国分坂ブログ

「歩くこと」「考えること」が好きな、国分坂です!

「生命の本来」は増殖のみ。なのに、世界はこんなに美しい。【ナウシカ学②-3】

みなさん、こんにちは!国分坂です!

前回および前々回、【ナウシカ学②】と【ナウシカ学②-2】を発表させて頂きました。今回はこれらの続きとしての【ナウシカ学②-3】です。

 

ワケノワカラナイ私の考察というのか、混迷というべきかの文章に、お付き合いを頂いております皆様、本当に感謝感謝です!

 

なお、前回及び前々回の【ナウシカ学②】【ナウシカ学②ー2】はこちらです~!

 ↓

【ナウシカ学②】 

www.kokubunzaka.com

 

 【ナウシカ学②-2】

www.kokubunzaka.com

 

さて今回は、前回の【ナウシカ学②-2】で頂きました「ご意見」を基に、考察を進めていきたいと考えております!

 

 

 

 お約束

【ナウシカ学】を進めていく上での、私なりのルール(お約束)は下記3点です。

宜しくお願い致します!

 

1.テキストは徳間書店『風の谷のナウシカ』(全7巻)を使用する。

2.先行研究文献は、基本的には目を通さない。上記1のみを使用し、独自の考え方を、まずは展開する。

3.皆様のご意見・ご感想を頂きながら、学問体系まで昇華させることを目指す。

 

お寄せ頂きましたご意見!

「お約束」のなかでも述べさせて頂いておりますが、私のつたない考察を、なんとかして練り上げ「学問」まで昇華さたい!と願ってまして、そのために大変不躾ながら、「是非是非、皆様にご意見等々を頂戴したく!」とお願いしている次第です。

 

そしてなんと!!ご意見頂戴いたしました!!!

「苔とメダカ」様!! 

もう重ね重ね、本当にありがとうございます!!

 

(苔とメダカ様のブログ、私は勝手に「ナウシカの秘密の地下室」みたい!などと称しておりますが、もう本当に美しくて神秘的なんですよね。おかげでもう、私は完全に「苔」に嵌ってしまいましたよ~)

medaka-to-koke.hatenablog.com

 

苔とメダカ様、勝手にすみません!でも、万が一ご存知ない方がいらっしゃったら、是非訪れて頂きたい、と思いまして。

この記事では「生命」を考察しますが、是非、苔とメダカ様のブログで、「生命の美しさ」を今一度、ご確認して頂きたいのです。

 

ではでは! 今回は「苔とメダカ」様より頂きましたご意見から、考察を進めていきたいと思います!

 

 (苔とメダカ様、もしも私の考察が頓珍漢な方向に飛んでいっておりましたら、是非、ご指摘を頂ければと存じます!「知らぬ間にダメな生徒をなぜだか抱えてしまった・・」とおっしゃって頂けたなら、存外の喜びデス!)

 

【ご意見】

善と悪、利己的と利他的、本来存在しない概念ではないだろうか。「私達は血を吐きつつ、くり返し、くり返し、その朝をこえて飛ぶ鳥だ!」というナウシカも、同じだけ業が深いと感じる。

 

「利己的と利他的、本来存在しない概念」。

そうなんですか・・・そうなんですね!!!

そうか!そうなんだ!

善悪はもちろん、利己的というのも利他的というのも、生命の起こす現象を人間が「評価」しているに過ぎないことなのですね!

「生命の本来」には、利己的も利他的もないのだ!

 

ぱーっと目の前が開けた感じですよ!!

 

生命の本来

改めて「生命の本来」を考えてみたいと思います。

これについては、生物学をしっかりと学んだうえで取り組むべきなのですが、まずは直感的に述べていきたいと思います。

 

「生命の本来」は、「増殖と存続」ではないでしょうか?

(そして、増殖と存続のために代謝をしているのではないでしょうか?)

 

生物学を学んだうえで、改めてこれらをしっかりと見直したいと思いますが、ここでは一応、「生命の本来」は「増殖と存続」であるという仮説を立ててみたいと思います。

(生物学にお詳しい方、この仮説はダメですか?ダメであれば是非ご指導下さい!)

