「やり場のない怒り」 を、どうしたら良いのでしょう・・? 「理論的」にいわれても、昂る怒りは止まりません・・ どうしましょうか。
こんにちは。国分坂です。
「怒り」について。今回は考えてみたいと思います。
あまりにも悲痛なニュース。
頭がくらくらしてしまい、どうしたら良いのかも分からなくなる、そんなニュースが先日飛び込んできました。
いや、悲痛なニュースはこれに限ったことではありません。ちょっと思い返すだけでも、いくつもの悲痛なニュースが乱立しています。
私は、自分の中に渦巻いてしまう「怒り」を、どうしたらよいのか分からず、途方に暮れるばかりです。
ここでは、「事件」そのものについては触れません。
ここで取り上げたいのは、私の中で渦巻いている「怒り」なのです。
この「怒り」を、どうしたら良いのだろう?ということを、少し考えてみたいと思うのです。
「事件」のニュースに触れたとき、私は激しい「怒り」を覚えてしまったのです。
「怒り」とともに浮かび上がったのは「どうして?」「なんで?」という疑問符。
もっとも、その疑問符に対して仮になんらかの情報が付与されたとしても、私のなかの「どうして?」は、完全には払拭されないでしょう。
なぜなら、ここでの「どうして?」という疑問符は、条件反射的に発せられた疑問符でしかないからです。
つまり、この疑問符は、すべての事柄に「因果関係」、つまり「結果に対する原因」というものを求めてしまう習性に、根差したものでしかないからです。
事件がもたらした「結果」は、「理不尽」以外のなにものでもない、という結論に、私は達してしまっているのです。
どのような「原因」を挙げられたとしても、残念ながら、事件がもたらした「結果」に結びつけることはできない、という結論に、私は達してしまっているのです。
どのような「背景事情」等が語られたとしても、事件がもたらした「結果」を受け入れることができない、という心理状況に、私は陥ってしまっているのです。
そのため、どうしようもない「怒り」が、心の中に渦巻いてしまっているようです。
私の「怒り」は、残念ながら、「理論的な説明」では解消することが困難であるように思われます。
いやむしろ、「感情的」な問題を、「理論的」に分析・説明されたら、余計に感情が昂ってしまうかもしれません。
まさしく「火に油を注ぐ」、ということになってしまいそうなのです。
もちろん、渦巻く「怒り」とは別に、私の中にも「理性的な思考」は働いています。
その「理性的な思考」は荒ぶる「怒り」の前では、ほんの小さなささやきでしかありません。
でも、ちょっとだけ、そのささやきに耳を傾けてみることにしました。
私の中の「理性的な思考」はこうささやきます。
「怒りをぶつける為の相手を、でっち上げるべきではない」と。
うう。自分の中の「理性的な思考」とはいえ、なんだかカチンとくる物言いです。
こういうのを、「上から」っていうんじゃないんですか?
・・まあ、いいでしょう。自分の中の「理性」がいうのですから、上からも下からもないはずです。まずは「理性」のアドバイスに、耳を傾けてみるとしましょう。
「怒りをぶつける為の相手を、でっち上げるべきではない」
確かに先日の事件は、もう本当に「やり場のない怒り」が渦巻きました。
たしかに振り返ってみると、その「怒り」をぶつける相手を、私は求めていたようにも思えます。
この事件に関しては、インターネット上でも、様々な意見が上がりました。
自分の意見とは異なる意見に対し、私は「そんなのおかしいよ!」と「感情的」に反応してしまっていたように思えます。
本来であれば、自分と異なる意見に対しては、「理論的」に受け止め、「理論的」に反応すべきであるのに、私は「感情的」に受け止め、「感情的」に反応してしまっていたのです。
これは、おそらく私の中に渦巻く「怒り」が、まき起こした現象なのでしょう。
「怒り」に振り回された私は、ついつい、「怒り」をぶつける相手を求めてしまっていたのです。
インターネットに上がった、私とは異なる意見を発した方を、「怒り」をぶつける相手に仕立て上げていたのです。
そして、「そんなのおかしい!」と息巻いてしまったのです。
・・とても怖いですね。実に反省です。
「怒り」に駆り立てられて、「憎悪」をまき散らすおそれすらありました。
これは悔しいけれど、私の中の「理性」がいうとおりです。
「怒りをぶつける為の相手を、でっち上げるべきではない」のですね。
