国分坂ブログ

「歩くこと」「考えること」が好きな、国分坂です!

「到来するかもしれない近未来社会」、そこで必要とされるのは「政治学」「哲学」「精神文化的嗜好」???

みなさん、こんにちは~。国分坂です。

今回は、今後「到来するかもしれない社会」について、ちょっと考えてみたいと思います。もしお付き合いいただけると嬉しい限りです!

 

 

最初に

今回は、かなり「妄想的」な「国分坂的近未来社会」について、お話させて頂くことになります~。

眉に唾して、御覧くださいね!

 

さて、「国分坂的近未来社会」の中身は後述致しますが、この「国分坂的近未来社会」で必要とされるであろうスキルは、「政治学」「哲学」「精神文化的嗜好」、などと考えています。

 

なにやら最初からワケワカンナイことを言い出しておりますが、是非、気を楽にして、お楽しみ頂ければ幸いです~!

 

 

社会とは

さてさて、一言で「社会」といっても、様々な機能や意味合いを持ちますが、今回は「経済的機能を有する集合体」としての社会、を考えてみたいと思います。

 

人間が暮らしていく上では、実に様々な事柄をこなしていく必要があるわけですが、有史以来、人々は協力し合い、更に分業していくことで効率化し、人類は暮らしを向上させてきました。

その協力・分業を行う集団が「社会」であると、捉えることができそうです。

 

 

人々は分業により取得・生成した成果物を、互いに「交換」「分配」しました。

この交換・分配は、当初は成果物そのものにより行われましたが、やがて保管・流通に便利な「貨幣」が用いられるようになり、成果物と貨幣とが交換され、または貨幣が分配されるようになっていきました。

 

貨幣が導入されることで、「労働」の「価値」換算が進み、成果物が見えにくい産業をも興すことが可能となりました。

 

分業が進み、専業が進み、機器を用いるようになると、飛躍的に効率化が進んで、従前よりも少ない労働力で、同等以上の成果を生み出すことが可能な産業が出現します。

そのような産業においては、「労働力の余剰」が生まれました。

 

余剰となった労働力の提供者たちは、そのままでは貨幣を手に入れることができません。そこで、新たな産業を興し、余剰労働力を新産業に投入する、といったことが行われました。

これにより、新たな産業が日に日に増えていき、人々の生活が加速度的に変化していきました。

 

これが、過去から現代までの、ごく大雑把な「経済的機能を有する集合体」としての社会の流れだと思います。

 

AI革命

さて、今後予想されるのは「AI(人工知能)革命」ですね。

AIが導入されることで、今までとは桁違いの「余剰労働力」が生まれることになりそうです。

そして、その余剰労働力を投入するために新たな産業を興しても、その新産業は瞬時にAIにより賄われる、といったことが生じます。

 

つまり、AIが殆ど全ての産業の担い手となっていく可能性があり、その結果、余剰労働力は、行き場を失うことになってしまいます。

そしてまた、就労人口が増えるとともに、余剰労働力は増え続けていくことになるわけです。

 

このことは、人々が有していた「労働力」「労働価値」が喪失することを意味します。

 

人の価値は労働力にあるのか?

「新たな産業を興せる人」、「新たな価値を生み出すことができる人」、そのような人はAIが市場を席巻したとしても、おそらく「労働力」を有し続けることでしょう。

つまり、AIに取って代わられることなく、対価を得続けることができるわけです。

しかし、そのような能力のない人、つまり殆ど全ての人々は、AIに取って代わられ、労働力を喪失することになってしまいそうです。

 

もしも、そのような社会が到来したときには、非常に重要な「判定」が、下されることになるはずです。

 

人の価値とは、なんなのか?

人の価値は、労働力なのか?

それとも、それ以外のものなのか?

 

もしも、「人の価値は労働力だ」と判定されてしまったら、労働力を喪失した殆んどの人々は、「社会的に無価値な存在」と認定されてしまうことになります。

いや、無価値どころか、資源を無駄に消費する「存在悪」として、認定されてしまうのかもしれません。

ぞっとしますね。

 

もしも、殆どの人々が存在悪として排除されることになったら、ごくわずかの限られた人間たちのみが社会を構成し、AIと共に生きていくことになるのでしょうか?

新たな産業を興せる人、新たな価値を生み出すことができる人、そのような極く僅かな人々のみが作り出す社会・・

 

でも、そのような社会が永続できるとは、とても思えません。

なぜなら、ごく少人数の人々が有する才能はやがて枯渇し、または継承されずに、朽ち果ててしまう可能性が大きいと思われるからです。

つまり、非常に「脆弱な社会」になってしまうと思われるのです。

 

社会を存続するためには、やはり一定数以上の構成員が必要なはずです。

だとしたら、社会の構成員資格は「労働力」の有無ではない、という判定が必要になるはずです。

ごく僅かな労働力を有する人々と、大多数の労働力を有しない人々と、そしてAIとが共存する社会こそ、存続可能な社会として求められることになるのだと思います。

 

二分される社会

さて、もしもそのような社会が出現すると、ごく僅かな人々が労働力を提供し、しかし殆ど全ての労働力はAIが担い手となり、そして圧倒的大多数の人が働かない社会、ということになります。