 

「生命の本来」が「増殖と存続」であるとすると、「生命」とは、「増殖と存続」を行う特性を持つ物質、と定義することができそうです。

 

「液体」が低温では凝固し、高温では気体化するという特性を有するように、「生命」は増殖し存続する。

「液体」が凝固し気体化することに「意味」や「価値」がないように、「生命」が増殖し存続することに「意味」や「価値」はない。

これが、「本来」なのではないでしょうか?

 

生命は、その特性として「増殖し存続」しているだけで、死滅することを否定しているわけではないし、拒絶しているわけでもありません。

ただ生命として存在した以上、「増殖し存続」するのみ。何らかの要因で死滅することもありますが、残っていれば、残った生命が「増殖し存続」するのみ。

これが、「生命の本来」なのかもしれません。

 

そして個々の生命体は、「増殖と存続」のために、様々な「機能」を手に入れました(例えば、「アポトーシス」という機能など)。

その「機能」を人間が「評価」したとき、「利己的」や「利他的」といった定義がなされるに過ぎない、ということなのですね。

 

「生命の本来」からすると、「増殖と存続」があるのみですから、自己が増殖しようが、他者が増殖しようが、同じことなのです。

たとえば自己(及び自己の子孫)の増殖のための行動を利己的、他者の増殖のための行動を利他的と定義してみても、「生命の本来」からしたら、自己も他者もどうでも良いことです。そこに「意味」も「価値」もありません。ただ存在する生命が、「増殖と存続」をするだけなのですから。

「生命の本来」からすると、利己的も利他的も、存在しない概念なのですね。

 

ナウシカの宿業

「生命の本来」からすると、善悪はおろか、利己的も利他的もない、というところを出発点にして、今一度『風の谷のナウシカ』を見直してみましょう。

 

【ナウシカ学②】で、私は「世界には清浄と汚濁があり、生命は神聖さと暗愚さを兼ね備えるもの」と書きましたが、ここは見直しが必要ですね。

「生命の本来」には善悪、利己利他はないのですから、「世界には清浄も汚濁もなく、生命には神聖も暗愚もない」というべきですね。

清浄や汚濁、神聖や暗愚は、人の「評価」なのです。

 

ナウシカは「墓所」の主の考えを否定しますが、「生命の本来」からすれば、「墓所」の主の考えも、ナウシカの考えも、どちらも同じであり、どちらでもいいのです。「生命の本来」からすれば、正しいも誤りもないのです。

 

生命という物質の特性上、増殖と存続をしているだけであり、そうすることに意味も価値もないのです。

個々の生命体が「機能」として獲得した増殖方法、存続方法は、「生命の本来」からすれば、どうでもよいことなのでしょう。

 

しかし、個々の生命体のひとつである「墓所」の主(人工知能)は、自ら考案した増殖方法、存続方法に固執します。

そして同様にナウシカも、自ら考案した増殖方法、存続方法に固執しているのです。

そして両者の固執する方法が両立しえないためか、ナウシカは「墓所」を破壊してしまうのです。

 

くり返しになりますが、ナウシカのこの行動は、正しくもないし、間違っているわけでもありません。「墓所」の主が企画し実行してきた行動が、正しくもなく、間違ってもいなかったのと同様です。

ナウシカは、「生命の本来」である「増殖・存続」に従い、数ある方法のうちの一つを、選択したに過ぎないのです。

 

なぜ、ナウシカは「墓所」を破壊したのか?

ここで、ちょっと疑問が浮かびました。

ナウシカは、「墓所」の主と共存することはできなかったのでしょうか?

 

第7巻200頁で、ナウシカは「墓所」の主に対し、「絶望の時代に、理想と使命感からお前がつくられたことは疑わない」と述べています。

つまり、人間が滅亡しないよう努力した結果「墓所」がつくられた、ということをナウシカは認めているのです。しかし、ナウシカは「墓所」が行うその「方法」を、受け入れることが出来なかったのです。

 

「墓所」の主は、世界を浄化し、人類を穏やかな種族にかえることで、人類の存続を図ろうとしています。

しかしナウシカは、「生きることは変わることだ。王蟲も粘菌も、草木も人間も、変わっていくだろう。腐海も共に生きるだろう」と述べます。

「墓所」の主は、「娘よ、お前は再生への努力を放棄して、人類を亡びるにまかせるというのか?」と問います。

これに対しナウシカは、「その問いはこっけいだ。私達は腐海と共に生きて来たのだ。亡びは、私達のくらしのすでに一部になっている」と応えます。

「墓所」の主が「種としての人間についていっているのだ」「人類は、わたしなしには亡びる」「お前達は、その朝をこえることはできない」というと、ナウシカは、「それは星がきめること」と応えるのです。

 

この「問答」はなにをいっているのかといえば、「墓所」の主があくまでも「人類」の存続を図るための方法を実行しているのに対し、ナウシカは「人類にこだわらない」生命の存続方法を実行しようとしている、ということなのではないでしょうか?

