国分坂ブログ

「歩くこと」「考えること」が好きな、国分坂です!

むじな?のっぺらぼう?逢魔が時(おうまがとき)に小泉八雲の「紀伊国坂」を歩きます!

こんにちは、国分坂です。

今日は、四ツ谷で業務終了でした。

少しこの付近を、お散歩をしてみようと思います~!

夕方5時。黄昏時です。もう少しすれば「逢魔が時(おうまがとき)」。

夕方と夜の間の時間帯で、行き交う相手の顔が、良く見えなくなる時間帯です。

そんなときは「気を付けないと魔が混じってくる」などと昔からいわれ、魔に逢う時間で「逢魔が時」、と呼ばれるのですね~

 

そんなことを考えていたら、小泉八雲の「貉(むじな)」を思い出しました。

「紀伊国坂」で怪異に出会う、そんなお話ですよ・・

・・そうだ!「紀伊国坂」へ行こう!!

四ツ谷駅からそれほど離れていません!

でも、まだ少し明るいので、寄り道しながら行きましょう。

もう少し暗くなった時間帯に、「紀伊国坂」を歩けるように・・

 

 

四ツ谷駅・赤坂口から出発 

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JR四ツ谷駅の赤坂口から出発です。

出口を出たら右方面に行くとすぐに「四谷見附橋」です。

「四谷見附橋」の下にはJR総武線と中央線が走ります。

橋を渡ると「四ツ谷駅前」交差点です。

 

ここを右に入ると「ソフィア通り」です。

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この「ソフィア通り」の横には土手があるのですが、そこが遊歩道になってます。

この遊歩道、春には「桜の名所」になりますよ。

しかし、今回は土手の遊歩道ではなく、「ソフィア通り」の歩道を進みます。



聖イグナチオ教会

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カトリック系の教会ですね。立派な建物です。

入り口すぐわきに書籍などを販売するお店もありました。

クリスマス・イブにはミサに参加する一般の方が行列をなすとか。

JR四ツ谷駅から徒歩1~2分です。

 

尾張名古屋藩屋敷跡 

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尾張藩は「御三家」の筆頭格とされ、諸大名中最高の格式を有する、とされていました。なお、尾張国名古屋城に居城したことから、明治には「名古屋藩」と呼ばれたそうです。 

尾張藩は裕福な藩であったため比較的税率が低く、江戸時代を通じて一度も一揆が起こらなかった藩なのだそうです。

 

なお、この辺りは「州徳川家中屋敷」、「張徳川家中屋敷」、「彦根伊家中屋敷」があったため、「紀尾井町」という名になったそうです。

江戸時代の名家中の名家が集まる「超高級官僚街」、といった感じなんですかね。

 

さて、ソフィア通りの端に「紀尾井ホール」があります。

道路を挟んだ反対側は「ホテルニューオータニ」です。 

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「ホテルニューオータニ」側に渡ってから、左手に進みます。

進む先には「紀尾井坂」が出てくるはずです。 

 

開業25周年のガス燈 

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平成元年に「開業25周年」を迎えたホテルニューオータニに対し、東京ガスが贈ったガス燈だそうです。

ほんわかした光が辺りを照らします。

すこし頼りない光ですが、優しい光ですね。

 

でも、このガス燈が登場した「明治の世」においては、闇を払いのける存在として、人々にとても頼りにされたことでしょうね。

この辺りは、広大な敷地を有する大名屋敷ばかりだったようなので、夜の闇もなお一層濃かったそうですから。

 

紀尾井坂 

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江戸時代の正式名称は「清水坂」だったそうです。

しかし、付近の人々は「紀州家」「尾張家」「井伊家」の屋敷が集まるこの坂を「紀尾井坂」と呼ぶようになり、やがてそれが広まり定着したそうです。(名家を慮った結果でしょうか?)

「紀尾井坂」は、「紀尾井坂の変」でも有名です。

「紀尾井坂の変」とは、明治11年(1878年)、この坂を下り現在「清水谷公園」になっているあたり付近で、大久保利通が士族に暗殺された事件です。

襲撃時、大久保利通は馬車の中で書類に目を通していたそうです。

できあがったばかりの明治政府の要職にあり、

「まだまだやるべきことが山積している、とても死ぬわけにはいかない」

と思いながらの最後だったのではないでしょうか。満47歳。

 

さて、 長くてわりと急な「紀尾井坂」を下ると、交差点があります。

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この交差点を向こう側に渡ってから、右に曲がります。

 

清水谷公園 

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江戸時代、この辺りに湧き水がでていて「清水谷」と呼ばれたそうです。

現在は枯れてしまいましたが、代わりに人工的に復元した池が、公園内にあります。

都会の一角にひっそりと佇むオアシス的な公園ですね。

 

 大久保公哀悼碑 

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清水谷公園のすぐ近くで暗殺された大久保利通を哀悼する碑が立っています。

