセリフに通じているようにも思われます。
(もしもこのように考えると、ナウシカが「墓所」を破壊するまでもなく、実は、人間たちは自らの力で「墓所」の軛から離れつつあり、自らの生命をすでに生き始めていたが、ナウシカが「墓所」を壊すことでそれを更に促進した、という見方ができるのかもしれませんね。)
森はひとつの聖なる生命体
「利他的行動」を採る「王蟲」や「腐海」は、ナウシカや森の人セルムなどに神聖視されますが、「利己的行動」を採る人間は、愚かなものと断じられます。
そして森の人セルムは、「腐海」や「王蟲」が人間によってつくられた、というナウシカの言葉に、ひどく動揺するのです。
「腐海」の森を聖なるひとつの生命体と捉え、「王蟲」を神聖なる生命と捉える森の人からすると、それら聖なるものが愚かな人間によってつくられた、などという考え方は、到底受け入れ難いのでしょう。
しかし、ナウシカはセルムに言います。(第7巻目133頁)
「たとえ、どんなきっかけで生まれようと、生命(いのち)は同じです」
「精神の偉大さは、苦悩の深さによって決まるんです」
「生命は、どんなに小さくとも、外なる宇宙を内なる宇宙に持つのです」
・・難しいですね。禅問答のようですよ。
最初の「どんなきっかけで生まれようと、生命は同じ」というのは、「腐海」も「王蟲」も人間も、ヒドラも粘菌の変異体も、等しく同じ生命だ、ということでしょう。
そして、次の「精神の偉大さは、苦悩の深さにより決まる」とは、その生命体がその生をどのように受け止め、悩みと苦しみとを乗り越えるかで、その生命体の厚み、偉大さが変わってくるのだ、といっているのでしょうか?
最後の「生命は、どんなに小さくても、外なる宇宙を内なる宇宙に持つ」とは、すべての生命はその内側に宇宙(内的世界)を宿し、そこに外なる宇宙(外的世界)を取り込む存在である、といっているのでしょうか?
これらを一体として見てみると、つまり、人工生命体であろうとなかろうと、等しく生命は、この素晴らしい外的世界と同等の、内なる宇宙を有している。生命は、この過酷な外的世界を生き抜き苦難を乗り越えることで、より豊かな内的世界を育んでいく。内なる宇宙の豊かさ、大きさこそが、その生命体の偉大さである。
そして生命は、内的世界を介して、互いに繋がり合っている。
より豊かで大きな内的世界を有する偉大なる生命体は、内的世界を通じ、より大きな影響を他の生命体たちに及ぼしていく。
もしかしたら、そのようなことをナウシカは言っているのではないでしょうか?
またナウシカは「世界を清浄と汚濁に分けてしまっては、何も見えない」といいます(第7巻130頁)。
同じように、聖なる「腐海」と「王蟲」、愚かなる「人間」、という対立軸を用いてしまっては、「生命」を捉えることが出来ません。
世界には清浄と汚濁があり、生命は神聖さと暗愚さを兼ね備えるものなのでしょう。
それらをともに愛でて受け入れ、悩み、苦しみ、乗り越えていくことが、すなわち「生きること」なのだと、ナウシカは説いているようです。
そもそも、「ひとつの聖なる生命体」からすれば、利他的意識を有するものたちも、利己的意識を有するものたちも、共に等価値な存在なのでしょう。そこに「聖」も「愚」もありません。
生命が選択した主要な戦略のひとつが「多様性」である以上、利他的意識を強く持つ種族も、利己的意識を強く持つ種族も、等しくともに重要な存在でしょう。
そんなふうに考えてみると、「ひとつの聖なる生命体」には、「腐海」の植物や「王蟲」などの蟲、粘菌の変異体のみならず、「人間」すらも含まれる、ということになるのだと思います。
つまり、人間も人工生命体も含め、あらゆるすべての生命体は、その有する内なる宇宙を通じて繋がり合い、「ひとつの聖なる生命体」を構成している、ということになるのでしょう。
そして、この星に誕生した様々な生命体、はるか昔に滅亡した種族を含め、すべての生命体が、「ひとつの聖なる生命体」を構成しているのだと、この物語は説いているのだと思うのです。
「腐海」や「王蟲」たち蟲は、「利他的意識」を有し、「利他的行動」を採るために、容易に「ひとつの聖なる生命体」に達することが出来るのかもしれません。
なぜなら、「利他的意識」は他者を受け入れ同化しようとする意識であり、他者という外的宇宙を自らの内的宇宙に導く意識である、といえるからです。常時「利他的意識」を有していれば、自他の境は消えていき、全にして個、個にして全という、「ひとつの聖なる生命体」に自然と合致していくのでしょう。
(これは夏目漱石先生の「則天去私」と同じですかね!?)