 

「鳥」は恐竜の進化した姿である、という説があります。

もしもこの説が正しいのだとすれば、恐竜は絶滅したが、その一部が「鳥」に変わり、新たな種として存続した、ということになります。

もしかしたらナウシカは、このようなことを考え、実行しようと考えたのではないでしょうか?

 

つまり、草木も人間も「新たな種」に変わる可能性がある、我々はその可能性に賭けて生きよう、とナウシカは考えたのではないでしょうか?

だからこそ、ナウシカは「墓所」を破壊したのだと、私は考えました。

 

もしもナウシカが、「人類」の存続を考えたのであれば、仮に方法論が異なったとしても、「墓所」を破壊する必要はなかったと思うのです。

「墓所」には「王蟲を培養し、ヒドラを飼い、巨神を育てた技」がありますが(第7巻173頁)、「清浄な世界が回復した時、汚染に適応した人間を元にもどす技術もここに記されている」のです(第7巻199頁)。「人類」の存続を考えるのであれば、「墓所」の叡智はとっておいても損はない、と思うんですね。

しかし、ナウシカは躊躇いなくこれを破壊してしまいます。つまり、ナウシカが採ろうとしている行動は、「墓所」の主の行動とは相いれない、とみるべきなのです。

 

「墓所」の主が採る戦略、それは「人類が考えた人類のための理想世界の再生」です。

しかし、ナウシカは、その理想はすでにところどころ綻びが生じており、その方法は成功しないどころか、人類や他の生命も滅ぼしかねない、と考えているのでしょう。

 

腐海の誕生により、地球の環境は「墓所」の主の想定を超え、今後大きく変化していく可能性があり、それに適応するには、もう「人類」のままではいられない、草木や王蟲や腐海たちと共に、全くあらたな生命へと変革しなくてはならない、とナウシカは考えたのではないでしょうか?

 

恐竜が「鳥」へと進化したように、ナウシカは人間がたとえば「鳥人」や「樹人」のように、全く新たな生命体に進化すべきだと、考えたのかもしれません。

 

ナウシカは、第7巻141頁にあるように「人間を亡ぼしに行くのかもしれない・・」と考えています。ナウシカは「人間を亡ぼすかもしれないが、人間が新たな生命に飛躍できるよう、墓所を破壊する」という賭けに出たのではないでしょうか。

 

なお、「墓所」の主の「人類はわたしなしには亡びる」という言葉に、ナウシカは「それはこの星がきめること」と応じますが、これに「墓所」の主は「虚無だ!それは虚無だ!」と叫びます。

 これについて、もしも「生命の本来」からニュートラルに分かりやすく返答するのであれば、「お前がそれを虚無と呼ぶなら虚無で構わない。我々は存続のために、ただ明日に向かって生きるだけだ。亡びは我々の思惑の外にあり、かつ、常に我々と共にある」となるのでしょう。

 

ところで私は【ナウシカ学②】において、「墓所はナウシカにより破壊されたことで、不死から解放され、ひとつの聖なる生命体に回帰できた、という見方もできるのでは?」といったことを書きましたが、これは明らかに誤りですね。

何故なら、そもそも「墓所」が「不死」であるといっても、それは「アポトーシス」(自死)機能を有しない生命体ということであり、「ネクローシス」(壊死)は有しているのです。

つまり「墓所」は「アポトーシス」機能を有していなかった太古の生命と同じなのであり、ナウシカにより破壊されようと破壊されまいと、「ひとつの聖なる生命体」の一部であることに変わりない、ということなんですね。

つまりナウシカの行動は、「墓所の解放」といった意味合いはなく、「墓所の否定」でしかありません。(私はナウシカの行動を好意的に捉えすぎました。)

 

ナウシカは、「墓所」の戦略を否定し、「墓所」の戦略が自分の戦略に有害であると判断したため、「墓所」を破壊したわけなんですね。

よって、この部分は修正させて下さい~!