大久保利通は、どうしても同郷の英雄、西郷隆盛と比較されることが多かったようです。

西郷隆盛は「敬天愛人(けいてんあいじん)」(天を敬い人を愛す)で知られるように情の人でした。

対する大久保利通は、理のひと。

外遊して西洋列強の恐ろしさを知った大久保利通は、理に徹し、藩閥などにとらわれることなく有能な人材を抜擢し、富国強兵策を実施していきました。

しかし、その振る舞いで不評を買い、やがては暗殺されてしまうのです。

ときに「大久保利通は公金を自らのために貯めこんだ」などと噂されたこともあったようですが、実際には非常に清廉な政治家で、むしろ私財を費やして公共事業を行ったりもしていたそうです。

そのため、大久保利通が亡くなった時、大きな借金が残っているありさまでした。

政府は、残された遺族が路頭に迷わないよう、大久保利通が寄付したお金を回収したり、募金を集めたりして、遺族を養ったそうです。

 

いろいろな評価をしうる政治家なんだと思いますが、しかし、やはり「維新の三傑」と呼ばれる一人ですね。スケールが大きい感じです。

(注)維新の三傑:西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允

 

江戸水道の石枡と木管 

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大久保公哀悼碑の少し先に、大きな四角い石が置いてありました。

説明文には、「江戸水道の石枡と木管」とあります。 

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昭和45年、麹町通りの拡幅工事の際に出土した石枡と木管だそうです。

江戸時代、人口が増加した江戸の町では水不足が深刻になり、多摩川から水を引くための「玉川上水」が開発されます。

玉川上水は、羽村取水堰(現在の羽村市)から四ツ谷大木戸(現在の新宿区四谷4丁目)まで、全長43キロにおよぶ水道です。

江戸の町が世界有数の水道設備を整えていた、ということを、今に伝えてくれますね。

 


 紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡 

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さて、清水谷公園を後にして、紀尾井町通りを進みます。

通りの終点付近に大きな建物が見えます。

「東京ガーデンテラス紀尾井町」です。見上げると首が痛くなります。

このビルの先に、紀州和歌山藩徳川家 屋敷跡があります。 

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「尾張徳川家」、「水戸徳川家」とならぶ「御三家」のうちのひとつ「紀州徳川家」。

 

そう「紀州藩」といえば、坂本龍馬の海援隊が運航した「いろは丸事件」がありましたよね。

海援隊が運航する「いろは丸」(伊予大洲藩所有)と、紀州藩の明光丸とが衝突した事件です。

この件で坂本龍馬は、積み荷に銃火器や金塊があったことを主張し、その損害も合わせて8万3千両もの大金を、紀州藩に支払わせることに成功しました。

紀州藩側の交渉役であった茂田一次郎は、下級藩士の出身ながら勘定奉行にまでなった傑人でしたが、この件で罷免されてしまいます。

ところが近年(1989年)、いろは丸の船体が海底で発見されたんです。

遺物として見つかったのは、陶磁器、ワインボトル、鮫皮の台座、朱入りの箱などの積み荷。

いまのところ、坂本龍馬がいう「銃火器や金塊」は、全く発見されていません。

本当に積んでいたのか、まだ海底に眠っているのか、謎のままです。

なお、賠償金(再交渉で7万両に減額)は紀州藩からいったん土佐藩に支払われ、その後、土佐藩から坂本龍馬に支払われる予定でしたが、その前に坂本龍馬は何者かに暗殺されてしまいます。

「坂本龍馬暗殺の犯人捜し」は歴史ミステリーとして有名ですが、「いろは丸賠償金」にからむ人物が犯人?という説もあるようですよ・・

 

さて、先に進みます。

橋が見えます。弁慶堀にかかる「弁慶橋」です。

大工の棟梁であった弁慶小左衛門が作った橋なので「弁慶橋」なんだそうです。

もともとは岩本町にあった弁慶橋を、明治22年(1889年)に移築したそうです。

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弁慶橋で、弁慶堀を渡りましょう。 

 

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 弁慶橋を渡ると、赤坂見附の交差点です。上には高速道路が走っています。

この交差点を、まずは通りの反対側(南側)に渡ってから、右(西)に折れて進んでいきます(弁慶堀沿い)。

(通りの反対側に渡らずに、そのまま弁慶堀沿いに右に進んでしまうと、次の「紀伊国坂の碑」に出会えなくなってしまいます。「紀伊国坂の碑」は、通りの左側にあるのです。「赤坂見附交差点」の信号から「紀之国坂交差点」までの間には横断歩道がなく、その間、反対側に渡れませんのでご注意ください!)

 

紀伊国坂

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さて!お待たせしました!

やっと本題の「紀伊国坂」です!

いい具合に「逢魔が時(おうまがとき)」っぽくなってきました!

そうです、ここが、小泉八雲(こいずみやくも)の「貉(むじな)」の舞台なんです!