 

労働力を提供できるごく僅かな人々(及び法人)は、その労働力により、成果物を生み出すことになります。

芸術作品、医療技術、美容技術、グルメ、特殊体験・・・

これら成果物は、おそらく非常に高価なものとなるでしょう。

なぜなら、殆どの人は労働力を有しないがために通貨を取得できず、これらの成果物を得たくても、対価を支払うことができないわけです。

 

よって、ごく僅かな人々が作り出した成果物は、互いに成果物を作ることができるごく僅かな人々の間でのみ、流通することになるでしょう。

 

一方、圧倒的大多数の人々は、AIにより養われ、AIが生産する衣食住のため等の生活必需品を、得ることになるのでしょう。

 

ところで、ここでポイントになるのは、「AIの振り分け」です。

どれだけのAIを労働力を有しない人々のために振り分け、どれだけのAIを労働力を有するごく僅かな人々に振り分けるのか。

これは、非常に大きな「政治的問題」になるはずです。

 

この時代に労働力を有するごく僅かな人々(及び法人)は、このような社会が出現するごく初期から、AIを保有している可能性が高いでしょう。従前社会から引き続き資力と能力を有していたことで、AIの保有に成功するのです。

そして、当然のことながら、彼らは自分たちのためにこそ、AIを用いたいと考えるでしょう。

 

しかし、もしも労働力を有しない人々にAIが振り分けられなければ、労働力を有しない人々の生活は破綻してしまいます。

生活を破綻させられた人々は、社会を破壊することになるかもしれません。

 

 

よって、AIを保有し労働力を有する人々は、自分たちの安全を守るために、社会秩序を維持させようと、労働力を有しない人々のためにも一定程度のAI利用を考慮することになるはずです。

更に、もしも労働力を有しない人々が団結し、政治的力を行使していけば、少数派にすぎないAI保有者たちは、その政治力を無視することができなくなるでしょう。

つまり、労働力を有しない人々が上手に政治力を行使していくことで、「最低限度」から「必要充分な程度」まで、労働力を有しない人々のためのAI利用の割合を、引き上げていくことが可能になるかもしれません。

 

さて、政治力行使により、ある程度のAI利用の確保に成功し、AIにその生活を養ってもらうことが可能になった人々は、今度は次の問題に直面するはずです。

 

生活のための基本的な物品は、確保できた。

しかし、労働力を有しない自分たちは、ごく僅かの人達が作り出す素晴らしい成果物を、残念ながら入手することができない。

働く必要がない以上、時間だけは、たっぷりある。

では、この「膨大な暇」を、どのように過ごしていくべきか?

 

労働力を有するごく僅かな人々は、現代と同様、仕事をして対価を得て、欲求の赴くままに他者が作り出す成果物を浪費して、そしてまた仕事をして・・・を繰り返していくことになるのかもしれません。

 

しかし、そのサイクルから抜け出した労働力を有しない人々は、「生まれてから死去するまでの長い人生を果たしてどのように生きるのか?」という難問に、直面することになるはずです。

「食べるために生きる」必要がなくなったとき、「生きるために生きるには、どうするのか?」という問題が立ち上がってくるのです。

非常に難解な「哲学的問題」を、抱えることになるのです。

 

おそらく、「生きるとは何か?」ということを思索しつつ、日々を過ごすことになるでしょう。哲学的な日々です。

哲学の素養が、そのような日々を支えてくれることになるのかもしれません。

 

もっとも、思索してばかりでは疲れてしまいますから、なんらかの趣味や目標を見出して、日々を楽しく過ごすための工夫が、重要になるでしょう。

 

でも、労働力がない以上、対価は支払えませんから、その趣味や目標は、「無料」で行うことができるものにならざるを得ないわけです。

もしくは、労働力を有しない者達同士が、協力して、手作業で作り出すものになるのかもしれません。

 

このことで、やがては物質文明とは逆方向のベクトルで進む文化が、開花していくことになるのかもしれません。

「精神文化的嗜好」、そんなものが人々の間で、持て囃されることになるのかもしれません。

 

つまり、労働力を有する人々は従前とおりの「物質文明」を謳歌し、労働力を有しない人々は「精神文化」を深化させていくことになるであろう、というわけです。

 

そうしますと、社会は大きく二分されることになりそうですが、しかし、置換不可能な分断社会が二つ出現するわけではなく、二つの社会はある程度「繋がり」を持ちつつ併存するだろう、と予想します。

なぜなら、前述のとおり、労働力を有する者による物質社会は、そのままでは構成員が維持できない脆弱な社会です。労働力を有しない者の社会から、構成員を吸い上げるシステムが必要になるはずです。

そのために用いられるのは、おそらく「教育」でしょう。

労働力を有する人々は、労働力を有しない人々に対し、様々な教育の機会を用意して、労働力を提供できる人材となるよう、働きかけることでしょう。

労働力を有しない人々は、教育により、新たな産業を興せる人、新たな価値を生み出すことができる人になっていく可能性があります。

 