 

なぜ人は「業」を背負うのか

さてさて、「墓所」の主は「人類」を救うため、ナウシカも「人類」を救うため、鋭く激しく対立します。

「墓所」の主は「改良型人類」と「改良型人類に適した改良型世界」を用意しようと頑張りますし、ナウシカは「人類らから進化した新生命」と「現世界から進化した新世界」により未来を描こうと頑張るのです。

ともに「生きること」と「存続すること」に固執するのです。

これが「業」です。

 

「業」とは「現在の行いは過去の行いの結果である」といった考え方であるようです。

つまり、「墓所」の主の行動も、ナウシカの行動も、共に、過去の生命が繰り返し繰り返し行ってきた行動に基づくものである、ということですね。

「墓所」の主の業が深いと思われるのと同様、ナウシカの業も深いのです。

共に、「生命の本来」たる「増殖と存続」から逃れることができないのです。

 

亡びへの憧れと生きることの意味

ナウシカのみならず、生命はみな深い業のなかにいるわけですね。それが「生命の本来」でありますから。全ての生命は「増殖と存続」から逃れることができません。

 

ところがです、他の生物は分かりませんが、少なくとも人間は、「死への逃避」「死への憧れ」という感覚を持ちました。

「生きることはあまりに過酷であり、死は恐怖でありながらも救いになる」という感覚ですね。

一見すると、「増殖と存続」という「生命の本来」に矛盾する感覚です。

どうして人間は、このような感覚を持ったのでしょう?

 

「死への逃避」「死への憧れ」という感覚は、あるいは宗教を生み、あるいは哲学を生んだのではないかと思います。

宗教は「救いを求める」ものであり、哲学は「思考して意味を見出す」ものです。

共に、過酷な生に対処するための「技術」、ということになるでしょう。

宗教や哲学は、「生きる意味」「生きる価値」を見出してくれるからです。

人間は、過酷な生に対処し、「死への逃避」や「死への憧れ」を払底しながら、「生きる意味」や「生きる価値」、「生命の尊さ」というものを見出してきたのです。

 

もちろん、「生命の本来」からすると、「生きる意味」や「生きる価値」などといったものは存在しません。

「生命」は、単に「増殖と存続」する特性をもつ物質にすぎません。

「液体」が凝固し気体化することに「意味」や「価値」がないように、「生命」が増殖し存続することに「意味」や「価値」はないはずです。

 

つまり、人間の死を憧れる感覚や、生きることの意味を考える行為は、生命の本質ではなく、人間が「増殖と存続」をするために獲得した「機能」から派生した「技術」なのです。

過去の生命が「増殖と存続」のための機能として脊髄を得たり手足を得たりして行動範囲を広げていったのと同様、人間が「増殖と存続」のために得た機能から、生を過酷と捉えたり、死を憧れたり、生きることの意味を考えるという行動をするようになったのです。

 

人間は、「業」としての「増殖と存続」と、派生的に得た「死への逃避や憧れという思考」の間で苦しみます。

宗教や哲学を駆使し、生きることの意味や価値を高らかに宣言し自らを鼓舞しますが、やはり生きることの過酷さに、常々打ちのめされ苦しみ続けます。

しかし、その苦しみが、人間の行動を加速度的に変化させました。人間は、生きることの過酷さを知り、ときに死を憧れ、それらを乗り越えるために宗教や哲学を生み、更にそこから科学が生まれ、それらの「技術」によって行動範囲を飛躍的に拡大し続けました。

「苦しみ」を感じることは、人間が獲得した「技術」のひとつなのです。

 

もちろん、人間の獲得した「技術」は、「苦しみ」を感じることだけではありません。

人間は、世界は「美しい」と感じることもできます。世界を「美しい」と感じることができるのは、人間の「技術」です。

そしてまた、木や苔たちも、自分たちの「技術」により「美しく」あろうとします。木や苔たちは、「美しく」あることで、「増殖と存続」を図ろうとしているのでしょう。

 