 

小泉八雲の「貉(むじな)」、おそらく、殆どの方がご存知ではないでしょうか?

ごくごく簡単にあらすじをいいますと、こんな感じです。

≪小泉八雲「貉」あらずじ≫

ある商人が、夜遅くに紀国坂を登っていくと、ひどく泣いている女性がいた。

若くて身なりの綺麗な良家のお嬢さんのようである。

親切な商人は、

「さてさて、どうされました。こんな夜更けに、人通りもないこんな場所で泣いていらっしゃるとは。何かお困りごとでもありましたか?」

と声をかけるも、娘はざめざめと泣くばかり。

商人は困って、

「どうかお頼みするから、そう泣きなさるな。どうすればお助けできるか、是非、おっしゃってみてください」

と再び声をかける。

すると娘は顔を上げ、手でするっと自分の顔を撫でた。

見ると目もない鼻もない口もない顔・・

ぎゃっと声を上げて商人は逃げ出した。

一目散に紀国坂を駆け登った。自分の前は真っ暗闇の空虚。

ただただ走り続けると、ほのかな明かりがぽつんと見える。

近づくと、屋台の蕎麦屋の提灯であった。

商人はころげるようにして蕎麦屋のもとにたどり着いた。

蕎麦屋が商人に声をかける。

「これこれ、一体どうなされましたか?」

商人は、息を切らせながらうめく。

「・・私は見たのだ。女を!その女が私に見せたんだ!・・いや、何を見せたかなんて、それはいえない・・・!」

「へえ。・・その見せたものとは、こんなものか?」

蕎麦屋は自分の顔を撫でながら言う。

つるつるの卵のような顔になった蕎麦屋。

同時に提灯の火は消えてしまった・・・

こんな話ですね。

青空文庫でも読めますので、宜しければ是非お読みください! 

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紀州徳川家の広大な屋敷があったから「紀伊国坂」と呼ばれた、とありますね。

江戸時代には、明かりもなく、人も通らない真っ暗な道だったのでしょうね。

 

では、坂を上っていきましょう!

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塀が出てきました。今は塀の向こうは「赤坂御用地」になるのですかね。

当時の紀州徳川家の屋敷も、こんな感じだったのでしょうか。

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紀州藩徳川家中屋敷表門(赤坂迎賓館東門) 

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紀州藩徳川家中屋敷表門です。

なかなか立派ですね。 

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昔は、明かりなどついていなかったのでしょうか?

普段は、門番などは、いなかったのですかね? 

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現在では、煌々と明かりが照らされて、残念ながら暗闇を感じることができませんが、でも、やはり人通りは少ないですね。

当時は真っ暗闇、「自分の前は虚空」という状態だったんですね。 

 

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なかなか雰囲気、出てきましたよ~。

少しは当時の雰囲気を感じられますかね?

電灯の明かりを切ってくれないかなあ・・

(いや、ダメですよね。防犯上。・・ダメかぁ・・)

 

 なんてことを考えながら歩いていたら、立派な柵が現れましたよ。 

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赤坂「迎賓館」の門ですね。 

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「江戸」から「明治」へと移ってきた感じです。

残念ながら、ここまで来てしまうと「むじな」の雰囲気は一掃されてしまってます・・

 

とはいえ、江戸から明治の雰囲気を今に伝える界隈ですね。

とても静かで綺麗なところですので、夜のお散歩も楽しめます。

(この辺りは、警察官も多いので、治安は良いのではないでしょうか?)

 

今回歩いたルートを、下に書いてみました! 

 参考になりますでしょうか?

 

【国分坂お散歩マップ・紀伊国坂編】

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①聖イグナチオ教会 ②尾張名古屋藩屋敷跡 文:上智大学

③紀尾井ホール ④開業25周年記念ガス燈 H:ニューオータニ

⑤大久保利通公哀悼碑 ⑥江戸水道の石枡と木管

⑦東京ガーデンテラス紀尾井町 ⑧紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡

⑨紀伊国坂案内板 ⑩紀州藩徳川家中屋敷表門

⑪迎賓館 赤坂離宮

 

 

如何でしたでしょうか?

残念ながら「闇」は払拭され「怪しさ」は消え去り、

綺麗なばかりの素敵な「坂」になっておりましたが、

もしも「逢魔が時」に「空想」でもしながら歩ければ、

ひょっとしたら、ひょっとしたりして・・・

なーんて!

 

さて、私はこのルートを、ささっと50分弱で歩きましたが、どうですかね、普通に歩くと1時間~1時間半くらいでしょうか?

清水谷公園でのんびり休憩したり、東京ガーデンテラス紀尾井町でショッピングやお買い物をしながらの散歩でもいいかもしれませんね。

 

というわけで、以上、 

むじな?のっぺらぼう?

逢魔が時(おうまがとき)に

小泉八雲の「紀伊国坂」を歩きます!でした!

 

ここまでお読みいただきまして、

誠にありがとうございました!