国分坂ブログ

「歩くこと」「考えること」が好きな、国分坂です!

笠地蔵(かさじぞう)はサンタクロース?(恋人は笠地蔵?)

【まとめ:サンタクロースとクリスマスパーティに関する雑文です。文献的な価値はありません!】

【この記事の対象者(読んでほしい人):暇なひと/空想好きなひと】

 

今日は「サンタクロース」のお話です!

 

「日本の風習」と「サンタクロース」を、ちょっとミックスさせて考えてみよう!という試みなんです。

素人の戯言にすぎませんが、

もしも宜しければご一緒に、

楽しんで頂ければうれしいです~!

 

日本の風俗信仰として、

「まれびと信仰」というものがあります。

これを提唱したのは民俗学者の折口信夫。

柳田國男の高弟として、その世界では有名なお方です。

 

折口信夫は、

「来訪者に宿や食事を提供して歓待する風習」の根底にある思想を「まれびと信仰」と整理しました。

来訪者は、貴人であったり、商人であったり、ときには神様だったり。

来訪者は、貴種や財物、珍奇なもの、不思議なものなどをもたらします。

基本的に閉鎖的性質をもつ社会において、その社会の外部から来る来訪者は、とても価値のあるものをもたらしてくれる、そういう考え方があった、というものです。

 

大きくいえば「舶来品」などを有難がるのも、このような考え方の派生的なものなのかもしれません。

未だに「全米が泣いた!」という言葉が、本邦映画のキャッチフレーズになりうるのも、根底には同じような思想があるのかもしれませんね。

 

日本は島国だから!

島国根性だ!

閉鎖社会だ!

というご意見もあるかもしれませんが、

私は、

この「まれびと信仰」というものは、

「世界的な普遍性をもつ思想」なのでは?

と思ったりするのです。

 

めずらしいもの、

遠方のもの、

見たことも聞いたこともないもの。

 

これらに興味を持ち、それを得たいと願ってしまう、

これは、もしかしたら「人間の特性」そのものではないだろうか、と。

 

いや、よくわかりませんが、

だってですよ、

もしも人間が元々はお猿さんのお仲間で、

「木から下りて野原を歩き始めたのが人間の始まり」

だとするのであれば、

「木の上」という「比較的安全な場所」から、

「野原」という「危険極まりないところ」に移動したのは、

なぜ?

ということになりませんか?

食べ物を取得するためだけなら、

せめて食べ物を採った後は木の上に戻りましょうよ、と。

なんで、野原をぽとぽと歩き回るんでしょう?

 

私の勝手な偏見と独断に満ちた意見ですが、

それは「好奇心」だと思うのです。

「好奇心」が有り余っている者が、木から下りて野原を歩き出してしまった。

木の上に戻らず、野原を歩き回ってしまった。

 

めずらしいものが見たい。

めずらしいものが欲しい。

遠くまで行きたい。

見たことがない世界を見てみたい。

 

そんな困った者たちが木から下りだして、野原を歩き始めてしまった。

それが、人間になった。

 

もしも、もしもですよ、

それが人間のはじまり、と仮定するなら、

めずらしいもの、

遠方のもの、

見たことも聞いたこともないもの。

 こういったものに興味を持ち、

それを得たいと願ってしまうのは、

もう「人間の特性」であり、性(さが)そのもの、

ということになりそうですよね。

 

なので、その性が根底にある「まれびと信仰」は、

なにも日本人特有のものではない、

といえるのではないでしょうか?

 

というお話なんです。

今回の、お話しは。

 

すみません、前置きが長くなってしまいました。

つまり、

サンタクロースって、

来訪者であり、来訪神なんじゃないのかなあ?

ということを思ったわけです。

 

日本昔話の「笠地蔵(かさじぞう)」は、「まれびと信仰」を語ったお話だと思うのですが、この「笠地蔵」とサンタクロースは同じ性格をもつ者なのではないでしょうか?

 

ただ、ちょっと考えると違いもあります。

「笠地蔵」では、おじいさんが売れ残りの笠をお地蔵さんに被せてあげますよね。

これが「まれびと信仰」でいうところの「歓待」にあたるのでしょう。

これに対し、サンタクロースに対しては、こちらが何かをしてあげる、つまり「歓待する」という行為がありませんね。

サンタクロースが一方的に、子供たちにプレゼントを届けてくれる。

「来訪者を歓待する」という「まれびと信仰」における重要な要素が、抜けてしまっているのです。

 

ちょこちょこ調べてみました。

それで、なんとなく思ったんですけどね、

どうも、サンタクロースが訪れるのと、クリスマスパーティーには、なにやら関連性があるように、私には思えてきたのです。

「クリスマスパーティー」は、そのおおもとの起源を探っていくと、冬至のお祭り、つまり太陽の復活を願うお祭りだったように思われるんです。

そして、そのお祭りに現れる「来訪神」を「もてなすお祭り」という一面も、あったのではないでしょうか?

 

もしもその「来訪神」が「サンタクロース」の原型、であるのだとするのならば、「まれびと信仰」の「来訪者を歓待する」という重要ワードが、ここで符合することになりそうですよ。

「クリスマスパーティー」で「来訪神」を歓待する、のですね。

 

 これは私の勝手な推測ですが、

おそらく、「サンタクロース」や「クリスマスパーティー」は、キリスト教以前からあった土着的風習が、その原型だったのではないでしょうか?

いわば「まれびと信仰」的な風習が。

「見たことも聞いたこともない珍しいもの」をもたらしてくれる「来訪者」を、「大切に歓待する」という風習が。

その風習のうえにキリスト教の儀式がかぶさり、徐々に「クリスマスパーティー」の形式が整っていったのではないでしょうか?

 

そう考えてみると、キリスト教国でもない日本において、サンタクロースやクリスマスパーティーがもてはやされるのは、なんの不思議もないんだ、と思えるわけです。

なぜなら、そもそもこの国にも、「まれびと信仰」という思想があったからです。

「まれびと信仰」があったからこそ、それを土台として、サンタクロースやクリスマスパーティーがすんなりと定着した。

そう考えると、納得できるような気がします。

 

ですからね、もしも

「サンタクロース」が嫌でしたら「来訪神」と呼んでもいいし、

「クリスマスパーティー」が嫌なら「冬至の祭り」や「太陽の復活祭」と題しても、全く差し支えない、ということになりそうなんです。

 

さらにいえば、本来「冬至の祭り」であるのを「クリスマスパーティ」と称しているだけであるのなら、なにも12月24日にこだわる必要はなく、12月22日あたりに開催すれば、なんら問題ないわけです。

今年は12月22日から24日までが三連休ですね。

連休最終日が12月24日ですが、

できれば22日か23日にパーティをやってしまいたい、

そんなご要望もあるのではないでしょうか?

・・全く問題ないです!

「クリスマスパーティ」はもともと「冬至の祭り」「太陽の復活祭」であるのだ、と解釈するのであれば、ね。

お忙しい方々にとっては、とても便利で使い勝手の良い考え方ですよね!

私は、問題ないと思いますヨ!

皆さんは、いかがでしょうか?

 

 

f:id:kokubunzaka:20181220230304j:plain

 

な~んて、

クリスマスツリーを眺めながら、

そんな妄想をしてしまいました~!

 

でも、この妄想を保ちながら、

ユーミンの「恋人はサンタクロース」を口ずさむと・・

微妙なイメージが・・(笑)

失礼しました!

 

以上、雑文でした!

お読みいただきましてありがとうございました!!

 

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村