・・・不思議ですよね。そして、面白いです。

「生命の本来」は、かくもシンプルなのに、個々の生命は、こんなに不思議で面白い世界をつくりだしているのです。

「増殖し存続」せよ、ただそれだけのシンプルな命令なのに、木や苔は、様々な色素や香りを用いて虫や動物たちを魅了するのです。また人間は、苦悩しながら、世界の美しさに喜びを感じるのです。

 

人類は人類ではなくなる

さて、人間の技術、「苦しみを知ることで加速度的に変化していく技術」は、今後も、人間を「増殖と存続」へと導く「技術」となり続けるのでしょうか?それとも極限まで進化した種が抱える「弊害」として、人間を亡ぼすことになるのでしょうか?

それは、分かりません。

 

ただ、ナウシカの世界では、「世界の変化」に「人間の変化」はもはや追いつかず、このままでは人間は亡びるしかない、という状況にあるのでしょう。

 

だからナウシカは、「人間を超えた新生命」を目指すのだと思われます。

 

では、ナウシカが目指す「人間を超えた新生命」は、人間の「技術」を引き継いでいく者たちなのでしょうか?

 

「墓所」の主は、人間の思考を一部改良した「新型人間」を存続させようとします。これについて、ナウシカと共に居たヴ王は「そんなものは人間とはいえん」と切って捨てます(第7巻211頁)。おそらくナウシカも、ヴ王と同意見のように見受けられます。

しかし、ナウシカの目指す「人間を超えた新生命」も、人間の想定を超えた存在になるはずであり、「そんなものは人間とはいえん」のです。

ナウシカは、人類がどんな「新生命」に変わっていくかは分からないけれども、存続のためにはそれに賭けるしかない、と考えたのではないでしょうか。

 

つまり、「墓所」の主もナウシカも、人類を「人間とはいえない」ものにしようとしている点は同じなのです。

ただナウシカは、「墓所」の主以上に人類を変革しようとしているのであり、そうすることで「増殖と存続」を図ろうとしているのではないでしょうか。

 

 

内なる宇宙とはなにか?

最後に、【ナウシカ学②】で考察した「内なる宇宙」についても触れておきます。

「生命は、どんなに小さくとも、外なる宇宙を、内なる宇宙に持つのです」というナウシカのセリフについてです(第7巻133頁)。

 

【ナウシカ学②-2】ではトンデモ説を展開しましたが、あれはあれでちょっとオモシロイので、取り敢えずは取っておきたいと思います。

しかし、もう少し地に足着いた(真面目な)考察も必要であるとおもいますので、二つのアプローチから、ちょこっとだけ考えておきたいと思います。

 

心理学的な意味での「内なる宇宙」

ひとつは、心理学的アプローチから考えるものです。

「内なる宇宙」は「精神」「心」をいうのであり、「精神」「心」は外的世界を反映する、という意味になるのでしょうか。

「文学的な意味合い」としてはしっくりきますが、ただ、なんだか分かったような分からないような曖昧さが残りますね。

これを解明するには、「心とはなんぞや」という難題を越えなければなりません。

心理学を深く学ぶ必要があるでしょう。(もしかしたら心理学だけでは足りないのかもしれませんが。)

これはもう、今後の課題ですね。

 

生物学的な意味での「内なる宇宙」

 もうひとつは、生物学的アプローチから考えるものです。

これは、「生命は、宇宙のような世界を体内に持っている」という意味ではないでしょうか。

人間の体は、およそ60兆個の細胞で構成されているそうです。そして、その一つ一つの細胞はもちろん生きていて、生活をしています。細胞たちの「生活空間」が、我々「人体」なのです。細胞たちからすれば、我々は「宇宙そのもの」なのです。

 

人間は、この世界で生きようと、あがき苦しみながら変化しながら、日々生きようと様々に試みております。

でも実は、人間のなかにある細胞たちも、人間同様、様々に変化し、増殖と存続のため日々活動しているのです。

人間の活動が世界に大きな影響を与えるよう、細胞たちの活動も、人間に大きな影響を与えます。

細胞たちは、人間という世界を変化させることで、自分たちの存続を図ろうとしているのです。

つまり人間は、細胞たちにより図らずとも変化させられている、というわけなのです。

 

「人間をはじめとする全ての生命は、自らを変えるなかで他の生命をも変えていき、また、自身を構成する細胞によっても変えられていく。それが生命の営みである」

そのようなことをいっていると捉えることもできそうです。

こう考えると「生命はひとつに連鎖している、繋がっている」、と考えることも出来ますね。

生物学をもう少し勉強して、この視点を更に掘り下げていきたいと思う次第です。

 

まとめ

苔とメダカ様のご指摘により、かなり深く考察を進めてくることができました!