更には、労働力を有する人々が施す教育によるのとは別に、労働力を有しない人々自身が、非物質文化を深化させていくなかで、全く新たな価値観を、独自に生み出すことになる可能性もあります。


つまり、労働力を有しない人々の社会の方でこそ、従前社会と連続しない、突飛で全く新しい価値観の創造が、なされる可能性があるわけです。

古代ギリシャでは、閑暇(スコレー)を得た一部の貴族階級が文化を形成しました。

しかし、AIに養われる労働力を有しない人々の社会は、人類の殆どが閑暇を得る社会であり、桁外れな人数が閑暇を得る社会なのです。

人類初、前人未踏の社会において、どのような文化が開花し、どのような価値観が生まれてくるのか、想像を絶します。

やがては労働力を有しない人々の社会こそが、全く新しい価値を創造していく母体となる可能性がある、というわけです。

 

そのようにして、労働力を有する者と、労働力を有しない者とが、周期的に変動していくことになるのかもしれません。

もっとも、物質文明に興味を持たず、対価を得ることに意味を見出さない人々は、仮に新たな価値を創造しても、そのまま労働力を有しない社会に留まることでしょう。

しかし、そのような人が生み出した新たな価値観は、他の誰か(もしくはAI)により労働力に転換され、新たな産業が構築されていくことになるわけです。

こうなってくると、もはや「人の価値は労働力ではない」ということが、明白になるのかもしれませんね。

 

新世界より

貴志祐介の『新世界より』は、とても衝撃的な小説ですが、私が描いた近未来はどうでしょう、実現可能性があるのか、ないのか?

どうなんでしょうね?

 

 

 実はこの「妄想的」な「国分坂的近未来社会」の構想はですね、前回の「引きこもりを考え、同時に社会が目指すべき方向を考える」の、続き的な思索なのです。

実は「引きこもり」とはなにか、を考えていたら、この「国分坂的近未来社会」に行きついた、というわけなのです。

 

【前回の記事】 

www.kokubunzaka.com

 

「引きこもり」とは、「誰かに依存し養われる存在」、という定義がなされているように思われますが、AI革命がおこると、もしかしたら殆ど全ての人が、「AIに依存し、AIに養われる存在」になり得るのではないだろうか、と。

 

そして、「引きこもり」の人を「労働力を有しないがために無価値である」と断ずるのであれば、近い将来、私達は自分自身が「労働力を有しないがために無価値である」と断定されてしまう可能性があるのではなかろうか、と。

 

そう、考えてみたのですね。

 

私はAIのことはよく分かりませんし、AIが人間の労働の殆ど全てを賄えるようになるのかどうかも、全くわかりません。

しかしですね、仮に、ごく小説的発想で、以上記述してきたことのように「近未来社会」を考えてみますと、実はいま目の前にある「引きこもり問題」は、我々自身について、非常に深い問題を突き付けているらしい、と考察することができたのです。

 

誰かのことを「役に立つ、役に立たない」、「価値がある、価値がない」などと一義的に短絡的に断じてしまってよいものなのだろうか?

それはそのまま、自分自身に直接跳ね返ってくるものではないのだろうか? と。

 

そんなことを考えたわけなのです。

 

 

なお、「引きこもり問題」の延長線上で考えた「国分坂的近未来社会」ではありますが、これはこれとして独立的に考えても面白いなあ、とも思いました。

 

殆ど全ての人が労働から解放され、閑暇を得ることができる社会。

もしも実現できたら、凄くないですか?

人類全員、哲学者?

そんなわけないでしょうから、様々なものが生まれてくる社会になるのかもしれませんよね。

 

【関連記事】 

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私はどうにも楽天的なようで、「AI改革」を楽しみにしている節があるのですが、実際にはそんな簡単なものではないのでしょうね。

非常に大きな混乱が生じることになるのかもしれませんね。

世界中で大きな歪みが生まれ、とんでもない格差が発生してしまうのかもしれません。

 

それを回避するためにも、我々個々人が「どのような社会を作っていくべきなのか、そのためにはどのような行動を起こすべきなのか」という政治的思考と、「畢竟、生きるとはどういうことか」という哲学的思考を、常々持ち続ける必要があるように、私には思えるのですね。

 

傍観していては、我々は労働力を失った瞬間、価値を失うことになりかねないわけですから。

こわい社会ですよ~。 

 

なお、「政治的思考」と「哲学的思考」という大上段の構えとは別に、「この世界の片隅で、つつましやかに、でも夢中になって楽しめる能力」、たとえば「精神文化的嗜好」といったものを有していたら、世界はきっと素晴らしいものになるのではないだろうか、と思ったりしている次第なのです。

・・甘いですかね?

 

さてさて、如何しょうか

またもや懲りることなく「妄想的」記事を書いてしまったわけですが、どうぞこれに懲りずに、これからも国分坂をよろしくお願い致します~!

皆さまのご感想やお考えを、お寄せいただければ嬉しいです!

 

以上、「到来するかもしれない近未来、そこで必要とされるのは、政治学・哲学・精神文化的嗜好???」でした~!

ここまでお付き合いを頂きまして、誠にありがとうございました!