しかし、人間は、「利己的意識」を有し、「利己的行動」を採るために、常に疎外感に苛まれ続けてしまいます。
まるで粘菌の変異体のように、不安にうろたえ悲鳴をあげて、所かまわず他者を攻撃しまくるのです。
しかし、「腐海」や「王蟲」たち「ひとつの聖なる生命体」は、そのように暴走し続ける者であっても、実は愛情をもって受け止め、迎え入れようとしてくれていました。
人間は、この星を蝕むガンや汚濁などでは決してなく、やはり神聖なる生命体であり、「ひとつの聖なる生命体」を構成する一部だったのです。
「自我」が邪魔をして「全にして個、個にして全」という感性を体感しにくい可哀そうな生命体ではありますが、生きて悩みや苦しみをのり越え、泥にまみれながらも内なる宇宙を育んでいく中で、やがては「全にして個、個にして全」の体現に至るのが人間であると、この物語は教えてくれているのではないでしょうか?
ゆえに、「墓所」の主が計画する「浄化」は、ナウシカに否定され破壊されてしまいす。
「浄化」という考えは、いわば「外なる宇宙を拒絶し、内なる宇宙に取り込まない」という考え方であり、生命の本来に背く考え方だからでしょう。
ナウシカは、「墓所」を破壊した自分に恐れおののきます。なぜなら、「墓所」も生命だったからです。
しかし、「墓所」はナウシカにより破壊されたことで、不死から解放され、「ひとつの聖なる生命体」に回帰できた、という見方もできるのではないでしょうか?
「墓所」が不死を背負ったままであり続けたらなら、まるでガン細胞のように、他の生命との融合を拒み、自らを増殖させるだけだったのでしょう。
蟲が粘菌の変異体を食い殺し、また逆に食われて殺されて、ともに受け入れ合っていったように、「墓所」もナウシカに破壊され殺されることで生命の本来を取り戻し、「ひとつの聖なる生命体」に回帰できたのではないでしょうか。
まとめ
いやはや、やはりテーマが重すぎて、まだまだ考察しきれていない感が強いですね。
やはり「腐海」と「王蟲」は手強いです。
とりあえず、今回考察してみたことを、ざっとまとめてみますね。
・「全にして個、個にして全」という意識は、蟲や人間を作った者が、人為的に植え込んだ意識ではないだろうか?
・しかし、人為的操作は成功せず、蟲たちは自らの選択で「利他的意識」を選び、人間たちは自らの選択で「利己的意識」を選んだのではないだろうか?
・世界には清浄と汚濁があり、生命は神聖さと暗愚さを兼ね備えるものである。
・等しく生命は、この素晴らしい外的宇宙と同等の内なる宇宙を内在する。生命は、この過酷な外的世界を生き抜くことで、より豊かな内的世界を育んでいる。そして生命は内なる宇宙を通じて、互いに繋がり合っている。
・偉大な精神を有する生命体は、より豊かな内なる宇宙を有し、内なる宇宙を通じて、他の生命体たちにより大きな影響を与える。
・この星に誕生したすべての生命が、「ひとつの聖なる生命体」を構成している。
・「利他的意識」を有する蟲たちは、腐海の森と共に、容易に「ひとつの聖なる生命体」に合致することができた。
・「利己的意識」を有する人間たちは、世界との一体感を得られず、疎外感に苛まれ続けている。しかし、人間も生命である以上、「ひとつの聖なる生命体」の構成要素である。
・「利己的意識」を有する人間たちが、「ひとつの聖なる生命体」の構成員であることを体現するためには、苦悩しながらも生き続け、外なる宇宙を内なる宇宙に取り込み続けることが重要となる。そうすることで、やがて育まれた内なる宇宙において、他の生命と繋がっていることを知るのだ。
こんな感じでしょうか?
そして、まだよくわからない主要な論点が次のものです。
・「内なる宇宙」とは、一体なんなのか?本当に、あるのか?
・生命は、本当に「ひとつ」に繋がっているのか?
・・・生物学の「セ」の字も知らない国分坂には、難問過ぎる難問です。
哲学的な意味合いも強いとは思うのですが、でも、生命を語る以上、生物学的な整合性もある程度とれていないと、やっぱり納得ができないですよねえ。
これは、今後取り組むべき課題として、掲げておきたいと思います!
(哺乳類の胎児の形が、進化の過程を表しているように変化することに、もしかしてヒントがあったりします?生物学に詳しい方がいらっしゃったら、是非ご教授下さい!)
というわけで、まだまだ達していない感が大いにあるのですが、今回はこれくらいにさせて頂きたいと思います。すみません!(もう頭がくらくらです~)
是非ぜひ、皆さまの忌憚ないご意見ご感想を頂ければ幸いです!
以上、腐海と王蟲を考えます、生命とは、一体なんなのでしょうか?でした!
ここまで雑文乱文にお付き合いを頂きまして、誠にありがとうございました!