改めて感謝申し上げます!

 

今回述べてきてた事柄を、以下、少しまとめておきたいと思います。

 

・「生命の本来」は、「増殖と存続」ではないか?(仮説)

・個々の生命は「増殖と存続」のために、様々な「機能」を獲得した。

・人間は「機能」により「生を苦しみ、死を憧れる」といった感覚を得た。その感覚により人間は、自らを加速度的に変化させるための「技術」を得た。

・生命が「増殖し存続」することに「意味」や「価値」はない。人間が「意味」や「価値」を求めるのは、人間が得た「技術」に基づく行為に過ぎない。

・全ての生命は、「増殖と存続」という業から逃れることはできない。「墓所」の主もナウシカも、深い業のなかで、「増殖と存続」のための行動を採ろうとする。

・「墓所」の主の行動も、ナウシカの行動も、「生命の本来」からすれば、どちらも「増殖と存続」のための行動であり、善悪も正誤もない。

・「墓所」はナウシカの企みにとって有害な存在であった為、ナウシカによって破壊された。

・「墓所」の主は「人類」の存続を図ろうとしたが、ナウシカは「人類らが変わること」に希望をかけた。

・「墓所」が存続させようとした「人類」は改造されたものであり、もはや「人類」とは呼べないものかもしれないが、ナウシカが存続させようとしたものも「人類から進化した新生命体」であり、もはや人類ではない存在である。

・ナウシカは、世界が「墓所」の主の予想を超えて変化すると考えており、それにあわせて人間も「墓所」の主が考える以上に変化する必要があると考えたものと思われる。

・「内なる宇宙」については、哲学的なアプローチと、生物学的なアプローチが考えられる。

・哲学的なアプローチから考えると、「心とはなにか」という問題を突き詰めていく必要があるように思われる。

・生物学的なアプローチから考えると、生命はより小さな生命により構成され、それらの生命が連鎖しながら「増殖と存続」のための活動を行っている、と考えることができる。

 

こんな感じでしょうか?

そして、今回感じた最も不思議で面白いことは、「生命の本来は実にシンプルなのに、個々の生命は複雑怪奇な行動を繰り返し、矛盾を抱えたり、美しい世界をつくりだしたりしている」という点です。

地球上の生命は38億年前に誕生したそうですが、長い長い年月をかけて、様々な個々の生命体による活動が、そのような世界をつくりだしてきたというのでしょうか?

凄いですね。

 

「生命の進化」は本当に凄い。

どうしてそこまで頑張るの?もういいよ、もうあきらめちゃってもいいよ、と思いたくなるくらいに、生命は果敢に生きて進化を求めるのです。

凄いですね。

この点をどのように考察したらよいのかが分からないため、ただ「凄い」としかいえないのですが・・

 

「海から離れるために背骨を得た」とか、もう信じられない。

だって、痛くなかったの?もう病気でしょう?苦しみもがきながら、何世代も何世代もかけて背骨ができていったの?

「宿業」という言葉の重みを、本当に感じます。

 

それが、生命なんですね。

我々は、そんな「宿業」を背負った多くの先輩生命たちの末に、いま、この世界に存在しているわけです。

そして我々も、「宿業」を背負って生きていく。

・・・生命って、凄いですね。

 

最後は「凄い」しかいえない国分坂ですが、まだまだ「生命とはなにか」に肉迫できた感がありません。

生物学や哲学などを学び、これからも考えていきたいと思います。

そして、また戻ってきます!捲土重来です!(ごめんなさい~まだまだ【ナウシカ学】は続くのです~!)

 

というわけで、今回はここまで。

「生命の本来」は増殖のみ、なのに世界はこんなに美しい! でした!

お付き合いを頂きまして、本当に、本当に、ありがとうございました!!