このような事件が起こってしまったとき、当然ながら、なんとかして再発を防ぎたい、と思うのは当然だと思います。
そして、そのように思った人々から、様々な意見が出てきます。
私達は、それらの意見に、それぞれ真摯に向き合うべきでしょう。
たとえ自分とは異なる意見が出てきても、「再発防止」という観点から、「理論的」に受け止め、「理論的」に反応すべきなのですね。
決して、「やり場のない怒り」の対象として、「感情的」に受け止め、「感情的」に反応すべきではない、ということなのですね。
この記事を書いてみたおかげで、私の中のもやもやが、少し解消できた気がします。
・・勉強になりました。
でも、一番大きなもやもやは、依然として残っています。
私のなかに渦巻く「怒り」は、やっぱりそのまま渦巻いているのです。
今後、ニュース等で「原因」探しが、やっきになって行われるでしょう。
背景事情などが、語られることでしょう。
しかし、前述したように、おそらくどのような「原因」が語られても、私のなかの「怒り」は収まらないはずです。
どのような「原因」が語られても、あの「結果」を受け入れることが難しいからです。
残念ながら、「因果関係」などといった「理論的」説明では、私の中の荒ぶる「怒り」を鎮めることは無理なのです。
だから、どうしたら良いのか分からなくなり、途方に暮れます。
おそらく、「感情」を鎮めることができるのは、「感情」だけなのでしょう。
しかし、どのような「感情」が新たに生まれれば、被害者の皆さん、被害者の親族方の傷は、癒されるというのでしょう。それを想像するだけで、途方に暮れます。
正しいかどうか、わかりません。ただ、少しでもこの事件で「怒り」を感じた以上、その「感情」をなるべく持ち続けていくべきなのでは? と私は思いました。
この事件で得た「感情」を持ち続けていかなければならない、と思ったのです。
でも、「怒り」は爆発的な力を発揮しますが、長続きしません。やがて、忘却してしまいます。
しかし、この事件に触れて「怒り」を感じた私は、「忘却してしまってはならない」、と感じているのです。
いや、もちろん、日々様々なことが起こりますから、やがては忘却してしまうかもしれません。でも、なるべく忘却してはならない、と思うのです。
それが、私の中に渦巻いた「怒り」に、真摯に向き合う態度のように思われるからなのです。
被害者の方々のためにするわけではありません。
社会のためにするわけでもありません。
あくまでも、自分のなかに渦巻いた「怒り」のために、少しでも忘却しないよう心掛けたい、と思うのです。
でも、「怒り」は長続きしない感情なのですね。
なので、間違っているのかもしれませんが、私はこの「怒り」を「悲しみ」に変えて、心の中に留まらせたいと思います。
繰り返しますが、私ごときが被害者の皆さんのために悲しめるはずもありません。
社会のために、悲しむわけでもないのです。
あくまでも、私の中に渦巻いた「怒り」に真摯に向き合い、これを鎮めるために、私は「悲しむ」のだと思います。
あんまりにも理不尽です。
でも、その「怒りのやり場」はないのです。
「怒りのやり場」をつくるわけにもいきません。
ひどいです。
だから、私はここからうまれた「感情」を、「怒り」を「悲しみ」に変えて、持ち続けたいと思うのです。
「怒り」がいつ「悲しみ」に転じるかわかりませんが、私はそのようにしてみたいと思います。
もしかしたら、「怒り」が「悲しみ」に転じたら、他の感情も受け入れやすくなるかもしれません。
感情的な決着はつかないかもしれませんし、つけるべきでもないのかもしれませんが、「怒り」が「悲しみ」に転じたら、今よりはもう少し、まわりが見えるようになるかもしれません。
理不尽なことが起こってしまう世界を、少しでもなんとかしようとするのが「理性」でしょう。
でも、ひとは「理性」だけでは生きることができません。
重い「感情」を引きずって生きるのが人間です。
ともに大切にしながら、ときにはごっちゃにせず、うまく分けながら、双方に折り合いを付けながら、なんとかして生きていきたいと思います。
「やり場のない怒り」をどうしたら良いのか、正直なところよくわかりませんが、少なくとも今は、忘れないように引きずりながら、しかし理性のささやきにも耳を貸しながら、進んでいくしかない、と思いました。
ああ、すみません。なんとも纏まりのない乱文です。
お付き合いを頂き、本当にありがとうございました。