「忘年会」のシーズンですね。「無礼講」の難しさを考えます~!
今日は「忘年会」と「無礼講」のお話を。
1.「忘年会」とは?その意味や起源は?
・・「おや君も首を縊りたくなったのかい」
「いえ私の首じゃないんで。これもちょうど明ければ昨年の暮れのことでしかも先生と同日同刻くらいに起こった出来事ですからなおさら不思議に思われます。」
「こりゃ面白い」と迷亭も空也餅を頬張る。
「その日は向島の知人の家で忘年会兼合奏会がありまして、私もそれへヴァイオリンを携えて行きました。十五六人令嬢やら令夫人が集ってなかなか盛会で、近来の快事と思うくらいに万事が整っていました。」・・
「忘年会」。
上の文章は、夏目漱石の『吾輩は猫である』の一文です。
寒月君が迷亭先生に張り合って、不思議話を苦紗弥先生に披露するくだりですが、「忘年会」という用語が出てきますね。
この文章が書かれたのは1905年、日露戦争終期の頃です。
この頃にはすでに「忘年会」という用語が普通に使われていたみたいですね。
おそらく、人づきあいの嫌いな苦紗弥先生は、忘年会などというやっかいなものには決して行かないだろう、と推測されますが、寒月君や迷亭先生におかれましては「忘年会」武勇伝が、それはもう沢山出てきそうですよね。
さて、私はちょこちょこっとですが、
忘年会、行きますよ。
顧問先の会社にお呼ばれされたり、
司法書士会の所属委員会の忘年会に出席したり。
正直、行く前は苦紗弥先生といっしょで、
なんとか理由を付けて逃げ出せないものか・・
などと思ったりもするんですが、
行ってしまうと華やかな雰囲気で会話も弾み、
なかなか楽しくてお酒も飲んでしまったり。
もちろん、酩酊(迷亭?)するまでは飲みませんケド!
そして帰り道で、
ああ、今年も終わるんだ~としみじみするのが、
ちょっとすきですね。
それにしても、
なんで「忘年会」というのでしょう?
今年一年の嫌なことを忘れちゃいましょ!
水に流しちゃいましょ!
という感じですか?
忘れたいほど嫌なことはないですし、
仮にもしも嫌なことがあったとしたら、
みんなでわいわいお酒を飲んでも、
忘れるどころか不愉快になりそうですね、私だったら。
仮に嫌な一年だったとしたら、ひとりでしんみりと月でも見ながら、ゆったりとお酒を飲みたいですね。だとしても、忘れられないかな?乗り越えることはできるかもしれませんが。
もし、年の瀬に、みんなでわいわいとお酒を飲むのであれば、
「省年会」とか、
「懐年会」とかの方が良いのではないかなあ、
と思ったりしますが。
ところが、いろいろと調べてみたら、
この「忘年会」の「忘年」とは、
「一年を忘れること」ではなくて、
「老若の年を忘れる」こと、
すなわち、
「上下の年齢差を忘れて接する」、
という解釈があるみたいですね。(『老子』斉物論「忘年忘義、振於無竟」)
もし、ここから「忘年会の無礼講」が来ている、
というなら、なるほど意味がとおります。
納得ですね。
一年に一回、年の瀬の師匠も走り回る師走にて、
上下の礼を忘れて飲み明かす会、
それが忘年会。
へえ~、そう思うと、
なんだか忘年会もいいかなあ、なんて思えてきました。
いやいや、ちょっとまってください。
・・「無礼講」って、なんだか、あやしくないですか?
本当に、無礼講、なの?
本当に?
本当に、
お師匠様のおでこを、ぺちぺちっと叩いても、いいのですか?
・・だめですよね?
そうです、
無礼講とは「礼を無くす」のではなく、
普段の礼とは違う「無礼講の礼」を尽くすもの、
それが無礼講。
おそらく、そういうものだと思います。
字ずらで判断しちゃだめなんです。
苦紗弥先生が嫌がるのも、無理ないですね。
(苦紗弥先生、勝手に「忘年会嫌い」にして、すみません!)
なんだか、よくよく「無礼講」を考えてみると、
「無礼講」とは、最も難しい礼儀作法、
なのではあるまいか、と思えてきました。
そもそも「礼」とは、
春秋戦国時代に孔子が体系化した「秩序維持技法」だと思います。
それは、ざっくりいうと「相手の感情領域に踏み込まない」技、であり、形式化し汎用化することで、個別具体的な感情の棘(とげ)をまるめてしまう、感情の棘に触れないようにしよう、というものだと思います。
ーその状況ではこの儀式ー
ーこの立場ならこの言葉ー
と言った具合にすべて形式化、定型化して、人間関係を不用意に個別化させない、そういう技法なんだと思います。
なので、ある意味、「礼」を用いると楽なんですね。
定型化した対応をしておけばいいわけですから。
無難です。
ところが、
「それじゃ面白くない!」
「本当の心と心の交流がしたい!」
なんて意見が出てきたりするんだと思います。
「たまには、礼を排して真心で付き合いたい!」
なんて、ご意見でしょうか?
・・・でも、そうとはいっても、
やはり「何でもあり」ではないんです。
親しき中にも礼儀あり、
無礼講にも礼儀あり、
になるんです、やっぱり。
そもそも、無礼講という「老若の年を忘れる」という儀式は、若年層が熟年層に求めるものなのでしょうか?
・・あくまでも、私の個人的見解ですが、
逆のような気がします。
若年層が熟年層に向かって「たまには老若の年を忘れてお付き合いさせてくださいよ」ではなくて、
熟年層が若年層に「たまには老若の年を忘れるってことにして、その本音っていうのを語ってみせてよ」というものではないでしょうか?
(あくまでも、私見ですが・・)
そうすると、若年層的は困りますよね。
「本音を語れっていわれても、本音を語れるほどの人間関係の基盤は出来ていないし。ためぐちでいい、なんて言っているけど、ホントにためぐちにしたら気分を悪くしそうだし。そもそも、僕は別に本音で話したいと思わないし、本音を聞きたいとも思わないし。」
という感じではないでしょうか?
しかし、これをあからさまに言う訳にもいきませんしね。
さて、どうしましょう?
苦紗弥先生のように逃げ回るか、
それとも、なんとかして乗り切るか。
2.行かなきゃいけない「忘年会」を乗り切るには?
楽しい忘年会であればいいのですが、
苦痛な「無礼講」で、かつ、逃げることが出来そうにない場合、
どうしたらいいのでしょうか?
私の考える「無礼講」の乗り切り方は、
「聴くこと」に徹する、ですね。
「本音を聞きたい」と言ってはいても、
その本音は「自分の本音を聞いて欲しい」なんだと思うんです。
なので、
「え、本音、ですか?・・いやあ、本音っていうほど、私、あまり考えがなくって。
むしろ、●●さんのお考えを聞いてみたいです。いえ、ホントに、ホントですよ~」
といいつつ、取り敢えず頭はぼうっとしながらでも、相手の口の動きを見つめます。
食べ物や飲み物にはあまり手を付けず、ただただ、ぼうっと。
ちょっと大変ですが、よろしければ「傾聴」の練習だと思いながら。
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相手は、満足して「無礼講」を遂行できた!と喜んでくれるのではないでしょうか。
そうすることで、回避できない「無礼講」も、無事に無難に、乗り切ることが出来るかもしれません。
まあ、本来は、
そんな「無礼講」は、もうやめにしたらいいと思うんですが。
しかし、
ちょっと視点を変えてみて、
「もしも苦紗弥先生ではなく、
寒月君や迷亭先生であれば、
この無礼講を、どのように料理するのだろう?」
という、
そんな視点に立ってみたらどうでしょう?
面白いかもしれません。
寒月君はまだしも、
迷亭先生が「ただ聴いているだけ」ですむとは思えません。
いったい、なにを、
しでかしてしまうのでしょうか?
そんなことを空想したりしながら、
楽しみながら相手のお話をお聴き出来たら、
なおいいのかもしれませんね。
私はけっこう、楽しんでいます、
忘年会も無礼講も。
みなさんは、いかがですか?
というわけで、今回は、
「忘年会」のシーズンに、
「無礼講」の難しさを考える、でした!
みなさん、ありがとうございました!!